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zoom RSS 『プルーストによる人生改善法』 アラン・ド・ボトン

<<   作成日時 : 2011/10/06 00:00   >>

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プルーストに人生を学ぶ。

人生を愛するには。上手に苦しむには。よき友人になるには。幸福な恋をするには。本を読むのをやめるには。など9章に分けてハウツー本のパロディ形式でプルーストと『失われた時を求めて』について述べる。形式からわかるように肩肘張る必要は少しもなくて、『失われた時を求めて』を読んだ読者も未だの読者も(ちょうど新訳が刊行中だ)どちらであっても愉快に読める。既読の読者は著者のアプローチの仕方にきっと驚くだろうし、未読の読者にはよいプルースト入門になるのではないか。身近な問題を取り上げて軽妙に書かれているけれどもプルーストの生涯と作品を読み込まないとこうは書けないだろう。

最終章である「本をやめる方法」を取り上げる。これは一種の読書論だ。プルーストは両親の資産に頼って生涯働かず(数年ほど図書館に勤めているがほぼ欠勤している)、騒音防止のためコルク張りにした部屋で寒がりだったので何枚もの毛布をかぶって長大な小説の執筆に10年以上を費やした「隠者めいた作家」だ(とはいえパーティやオペラにたびたび外出している)。「一生を文学に賭けた男」であったから、彼は「本を真に受けすぎることの危険」を熟知していた。「文学をたいそう高尚なものと考えうる一方、優しく笑うこともできる」。これが彼の書物に対するスタンスだった。どういうことか。

暇つぶしの娯楽としてする以外に、読書には知識を得られる恩恵がある。優れた知性から新たなものの見かたや考えかたが学べる。これまで知らなかったこと、気づかなかったことを知識として得る。けれども著者がどれほどの頭脳や感性をもっていたとしても完全に満足はできない。読んでいて不満や違和感を覚えてしまう。なぜか。答えは単純で著者がわたし自身ではないからだ。プルーストは一時期英国の評論家ジョン・ラスキンの著作に夢中になり、6年かけて彼の著書を学究的な注釈を並べてきわめて正確に翻訳した。しかし彼に満足したわけではなかった。ラスキンほどの人物であっても、しばしば「愚か、偏執的、窮屈、偽り、滑稽」になると見なした。プルーストは読書という行為を以下のように考えていた。

読書が私たちにとって扇動者であるかぎり、すなわち私たちの深奥にある、自分ではどう入ればいいのかわからない様々な住処への扉を開く魔法の鍵の持ち主であるかぎり、人生において読書は有益な役割を果たす。一方、読書が危険となる場合もある。読書が精神の個人的営みを啓発する代わりに、個人的営みに取って代わるときがそうだ。真実がもはや理想――私たち自身の考えの深い進歩や、私たち自身の心の努力によってしか実現できない理想――とは思えなくなり、真実がいまや物質的な、本のページとページのあいだに預けうるものに思えたとき。真実があたかも、他人がすっかり用意してくれた蜂蜜のごとく、図書館で棚の上から取り降ろす手間さえかければ入手でき、あとは、自身の精神と身体はまったき休止状態のままで、受動的に味わえるものに思えたとき。


要するに自分の頭で考えながら読まないと過ちを犯してしまうというのだ(ショーペンハウアーも似たことを述べている)。ではどのような過ちを犯すというのか。
たとえば作家を偶像視してしまう。ある作家の洞察力が優れているからといって彼に人生問題を相談するのは実際有効なのだろうか。ある問題に関しては頭脳明晰だとしても、ほかの問題(進路、就職、転職、結婚、離婚、金銭問題、家庭問題などなど)に関してもそうだとは言い切れない。プルーストは少年時代にテオフィール・ゴーチエに心酔していたが、彼に自身の進路について相談したら完璧な答えが得られただろうか。相談するなら両親や学校の教師のほうがよいだろう。作家の言葉は神託ではない。

