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zoom RSS 『短篇集 恋の罪』 サド

<<   作成日時 : 2012/04/01 00:00   >>

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「適法」のサド。

作家サドには「違反」の作品と「適法」の作品の二種類がある。外科的に記述されるエロスと過剰な暴力を悪の哲学――神の否定と欲望の肯定――を背景に物語る前者の作品群に『ジュスチーヌ』、『ソドム百二十日』、『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』などがあり、これらは匿名で出版された(サドは「違反」の作品の作者であることを否定し続けるだろう)。一方で当時の道徳規範を遵守した「適法」の作品群があり、こちらに属す『アリーヌとヴァルクール』、『恋の罪』、『ガンジュ侯爵夫人』などはサドの名を記して刊行される。サディズムの語源の人物、犯罪者として生涯の大半を獄中で過ごした人物――サドその人と作品に、管理人は怖ろしいようなイメージを抱いていた。しかしそれはこの作家の一面に過ぎない。なるほどサドは逮捕、投獄、脱獄または釈放を繰り返した人物ではある、けれども彼が生きたのは「まるで猟鳥を料理でもするかのように民衆の女を丸焼きにして打ち興じる領主がいた時代」であり、それと比較すれば彼の犯罪(娼婦たちへの鞭打ちなど)は「やや過度な悪ふざけ」でしかないだろう。彼を社会的に抹殺しようとした義母への寛大な振る舞いや、大革命期に死刑廃止論を執筆していたなど、解説で紹介される事実を読むとそれまで抱いていた「残忍な怪物」のイメージとは程遠く、自分の不明を恥じるしかない。最新の評伝は「貴族の特権に汲々とする自己中心的な人間であると同時に、時代の風潮に便乗しようとしながらも処世術をわきまえず、しかもこよなく文学を愛してやまない激情家サド」の一面を伝えているという。思うに、本邦では「違反」の作品群が「適法」の作品群に優先されるようにして紹介されてはこなかったか。そういった状況がこの作家の歪んだイメージを生む一因として指摘できるように思うのだが、どうか。

本書には『恋の罪』全11篇のうちから4篇を収録。美徳が悪徳に迫害されるのは「違反」の作品と変わらない。善人は悪人の餌食となる。けれども『ジュスチーヌ』にあったような反社会的な長広舌やエロチックな場面描写はない。のみならず、『ジュスチーヌ』では呵呵大笑して勝ち誇る悪徳は、脆弱なはずの美徳に最後は敗北してしまう。4篇とも単純に読み物として面白く、すぐれたストーリーテラーとしてのサドを知る。「悲壮小説集」と副題にあるとおり4篇とも運命や悪徳に翻弄される人間を描いて哀れみを誘う。それこそがサドの意図だった(ようだ)。彼は、作品を破廉恥と攻撃した評論家に対して、自分が悪徳に蹂躙される美徳の物語を書くのはそれがアリストテレスが示した悲劇の重要な要素(恐怖と哀れみ)を満たすためだ、と反論する。美徳が悪徳に酷いまでに虐げられる物語でなければ、読者が恐怖や哀れみを感得するだろうか。加えて『恋の罪』全11篇の結末を列挙して、すべて悪徳は報いを受けていると答える。悪徳が強力に描かれるのは、いわば逆説的に美徳を称揚するためであると。たしかに本書に収録された4篇のうち1篇は人知を超えた運命の悲劇であり、ほかの3篇では悪は最後に改心する。ただし最後に悪が改心するのは「違反」の作品『ジュスチーヌ』も同じであり、自作の基本原理をめぐるサドの真意を推測するのはあるいは作品以上に面白いかもしれない。

冒頭に収録の「フロルヴィルとクールヴァル、または宿命」は本人たちが知らずに近親相姦を犯す、『オイディプス王』に似た物語で、古典の風格すら感じさせる佳作だ。残りの3篇で、悪徳は美徳を蹂躙する。この3篇に登場する悪党が社会的強者であるのに注目したい。政治家、貴族、町の勢力家。彼らは富と権力を利用して欲望を満たそうと望む。か弱い犠牲者がいくら反撃してもかなわない。貧しい家の娘が、自分を犯した咎で政治家を訴えたところで無駄。雇用主に濡れ衣を着せられた勤め人が身の潔白を証明しようとしても無駄。社会構造を取り込んで展開する悪徳対美徳の物語に、日常生活の似たような――もっとささやかなレベルかもしれないが――体験を想起する読者もいるかもしれない。「エルネスティナ」にこうある。

