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zoom RSS 『山椒大夫・高瀬舟』 森鴎外

<<   作成日時 : 2012/03/20 00:00   >>

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現代文学としての鴎外。

平安時代。越後国に4人の旅人の姿があった。筑紫に左遷させられた平正氏のもとへと向かう一家で、その妻と、安寿、厨子王の二人の子ども、それから女中だった。4人は橋のたもとで野宿することになり、そこへ船乗りがやって来て声をかける。船乗りが言うには、ここらには人攫いが出るからうちへ来て休むといい。子どもたちの母親が事情を話すと、明日になったら船に乗せて行ってやると言う。4人はその言葉に甘えるが実は船乗りこそ人攫いであって、翌日越中境まで船で行くと4人は売られ、母親と子どもたちは引き離される。子どもたちは京都で山椒大夫という男に買われ奴隷になる。両親の消息は知れず、彼ら自身の将来も覚束ない。互いを慰め合いながら季節を越したある日、姉の安寿は弟の厨子王を逃亡させる。彼女自身を犠牲にして。

以上が「山椒大夫」の筋だ。この短篇は中学生のときに一度読んだきりで、もう20年近くも前のことであれば初めて読むのと変わりない。中学生にはずいぶん難しかっただろうと思う、記憶も残っていない。このたび読んでそこに描かれる、運命を甘受する小さき者たちの悲哀が胸に苦しかった。この悲哀を涙で汚したくないと、それを堪えて歯を食いしばるようにして読んだ。

この短篇では安寿の犠牲の意味が問われる。彼女は自らは残り、それまでお守りとして肌身離さず持っていた身代わり地蔵を厨子王に渡す。これでは姉さんに危険が及ぶかもしれないと弟は返そうとするのに、おまえのほうが危険なのだからとこれを拒む。そのお陰があったのか厨子王は山椒大夫の追手の者たちから逃れきる。しかし安寿は。彼女の小さな履物は沼のそばで発見されなければならなかった。厨子王はこのとき13歳、安寿は15歳。男のほうが体力に勝るとはいえ未だそれほど懸隔のある年頃とは思われないのだから、二人で逃亡すればよいとはじめは思った。しかし冒頭で安寿は――気丈に振舞ってはいるものの――足を引きずるようにして歩いている。体力のある娘ではなかったのかもしれない。では足出まといになるのが嫌さに弟一人で行かせようとしたのかというとそうではもちろんないだろう。姉弟はある夜に悪夢を同時に見る。逃亡しようとしたのが主人に知られて十字の焼印を額に押されるという怖ろしい夢で、醒めると地蔵の額には十字の傷が残っていた。この翌日から安寿の様子がおかしくなる。彼女は何やら思いつめたふうになり、内向しがちになる。そして弟に何も相談せずに、不意に逃亡計画を打ち明け彼を行かせる。管理人が思うに、安寿は夢を見た翌日からもうこの世の人ではなかったのではないか。何かが憑依したか、何かの門を潜ったのか、遠い人になってしまったように見える。実際、逃げろと言われてはじめは拒否していた厨子王も最後には「姉えさんのきょう仰ゃる事は、まるで神様か仏様が仰ゃるようです」、きっと無事逃げられて、筑紫のお父う様に会えると思いますと従うのだ。安寿はまた、小娘とは思えない確信に満ちた声で先々のことまで見通して厨子王に知恵を授ける。

安寿はおそらく、夢から醒めたあとで犠牲の意味を悟ったのだ(悟った人は人ではもはやない、人以上だ)。本作は説教話に材を取っており、これを小説化した鴎外がその意味が何であるかを知っていたかどうか、本作を読むかぎりではわからない。説教話では安寿は厨子王を逃亡させたあと拷問を受けるそうで、この筋を変えた理由は残酷な場面を削る必要があるという創作上の問題なのか、鴎外自身の問題意識の反映なのかは、この作家を殆ど知らない管理人には判断できない。何年か間を置いて再読すれば、安寿に何が起こったのか、わかるようになるだろうか。

もう一つの表題作「高瀬舟」。これは18世紀の文献から材を得た小説で、弟殺しの罪人を島流しにする途次の船上で、彼と彼を護送する同心の会話を述べる。わずか20頁程度の分量ながら今日においても意味のある問いが示される。罪人は島流しの際にお上より賜った僅かな金に満足して泰然としている。同心は、自分と比較して罪人の心理が理解できない。なぜそれで満足できるのか。ものを得れば得るだけ際限なく欲しくなるのが人間ではないのか。加えてここでは安楽死の問題も問われる。罪人は、治らぬ病を苦にして自殺を試みて死に切れなかった弟にとどめをさしたのが断罪されたのだったが、この行為は本当に罪であるのか。同心は答えを出せず、鴎外も意見を述べない。ただ傍観するように記述するのみだ。医師であった鴎外が文献を読んで安楽死問題に興味を覚えたのは自然だろう。「高瀬舟」は現代でも――おそらくはこの先もずっと――答えは出ないだろう問いを読者に投げかける現代文学だ。

傍観は鴎外文学の鍵言葉の一つで、これは本書収録の「カズイスチカ」「妄想」「百物語」などにも共通する。「カズイスチカ」や「妄想」では、生の実感を得るためのひとつの手段として、いまここに集中することの意味が示される。「妄想」の語り手(鴎外の分身)は、生の実感を得られず厭世的になっていて、助けになるかと思って読んだ哲学書も役に立たず、あらゆる形而上学は一編の抒情詩に過ぎないと述べる。一切は空とでも言わんばかりの諦念が開陳されるが、管理人が思うにペシミズムは人生を耐える指針にはなっても人生を生きる指針にはならない(それを知っていたからショーペンハウアーはアフォリズム集を「生活の知恵のため」と題した)。運命に身を委ねた人間たちの物語(「興津弥五右衛門の遺書」「護持院原の敵討」「山椒大夫」「最後の一句」)を書いた鴎外が、「妄想」でニーチェを認めないのは不思議な感じがする。生きることが何の意味をももたぬような仕方で生きることが生の意味になる(『反キリスト者』)というニーチェの言説とよく似たことを「妄想」の語り手は述べているし、「カズイスチカ」で主人公が感心する彼の父親はその思想の体現者のように思えるのだけれど。

本書に収録された短篇は明治期から大正期に書かれたものだが、現代の読者が読んでも新鮮な感銘を受けるだろう作品が12篇収録されている。


4101020051山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)
森 鴎外
新潮社 2006-06

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安寿と厨子王に「水晶」の兄妹が重なった。「山椒大夫」の姉弟は運命に耐え、「水晶」の兄妹は自然に耐えた。
4003242238水晶 他三篇―石さまざま (岩波文庫)
シュティフター 手塚 富雄
岩波書店 1993-11-16

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