また、よい本に出会うとときに人は沈黙する。内容が完璧に思えて自分の考える余地などないように思えてしまう。自分が考えうる以上のことがここには書いてあると思い込んでしまう。プルーストを読んだ直後のヴァージニア・ウルフがまさしくそうで、彼女は『失われた時を求めて』を読んで圧倒され、作家として自分が書くべきことなどもはやないのだと絶望してしまう。プルーストのあとに書けるものなんて果たして残っているのかと彼女は嘆かずにはいられなかった。自作をプルーストと比較して「くずのようなもの」と思い、書けなくなってしまう。日記にはこう書いた。

夕食後、プルーストを手に取り、下に置く。これが、最悪の時だ。自殺したくなる。やるべきことはもう残っていない気がする。何もかもが無味乾燥で、価値がないように思える。


『ダロウェイ夫人』、『灯台へ』を書いた作家が沈黙の一歩手前まで追い詰められる。他人の優れた業績はほかの人間の業績を無にするのか。プルーストにはプルーストの領分があり、ウルフにはウルフの領分があるのではないか。他人が何かしたあとでもうすることが何も残っていないなどということは決してない。『ダロウェイ夫人』の夜会の場面がプルーストに比べて劣っているだろうか、管理人はそうは思わない、というか比較すべきものではないのだろう。
これは作家の例だけれども、ものを書かない人間であっても考えることを放棄したくなるような場合があるかもしれない。自分の求めていた答えはこの本のなかにあると思い込み、それ以上進まなくてよいと誤解してしまうような場合が。それを書いたのは彼ではなくて他人だというのに。他人によって自身の求めるものが完全に満たされるなどということが果たしてあり得るのか。

作家を偶像化して崇拝するのも、聖地巡礼に赴くのも(小説の舞台はイリエ=コンブレーだ)ともに健全ではない、と述べたあとで著者はこう続ける。

プルーストに最大の敬意を払う方法は、彼がラスキンに下した裁断を、我々がプルーストに対して下すことだ。すなわち、それによってあまりにも長い時間を費やす者にとっては、プルーストの作品もまた、あらゆる美質にもかかわらず、結局はつまらなくて、偏執狂的で、窮屈で、偽りで、滑稽なものにならざるを得ない、と。


管理人はまさしくこの過ちをかつて犯していて、以前ドストエフスキーに夢中になったときに彼を読んでいくにつれて(宗教や民族に関して)狭量でありしかも思い込みが激しいのに嫌気が差して離れてしまったのだけれども、それは彼を偶像視していたからだといまになって思う。だから許せなかったのだと。それを受け入れるのに時間が要ったのは読者としての自分の未熟さだと自覚している。他人の著作に不満があって当然ではないか、なぜならば彼はわたしではないのだから。本書は再読になるが、かつてしていた不健全な読書を省みるよい機会になった。自身の領域を読書に侵されてはならない、明け渡してはならない。たとえ他人より劣っている自分であったとしても、だ。

著者は本書をこう締めくくっている。

最高の書物も、捨てるに値するのだ。


4560046646プルーストによる人生改善法
アラン・ド ボトン Alain De Botton
白水社 1999-01

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大学に入ってすぐにプルーストはすごいらしいと知って『失われた時』を初めて手にとりました。しかし、いままで読んだことのない細かさで遅々として物語が進まない独特の文体に困惑し、読み進められませんでした。その後、プルーストの何がいいのか、文学者のエッセイや文学案内などでいくつか読みましたが、どれも断片的だったり玄人向けだったりして「これは」と思うものはありませんでした。

そんなときに私も本書を読んで、プルーストの文学がなぜひろく読まれるに値するのか腑に落ちた経験があります。私は本書のシャルダンの絵の美しさを書いてる箇所が印象に残りました。私も本が好きですが、本による弊害も身にしみることがしばしばあります。本書の最終章にかかれたことは繰り返し思い出そうと思います。
たれぞう
2014/01/18 13:34
>たれぞうさん

プルーストを読んで認識が深まる、そういうこともあるかもしれません。

epi
2014/01/20 10:43

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