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zoom RSS 『悪霊』 ドストエフスキー

<<   作成日時 : 2012/03/27 00:00   >>

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父と子たち。

自堕落なもと大学教授のステパン・ヴェルホヴェンスキーは、ある地方都市で、裕福な未亡人ワルワーラ・スタヴローギナの屋敷に住んでいる。かつて一度だけ恋愛関係にまで発展しかけたこともあったのだが、すれ違いのため実らず、二人は20年間「友人」であり続けた。この町に、ワルワーラの一人息子であるニコライ・スタヴローギンが帰還する。噂によると彼は、ペテルブルグで決闘騒ぎを起こしては人を殺し、最下層の人々と一緒に汚らわしい放蕩の限りを尽くしていたという。実際、4年前に一度帰国したときも奇矯な振る舞いをして精神錯乱を疑われたほどだった。スタヴローギンとともに、ステパンの息子ピョートルも帰国する。ピョートルは革命グループを組織しており、ここから脱退しようとしている青年シャートフを始末しようと目論んでいた。裏切り者の粛清は流した血によってグループの結束強化にもなると考えて。無論正体を隠しての帰国であり、彼は知事夫人に取り入り、社交界で影響力をもつようになっていく。ピョートルは以前からスタヴローギンを組織のトップに据えたがっているが、スタヴローギンのほうは関心がないと断り続ける。スタヴローギンは西欧の教養を身につけた美男子であり、多くの男女が彼に魅了される。しかし彼自身は、何も信じられず何も愛せない自分に空しさを感じて生きていた。スタヴローギンとピョートル。この二人の帰国から、次第に町の人々のモラルは荒廃していき、放火、殺人、自殺と怖ろしい事件が次々に発生する。

この小説にはモデルとなった事件があった。1869年にモスクワで起こった革命組織の内ゲバ殺人事件、いわゆる「ネチャーエフ事件」だ。革命結社を率いるセルゲイ・ネチャーエフは脱退を申し出た大学生イワーノフを同士4人と共謀して殺害、遺体を大学構内の池に沈めた。ネチャーエフの背後には、ヨーロッパの革命運動で名を轟かせたバクーニンがいた。この事件を知ったドストエフスキーは、革命家たちを糾弾する小説を構想、曲折を経て完成したのが本作だ。後期のいわゆる五大長篇の3作め、1871年から翌年まで雑誌に連載された。

「ネチャーエフ事件」がモデルであるけれども、作家は実際の事件をグロテスクに戯画化している。内面を一切もたず、破壊のための破壊を望むモンスターのようなピョートルには、妹思いで「みずみずしい感情」をもっていたというネチャーエフの面影は微塵もない。ドストエフスキーは本作について、自分の空想は実際の事件とはまったく違うものになるかもしれないと述べている。

『悪霊』は五大長篇のうちで突出して暗い。登場人物の多くが無惨に死ぬ、殺される。あまりに凄惨な内容であって、訳者は1巻の「読書ガイド」で本作をドストエフスキーの『地獄篇』だと端的に述べている。何度か通読しているがそのたびに憂鬱になるので、『未成年』や『カラマーゾフの兄弟』のほうをこそ管理人は好む。しかしせっかくの新訳であるからと久しぶりに読んでみると、その面白さに圧倒された。たしかに酷いような小説ではある。けれどもここにはなんと豊穣な物語空間があることか。やや退屈な第一部を経て、いよいよ佳境にさしかかる第二部のスリル。再び読みたい、何度でも読みたいと思える『悪霊』がここにある。「まじ」などという語がドストエフスキーに用いられるのにはやや抵抗があるけれど平明な訳文によって、これまで息を詰めるようにして読んでいた『悪霊』が軽やかさを帯びて今ここに出現した。

ずっと『悪霊』というとスタヴローギンとピョートルにばかり目が向いていた。しかしこのたび読んで、若者たちに劣らず分量を割いて述べられるステパンの物語、彼の滑稽さ、愚劣さ、単純さに強く惹かれた。もちろんドストエフスキーは一種の道化のような存在としてステパンを造形している。西欧に憧れる40年代の知識人の戯画として彼は存在する(ロシア語とフランス語をちゃんぽんにする奇怪かつ滑稽な話しかた)。けれども彼が最後の放浪で見せる姿には読者をほろりとさせるものがある。スタヴローギンは結局最後まで自分のことしか述べずに(ダーリヤ宛の手紙)自殺する。彼について述べる第三部第8章は管理人にはエピローグのように思える。放浪の末に見出した信仰告白をするステパンについて述べられる第三部第7章こそ、本作のクライマックスにふさわしいだろう。街道や町で出会う農民たちの生き生きとした描写にも注目したい。

