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zoom RSS 『紅い花 他四篇』 ガルシン

<<   作成日時 : 2012/03/17 00:00   >>

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「悪」と戦う。

ダリヤ、バラ、ツクバネ、朝顔。精神病院の庭は患者たちの手で植えられた花々で鮮やかに彩られていた。その庭の片隅に三輪のケシが咲いている。患者の一人、入院したての若者は窓に顔を押しつけてその真紅の花を見つめ、不穏を感じる。散歩の時間に庭に出るとそばに近づき観察する。ケシは人命を奪うような毒気を発散して、見ていると眩暈がしてきた。間違いない、と若者は確信する。これこそが「悪」だ。監視の目を盗んで三輪のうちのひとつを引っこ抜く。若者は思う、この花には世界中の悪が集まっており、人の血を吸っているからこんなにも真紅なのだ、と。これを打倒しなくてはならない、己の命と引き換えにしてでも。花が発散する毒は自分が受ける、耐える。世界にばら撒かせるわけにはいかない。一輪は抜いたもののまだ二輪残っている。この「悪」との闘争に、ただでさえ弱っていた若者の体力が奪われていく。二輪めを花壇から引っこ抜いたときには体重が40キロに満たなくなっていた。規則を犯して花壇を荒らす若者を職員たちは拘束する。しかし夜になって隙を見るとうまく抜け出し、命を削るようにして花壇まで辿りつき、僅かに残っていた力を振り絞って最後の一輪を引き抜く。

「紅い花」は狂気に憑かれた人間が正義のために「悪」と戦い破滅するという、かなしくも怖ろしい物語だ。これは著者ガルシンが精神病院に入院したときの体験をもとにしている。ガルシンは少年期から生涯にわたって精神疾患に悩まされ続けた。「信号」で登場人物の一人は言う――
「うんにゃ、お前や俺の一生を台なしにしやがるのは、運勢なんてもんじゃあねえ、人間どもなんだ。まったくこの世の中に、人間ほど強欲で性の悪い獣はねえよ。狼は共喰いなんかしねえが、人間と来た日にゃ生き身の人間をぼりぼり喰うんだ」

繊細で過敏な神経の持ち主が外界と接触して受けた異様な印象、圧迫感、恐怖があるいは作家を悪く刺激したのだろう。1877年、作家は露土戦争に従軍し二度の戦闘を体験している。同年8月に負傷して離脱、このときの経験が「四日間」に結実するが、ここには厭戦の気配が濃い。親交のあった画家ヴェレシチャーギンの生々しい戦争画から強烈な印象を受けたという挿話を訳者はあとがきで紹介されている。

「紅い花」は痛ましい。正義の戦いは狂者の妄想でしかない。彼は正義のためと思っているが、周囲の正気の者たちはそんな彼の主張を顧みない。職員たちが彼を拘束するのはそれが規則を犯しているからという理由でしかない。そして「悪」の花は人の血を吸ってあんなにも真紅に咲き誇っている。正義も悪も相対的なものだろう。しかしガルシンはさらに先まで踏み込む。人類を救うつもりで戦う者が狂者であるという苦いアイロニー。正義を主張するのは狂気でしかありえない、そういう確信が作家にあったのではないか。

本書にはほかに、露土戦争に取材した「四日間」、人間の善性を歌い上げる「信号」、そして童話形式の「夢がたり」「アッタレーア・プリンケプス」を収める。「四日間」は何の恨みもない人間を殺さなくてはならない戦争というものが、いかに空しいかを短い分量のうちに凝縮した佳作だ。殺したトルコ兵が遺した水筒のおかげで語り手が救われるというユーモアがいい。「信号」「夢がたり」もよいものだが、「アッタレーア・プリンケプス」の悲痛さといったらない。これは遥か大空に自由があると信じてそこを目指して伸びようとする棕櫚の物語で、その奮闘、その挫折は読んでいて身体的な苦痛を感じた。童話形式であるからこそ表現できるかなしみがある。

1888年3月、入院していた精神病院の階段から飛び降りてガルシンは世を去る。33年の生涯だった。



4003262115紅い花 他四篇 (岩波文庫)
ガルシン 神西 清
岩波書店 2006-11-16

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