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zoom RSS 『老年について』 キケロー

<<   作成日時 : 2012/03/15 00:00   >>

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人生指南。

紀元前150年、ローマの政治家大カトーが、小スキーピオーとその友人ラエリウスに老いと死について語る対話篇。すでに大カトーは84歳。彼の口を借りてキケローの人生観が述べられる。

若い二人は問う。大カトーよ、誰もが老いてやがては死ぬ、この道のりを易くする知恵はあるだろうか。大カトーは答える、老いを嘆く者がいて老いを恵みとして受け入れている者もいる。両者の違いは何であるか、分析してみよう。

老いが惨めと思われる理由を大カトーは4つに分類する。
1.老年は公の活動から遠ざかるから。
2.老年は肉体を弱くするから。
3.老年はほとんどすべての快楽を奪い去るから。
4・老年は死に近いから。
これら4つの理由についてそれが正当であるか否か、大カトーは自身の経験、知識に照らして検証していく。

1.老年は公の活動から遠ざかるから。
たしかに老人は若者のようには活動できないかもしれないが、老人には老人の活動の仕方がある。肉体の力、速さ、俊敏さではなく、思慮・権威・見識で事業はなしとげられる。ソフォクレスは90歳で悲劇を書いた。家族は、執筆に夢中で家政をおろそかにする彼を見て呆けたと思い、禁治産者宣告をしようとしたところ、『コロノスのオイディプス』を仕上げた詩人はそれを裁判官のまえで読み上げて、この詩が呆け老人の作と見えるか、と尋ねたという。ホメロスもヘシオドスもプラトンもゼノンもみな老いたからといって沈黙しただろうか。ソクラテスは子どもたちに混じって竪琴を習った。こうした人々は別格だというのなら農夫が木を植えることも立派に活動といえる。老いても農夫は木を植える、なぜ植えるのか、その木が育つころにはおまえは死んでいるではないかと言われたら、彼はこう答えるだろう、「子孫のために植えている、先祖がわたしにそうしてくれたように」。活動など仕方しだいでいくらでもある。

2.老年は肉体を弱くするから。
たしかにわしには若いおまえたち二人ほどの体力はない。しかしおまえたちとて、何とかという百人隊長ほどの体力はないだろう。肩に雄牛を担いでオリュンピアの競技路を歩いたミローンの体力と、ピュタゴラスの知力とどちらが欲しい。つまり、あるときはそれを充分に活用すればよいが、なくなったのならそれを求めないようにするがいいのだ。老年の体力の衰えは若いころの不摂生の結果である場合が多い。若いうちから健康に気を配り、ほどよい運動、適量の食事を心がけよ。肉体とともに精神も労われ。肉体は鍛錬して疲れるほど重くなるが、心は鍛錬すればするほど軽くなる。肉体は老いても心もともに老いるとは限らない。

3.老年はほとんどすべての快楽を奪い去るから。
性欲から逃れられるとはこんなにありがたい恵みはない。古人は述べている、あらゆる悪――祖国への裏切り、国家の転覆、敵との密談――は肉体の快楽から生まれるのだと。欲望に衝き動かされれば自制は効かぬし、なにひとつ理性をはたらかせることもできない。一時の情欲に駆られて人生を台無しにしてしまった人間がどれほどいることか。老いたソフォクレスは人に色事について訊かれると、「ようやくそれから逃れて喜んでいるところだ」と答えたという。では老年の快楽はといえば趣味だ。小スキーピオーよ、おまえの父親は天体観測に夢中だったな。肉体の快楽から遠ざかっても、知性の快楽はそうではない。賢者ソロンは言った、「自分は日々多くを学び加えつつ老いていく」と。
また農夫たちにも快楽がある。実際、農事ほどの楽しみがあろうか。これはいかなる老年にも妨げられぬし、賢者の生き方にもっとも近いものに見える。

4.老年は死に近いから。
ああ、老年までに死を軽んずることを学ばなかった者こそ不幸だ。なぜなら死とは魂が永遠になるのなら恐れなくてよいし、消滅するのなら無視してよいからだ。とはいえいかなる者が、今日の夕方までも生きられると断言するのか。青年とて老人と同じように死の危険に囲まれている。すべては流れゆく。徳と善き行いによって達成したことだけが残る。人はみな、生きるべく与えられた時間に満足しなくてはならぬ。
死後の感覚は待ち望むべきものか、まったく存在しないかだ。しかし死を恐れぬよう若いときから心の平静を保つ練習をしておくべきだ。いつ死ぬかはわからない、けれども四六時中死について考えていたのでは、どうして心をしっかりと保つことができよう。
人生にはどんな利点があるか。というより、どんな苦労がないであろうか。確かに利点があるにしても、必ずや飽和か限度がある。多くの、それも学識ある人たちが繰り返し行ったことだが、生を嘆くのはわしの気に染まぬ。また、生きたことに不満を覚えるものでもない。無駄に生まれてきたと考えずに済むような生き方をしてきたからな。そしてわしは、わが家からではなく旅の宿から立ち去るようにこの世を去る。自然はわれわれに、住みつくためではなく仮の宿りのために旅籠を下さったのだから。


以上が要約。大カトー(=キケロー)は老いを嘆くものではないという。老年には老年のよさがあるのだという。しかしここで付言したいのは、そうしたよき老年はそれまでの積み重ねがあってこそのものだということだ。健康にせよ、快楽にせよ、よき青年期、壮年期を送ってこなかった者には得られない。老年期とはいわば収穫期であり、それまでに種蒔きと水やりがあって、そうして熟した果実をを味わう時期なのだ。だから大カトーは青年期から健康に気を配れ、精神の鍛錬を怠るなと言い、趣味を見つけておけとも言っている。若者二人に老人が語るという形式どおりに、内容も老年期以前の者向けになっているように思える。

とてもよい書物だと思った。引用される故事の例がどれも楽しそうなのがいい。とはいえこれはフィクションであって、たとえば大カトーはもはや色事に興味をなくしてそれを喜んでもいるようだが実際には80歳で次男をもうけており老年だからといって枯れてはいなかったようだ。では作者キケローのほうはというとカエサルによるイタリアの内乱、政界復帰の絶望、愛娘の死、そして自らは暗殺と苦難多き晩年だった。紀元前44年のカエサル暗殺による戦争勃発の危機には怒り、自らが執筆した『老年について』を読み返さなくてはと友人宛書簡に記している。こうした背景を知るとなおのこと本作に愛着が湧く。これはひとつの夢、キケローが大カトーに語らせた自身の夢だったのではないか。愛娘を亡くして、キケローは自宅で慰めの文学を読まなかったものはないというほどに読んだという。大カトーは死について語るとき、死んで魂が永遠になるのなら、死んだ息子に会えるのだから待ち望んでいると言う。これは愛娘を亡くした作者キケローの思いを語らせたものだろう。

わしにとっての老年は軽いのだ。そして煩わしくないどころか、喜ばしくさえあるのだ。しかしもし、わしが人間の魂は不死だと信じるのが間違いだというなら、進んで間違っていたいし、喜びの源泉であるこの間違いを、生きている限りわしから捥ぎ取ってもらいたくないものだ。


死というとネガティブなイメージはどうしても拭えない。けれども死とはすなわち生であり、いかに死ぬかということは畢竟いかに生きるかということに他ならない。そして願わくば、その瞬間には涙より微笑が欲しい。

誰もわたしを涙で飾ってくれるな、葬いも
泣きながらはやめてくれ

エンニウス 『エピグラム』




4003361121老年について (岩波文庫)
キケロー 中務 哲郎
岩波書店 2004-01-16

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