「ああ、ほんとうにもういちど生きたい!」異常なほどの生命力をみなぎらせて、彼は叫んだ。「人生の一分一分、一刻一刻が、人間にとって至福の時でなくちゃならない…そうでなくちゃ、ぜひともそうでなくちゃ! そうすることが、当の人間にとっての義務なんです。これは、人間の掟なんです――隠された掟、でも、必然的に存在する掟……ああ、ペトルーシャに会いたい……彼らみんなに……シャートフにも!」


グループを脱退するシャートフの殺害は本作の勘所だ。彼は農奴出身、かつては社会主義を信奉した、けれども外国でスタヴローギンに出会って、ロシアこそが「神を孕む」国民であるというスラブ主義的な思想に転向する。シャートフという名前には「ぐらついた者」という意味があるという。もと農奴(彼をロシアの大地の象徴と見ることも可能だろう)が、西欧にかぶれた革命組織に加わったのち彼らに殺される――この展開が冒頭に、ロシア古来の「鬼」についてうたったプーシキンの詩が、聖書の一節と並んで引用されている理由を謎ときする。古きロシアが西欧に押し潰されていくことの嘆きがシャートフの死に重ねられている、中村健之介氏は『ドストエフスキー人物事典』でそう述べている。著者の「土壌主義」に叶う解釈ではないか。シャートフの死を悲劇的に演出するために、別れた妻との再会、出産を用意する作家の、ストーリーテラーとしての才能に感嘆する。下衆なピョートルを生かしておくのが憎い。レンプケー夫妻、アリーナ、エルリーケといった脇役も独特の存在感をもつ。そしてワルワーラ夫人。あるいは本作のヒロインは、リーザでもダーリヤでもなく彼女ではないか。

スタヴローギンにははじめて『悪霊』を読んだときからあまり魅力を感じない。新潮文庫のカバー裏にたしか「悪魔的超人」と形容されていて、その語にずっと違和感を抱き続けてきた、それは今も変わりない。ピョートルが指摘するとおり、スタヴローギンは弱い人間だ、超人などではない。完璧に西欧の教養を身につけたかのように見えるこの人物が、満足にロシア語を操れないという設定にドストエフスキーの意地悪いような笑いの意図が透けて見える。「スタヴローギンの告白」は『カラマーゾフ』における「大審問官」と並んで注目されるテクストだ。ここに書かれているのは何だろう。少女陵辱というスキャンダラスなモチーフに目を奪われがちだけれど、結局のところは何も信じることのできない人間の生がいかに空虚であるかを述べているのではないか。と同時に人々の憎悪によって自身を浄化するのを望むようなこの人物の、聖性と獣性の葛藤も見られる(「スタヴローギン」とは十字架の意味があるという)。この「告白」に対応するのが、「人間ははかりしれず偉大なものの前でひれ伏すことができる」というステパンの信仰告白ではなかっただろうか。そのステパンこそがスタヴローギンの、ピョートルの父だった。「父と子」の物語としての『悪霊』。

『悪霊』は憤怒の書であるか。「攻撃的論文」を意図したドストエフスキーに革命家たちへの怒りはむろんあっただろう。けれどもその怒りは、より大きなかなしみ、嘆きに裏打ちされているように管理人には思えてならない。上でも述べたが、眉間に皺など寄せることなく読める、単純に読みものとして面白いと思える、そういう『悪霊』と出会えたのが嬉しい。再読したいドストエフスキーとして(手軽に入手できる文庫のうち『鰐』も『永遠の夫』も『賭博者』もまだ読んでいないけれども)、『虐げられた人びと』(ドストエフスキーの小説でいちばん好んでいる)、『死の家の記録』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』がある。そこに、新訳『悪霊』も加えたい。「読書ガイド」の充実、別巻の刊行と、本作に寄せる訳者の執念のようなものを感じる。それだけに、本文に訳注に対応している箇所を示す表示がない不親切さが残念になる。

433475211X悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2010-09-09

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4334752276悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2011-04-12

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433475242X悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2011-12-08

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4334752454悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー 亀山 郁夫
光文社 2012-02-14

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こちらは楽しく読めるドストエフスキー全作品のガイド。
4062920557ドストエフスキー人物事典 (講談社学術文庫)
中村 健之介
講談社 2011-06-10

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