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zoom RSS 『ある婦人の肖像』 ヘンリー・ジェイムズ

<<   作成日時 : 2012/02/29 00:00   >>

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夢の終わり、あるいは現実のはじまり。

両親を亡くしたアメリカ娘のイザベルは伯母にすすめられて彼女や従兄ラルフが暮らすイギリスへと渡る。知的で美しいイザベルはたちまちイギリスの人たちを魅了し、なかでも貴族のウォーバトン卿は彼女を熱烈に愛するようになり求婚する。しかしイザベルはまだ結婚したくはなかった。自由を愛する彼女は自分の目でもっとヨーロッパを見たいと望んでいたのだ。伯父がイザベルに多額の遺産を残して亡くなり、資金を得た彼女は誰もが羨むような貴族の求婚を断ってヨーロッパ旅行に出る。パリへ、そしてローマへ。イザベルはローマでオズモンドという中年の男と出会う。これといった肩書きはない、暮らしも貧しい、もっているものといったら15歳になる娘のパンジーだけ。けれどもイザベルはオズモンドこそ高邁な精神の持ち主だと信じて、周囲の反対を押しきって彼と結婚する。この結婚は失敗だった。妻を所有物のようにしか思わないオズモンドにイザベルは幻滅し、夫婦の関係は冷えきっていく。夫は彼女が思っていたような高邁な精神の持ち主などでは全然なく、利己心と虚栄心の塊のような腐った人間だった。イザベルの周囲の人たちは彼女が結婚によって不幸になったのを見てとる、そのなかには離婚をすすめるのや今もまだ彼女を愛していると告白するのがいる。しかしイザベルは自らの無知、自らの傲慢さ――彼女の結婚に周囲は反対したのに彼女はそれをはねつけたのだから――を反省こそすれ離婚には踏みきらない。自身が選択したことの責任を負わねばならないという強い倫理観が(あるいはただの強情さかもしれない。その点について著者は述べない)彼女にはあったから。そんな彼女を従兄のラルフはずっと見守っていた。けれども病弱な彼はイギリスで死にかけている。イザベルは夫の反対を押しきってイギリスへ戻りラルフを見舞う――その邸は彼と彼女がはじめて出会った場所だった。イザベルへの愛を告白してラルフは死に、彼女は不幸しか待っていないだろうローマへと帰る。

1843年にアメリカに生まれのちイギリスに渡ったヘンリー・ジェイムズは新大陸アメリカと旧大陸ヨーロッパの文明、生活、習慣の相違を主題にした作品を多く執筆した。創作活動は便宜上3つの時期に分けられる。初期では上述の国際状況を扱い、さまざまな主題を実験的な手法で扱ったり劇作に挑戦した中期を経てふたたび国際状況を扱った――円熟した作家がより深化したかたちで――後期。本作『ある婦人の肖像』は初期の代表作といわれ、アメリカとヨーロッパの相違がイザベルと彼女を取り巻く人たちを中心にして描かれる。

イザベルは見聞を広め、さまざまな経験を積んで自身を豊かにしようと望んでいた。本作を一人のアメリカ娘、まだ何者でもないアメリカ娘が成功や失敗を経たのち一人の淑女になっていく教養小説として読むことも可能だろう。若さゆえの、あるいは無知ゆえの傲慢さから彼女は結婚相手の選択を誤る。周囲は反対したのに彼女は自身の自由を行使したのだ、それが過ちであったとしても決して非難されるべき過ちではない。夫に幻滅し結婚生活に失望した彼女は終盤でさらに酷い――醜い――現実に直面するが、そうした悲惨な運命を用意することで、著者は自由を尊ぶアメリカ的気質の欠点を浮き彫りにしている。イザベルがオズモンドを選択したとき、彼女は彼を愛していると思った(そこには複雑な自己犠牲的な感情もあったが)。ウォーバトン卿のときは違う。彼を好きではある、けれども愛してはいなかった。自らの意思で結婚相手を選んで彼女は失敗するのだが、では周囲のすすめるように貴族と結婚すればよかったのか。ヨーロッパの伝統を象徴するようなタチェット夫妻の冷めた結婚生活を見ると――彼らもアメリカ出身なのだが――それが正しいともいいきれないところがある。感情による選択と理性による選択の対比。何が正しくて何が誤りなのか、一度しか生きられない人間には知る術はない。

