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zoom RSS 『ソクラテスの弁明・クリトン』 プラトン

<<   作成日時 : 2012/03/19 23:22   >>

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この人を見よ。

紀元前399年のアテナイ。「若者を堕落させ、国家の崇める神々を崇めず別の新奇な神格を崇めている」としてソクラテスは訴えられる。「弁明」はこの裁判におけるソクラテスの対抗弁論を記述する。

ソクラテスは述べる。かつてデルポイ神殿で神の託宣を求めると、「ソクラテス以上に賢い者はいない」と下った。わたしはその意味を知りたくて賢いと言われる人を訪ねては対話した。しかし誰もがわたしに論破される。そのうちわたしに備わっている知の見当がつくようになった。それは、わたしは自分が何も知らないということを知っている(「無知の知」)、ということだ。賢いと言われる人たちは本当は違うのに自分は知っていると思っている、しかしわたしは知らないと知っている。対話を重ね相手を論破していけばいくほどわたしに憎しみを抱く人間は増えていった。かといってこれを止すわけにはいかない、ダイモーン(神霊)がそうせよと命じているのだ。青年を堕落させたと言うが、わたしは彼らに、身体や金の問題よりも魂をよくすることを第一に考えろと説いただけだ。それが堕落させたということになるのか。彼らから金をとったこともない。貧しい暮らしをずっとしている。今日のこの裁判で命乞いをするつもりはない、死を恐れてもいない。死を恐れるのは知者のすることではない。誰も死について知らないのになぜ恐れなくてはいけないのか、それこそ知らないのに知っていると思う、あのもっとも恥ずべき無知であるだろう。何を言われようと知の探求を止めはしない、それはダイモーンの命令であるから。そしてわたしがしていることは生の吟味であって、吟味を欠いた生など生きるに値しないのだ。

しかし判決はソクラテスの有罪だった。彼はそれを受け入れて述べる。善良な人間には生きている間も死んでからも何一つ悪いこともなければ、彼のことが神によってないがしろにされることもない。わたしは死ぬために、あなたがたは生き続けるためにここから出て行く。われわれのどちらが善いものに向かっているのか、神だけがご存知だろう。


「クリトン」は処刑前日、牢屋にいるソクラテスを親友クリトンが訪ねる。クリトンはソクラテスを脱獄させ、国外に逃亡させる救出計画を実行しようとしている。しかしソクラテスは親友の説得に応じない。なぜと問うクリトンにソクラテスは答える。生きてさえいればよいというのではない、善く、正しく生きなければ生の意味はない。善い生、正しい生はすなわち幸福な生だ。しかし正しく生きようと望む者が、国法が死刑と定めたのにそれを破ってよいものだろうか。不正は不正を行う者にとって害悪となる。恥辱となる。恥ずべき生すなわち不幸な生である。それに、仮に外国に逃れてもわたしがするのはアテナイでと同じ、善き生の探求だ。しかし法を破った人間が善や徳について述べることができるだろうか。誰が耳を貸すだろう。わたしは法の裁きに従って死ぬことを望む。それがわたし個人にとっては不正と感じられる法の裁きだったとしても。

クリトンはソクラテスに反論できない。何か言うことはあるかと問われて、クリトンはもう何も言うことはないと説得を諦める。ではこのままにしよう、このまま神の導きに従おう、とソクラテスが述べて対話篇は終わる。


「弁明」「クリトン」の二篇ともプラトン最初期の作品であり、ソクラテスの刑死後まもなく書かれたと推定されている。執筆の動機にはソクラテスの汚名をそそぐという意味もあったのだろう、ここで描かれるソクラテスのなんと気高いことか。「大事なのは生きることではなくて善く生きることだ」はソクラテスの有名な言葉であり、それを彼は身をもって示した。「弁明」「クリトン」ともに10年以上ぶりに再読したが(最近こればかり言っている気がする)以前は信念に殉じた哲人を立派な人だなあと漠然と仰ぎ見ただけだったのが、年を経ると仰ぎ見るのは以前と変わらずとも、信念を貫きとおすことの困難がわかるだけに羨望とも憧憬ともいえない溜息が出る。会社勤めをしていれば信念を貫きとおすなど困難を通り越して不可能に近い、そういう生きかたしかできない不甲斐ない自身を顧みるともういけない。いや、そもそも信念があるかどうかすら怪しいではないか。

本書でとくに注目したいのは「クリトン」におけるソクラテスの「不正なこと」の捉えかただ。ソクラテスは不正なこと――この場合は国法を破って脱獄すること――は自分の害悪になるからすべきでないと言う。平生われわれはむしろ不正は相手の害悪になると考えないだろうか。相手の迷惑になる、相手を傷つけてしまうと。しかしソクラテスにとっては、不正なことをすると彼自身の生に傷がつくというのだ。噛み砕いて言うと、不正をするのは恥ずかしいことだというのだ。そういうことを重ねていくうちに彼の生はどんどん傷ついていく。善き生から離れていく。しかし善く生きなければ生きる意味はない。だから不正は自分のためにするなと言う。ドストエフスキーの『罪と罰』のある場面が想起される。二人の女を殺した、とラスコーリニコフの告白を聞いてソーニャは叫ぶ。「なぜあなたはそんな、自分を駄目にするようなことをしたの!」彼は答える。ぼくは老婆を殺したんじゃない、あの部屋で自分を殺してしまったのだ、と。つまりはそういうこと、不正を犯すとは自分を駄目にすること、自分を殺害することに他ならないのだ。

本書を読むと、わかるわからないと安易に言えなくなる。わかるとは何か、わからないとは何か。ソクラテスは知らないことを知っていると言うのに、なぜ徳のある人生こそ本当の人生だと「わかる」のか。それがわからない。かといって無視もできない。ソクラテスが探求するのが善き生である以上、彼に無縁の人間など一人もいないのだから。

私たちが「クリトン」のような古典を読んでそれが理解できない時、私たちはその書物を離れることもあれば、その書物をほどほどに理解しておこうとすることもある。ほどほどにとは、あまり徹底的にではなくということで、たとえばプラトンの時代と私たちの時代とは社会も思想も違うのだから、プラトンと私たちの考えが違うのは仕方ないことにしておこうと考える読書態度のことである。だがこのような態度は、もの分かりが良いように見えて、その実ごまかしの読書でしかない。書物を読む以上は、その書物を探求しなければならない。

『クリトン』解題


ソクラテスの幸福と不幸が私たちのそれとかけ離れたものに見えたり、ソクラテスという人間が私たちとは異なった特別な人間に見えるとすれば、それはおそらく、私たちがまだソクラテスを理解できないでいることの証拠である。しかしそれは、私たちがいつまでもソクラテスを理解できないということを意味しない。私たちがソクラテスの言葉や行動に驚きを感じ、ソクラテスを謎の人と思うのは、私たちがソクラテスに何らかの関心を持っていることの証拠である。そしてそれは、私たちとソクラテスが深いところでつながっていることの証拠でもある。この意味で、ソクラテスの特異性は普遍性にほかならない。ただ、何についても言えることだが、優れたものを見ることには多少の困難が伴わない、多少の努力が必要であるというだけのことなのである。

『クリトン』解題



付録としてクセノフォンによる「ソクラテスの弁明」が付いている。訳注、解題ともに充実している。

4061593161ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫)
プラトン 三嶋 輝夫
講談社 1998-02-10

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