アメリカ人女性記者を除けば有閑階級の人間しか登場せず、物語の中核をなすのはイザベルの結婚問題しかない小説なのに――なのにといういいかたは妙かもしれないが――とてもおもしろく読め、読み終えたあとには人が生きていくことの悲哀が余韻を残す、素晴らしい作品だった。著者は細かく登場人物一人ひとりの心理の襞に分け入り彼らの胸中を読者に見せる、われわれが日常では見落としたり意識せずにいるような心の動きを精妙に描きだす。登場人物はみな個性があり誰かと誰かを混同することはない。イザベル、従兄ラルフ、タチェット夫妻、ウォーバトン卿、女性記者ヘンリエッタと彼女の「友人」バントリング、求婚者グッドウッド、洗練の権化マダム・マール、夫オズモンド、義妹ジェミニ伯爵夫人、義理の娘パンジーと彼女を熱烈に愛するロウジア、みな個性的であり長所と短所をもっている、われわれと同じように。物語は決して早いテンポでは進まないが緩急がついており退屈しない。ユーモラスなやりとりのあとに息詰まるような心理戦がある。終盤で明かされるオズモンドの過去の行状のあまりの醜さには息を呑む(文庫カバー折り返しの梗概は読まないほうが楽しめる)。登場人物たちのウィットに富んだ、あるいは辛辣さを裏に隠したやりとりも楽しい。停滞感なく一気に最後まで読ませるこの小説は、管理人に――比較対象として適当かどうかはともかくとして――ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んだときのような感動を与えてくれた。たとえば第45章でそれまで父オズモンドの人形のようでしかなかった娘パンジーが叶わない恋心を吐露する場面(「ロウジアさんは貴族のように見えますわ」)や第48章で今のあなたは不幸でありあなたのためにできることなら自分は何であろうと命をかけてすると数年越しの想いを告白するグッドウッドに心を動かされた(と思われる)イザベルが、顔を扇で隠しながら他人に言えるぎりぎりの範囲で自分の現在の境遇を伝える場面(「命をかけていただかなくてもいいですから、時どき同情してください」)などはその静かな迫力に読んでいて溜息が出た。「貧乏を味わったことがなく、激しい恋愛経験もなく、生涯独身であり、外的に派手な事件のない一生を送った」作家のここまで深く女性の心理を分析し、ここまで優雅かつ繊細な小説をものした凄まじいような想像力に驚嘆する。

とはいえいくつか物足りない点もあるので、その一つは「宙ぶらん」な結末だ。イザベルの意図は明白でなく(曖昧さはジェイムズ文学の特徴だ)夫とこのままの結婚生活を続けるのか、対決してでも変えていくつもりなのか、別れるつもりなのか、判然としない。パンジーの結婚問題も未解決のままであり(管理人は彼女にロウジアと結婚してほしい――それが義母の愚を繰り返すことになろうとも)小説は終わったが物語は終わっていない、という印象を受ける。せめてイザベルから想像のヒントになるような一言が欲しかった。二つめは訳者も指摘しているがイザベルが結婚生活で挫折していく過程が省かれてしまっている点だ。夫との不和の経緯や生まれた子どもの死についての記述がほとんどないのはこの小説の欠点ではないだろうか。三つめはイザベルがオズモンドと結婚の決意をした際に彼の前妻についてほとんど考慮していない点でこれは少し不自然に思える。その記述があればクライマックスもよりミステリ的な意味での興奮があったのではないか。

けれども上記の三点を補って余りあるほどの魅力が本作にはある。好奇心旺盛なイザベルがロマンチックな夢を実現するのに伯父の遺産が必要だったとわざわざ設定するジェイムズのリアリズムがいい。金と愛の問題はこの小説のなかで幾度も言及されるだろう。ジェイムズを読むと彼と夏目漱石の関連性がよくわかる。漱石が『肖像』を読んでいたかどうかは知らないが(漱石は後期の長編を読んで「ジェイムズは手に負えぬ」と述べたという)『虞美人草』や『それから』や『明暗』の萌芽がこのなかには含まれている。

無垢なイザベルは挫折を経てオズモンド夫人として成熟するだろう。6年のあいだに彼女がどれほど変化したことか。ロマンチックな夢は冷厳な現実に砕かれた。けれども淑女となった彼女の言動の端々から、読者はまだ彼女が頽廃した精神にスポイルされてしまってはいないのだと知る。夢は砕かれてもその欠片はまだ輝いているのだと。

「あなたはロマンチックな人生を送れる気でいるでしょう。自分も喜び、他人も喜ばせるような人生が送れると思っているでしょう、ね? それが間違いだと分るでしょうよ。どういう人生を送るにしても、それに成功するつもりなら、本腰を入れなくてはいけないでしょ。そして本腰を入れてやれば、もうロマンチックなんてものではなくなるのよ」


主人公イザベルには『鳩の翼』のヒロインと同じく、若くして病死した著者の従妹が投影されているという。



400323135Xある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)
ヘンリー・ジェイムズ 行方 昭夫
岩波書店 1996-12-16

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ヘンリー・ジェイムズ 行方 昭夫
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