無邪気な娘よ! 悪徳が家柄や富に支えられ、そのために罪を犯しても罰せられないと知ると大胆になり、ますます危険の度を増すものであることを彼女は知らなかったのです。



彼ら悪党ははじめは善人面して犠牲者に近づき、丁寧に「あなた」と呼んでいたのが、美徳の頑強な抵抗に遭うと途端に態度を豹変させて「お前」呼ばわりして激昂する。所謂「キレる」わけで、この激昂の場面は怖ろしい。たとえば「エルネスティナ」で心から愛する恋人がいて、彼のために貞淑であろうとする15、6歳の美少女が、立派な押し出しの不惑を過ぎた男に囚われ、窮地の恋人を助けてやる代わりに身体を提供しろと恫喝されるのを読むのは怖ろしく、また辛かった。

伯爵――「エルネスティナさん、あなたはわたしの支配下にあるのですぞ。降伏しなければ、あなたの恐れていることが起こりかねませんよ。(略)考えてもごらんなさい、あなたが拒めば恋人を破滅させるばかりか、あなたの操も救えなくなる、もともと貞操の尊重なんていうのは妄想ですからね、それをいけにえに捧げてくれれば、あなたの大切な青年の一命を取り返せる、いや、すぐにも彼をあなたの腕にお返ししようじゃありませんか。……貞淑を装ったおめでたい娘め、お前が躊躇するのは非難されるべき弱気のせいだ。……お前がためらえば、きっと間違いなく罪を犯すことになる。同意したら、お前が失うものは見せかけの宝物だけ、拒んだら、お前は一人の男を犠牲にすることになる。しかも、お前手ずからいけにえにするその男は、お前にとってこの世でだれより大切な者というわけだ。(略)」

「……」と表記される間が怖ろしい。

本作には、「違反」の作品にある身体的な残酷の描写はない。取り違いによる殺人、あるいは失神している間の強姦が限度だ。訳者によると、サドは「違反」の作品における身体の次元の残酷の要素を、本作では精神の次元のそれに変化させているという。滅茶苦茶な性的虐待と、心から愛する人に誤解から捨てられるのと、どちらがより大きい苦痛であるのか、想像力のある読者なら安易に答えられないだろう。ゆえに「適法」の作品といえど、苦痛というサド文学の毒は有効なのだ。

『恋の罪』全11篇のうち、完成度の高いものを選んだと訳者は述べていて、たしかに収録された4篇どれも、緊迫したサスペンスが先へ先へと読者を導く。サドに興味はあるが少し怖いと思う向きにはうってつけの一冊だと思う。管理人は身体的な残酷描写は嫌いで、『ジュスチーヌ』しか「違反」の作品は読んでいないが、それ以上に進むのに躊躇する。どんなに下手な映画監督でも、本物そっくりの首を刎ねれば多くの観客は目を背けるだろう、それは生理的な嫌悪であって恐怖ではない。恐怖は即物的なものではなく想像のうちにこそある(プルーストは、想像力のない男には美女を与えるがいい、と書いた)。「違反」の作品が金のために書かれた可能性がある、という言説を知ると、サドの野心は「適法」の作品によって評価されることにあったのではないかと考えたくなる(あるいは「適法」と「違反」をバランスよく両立させるのが野心であったかもしれない)。作家が大いに期待をかけていたという『アリーヌとヴァルクール』水声社版を読みはじめたのが、どうしても訳文になじめず上巻の半分で放棄してしまったのは悔しい。悔しいが仕方ない。ストレスが溜まるから、倉橋由美子に倣って、文章が合わない本はどんなにすぐれた内容が書かれているとしても読まないことにしている(日本語が下手くそなお前がいうな、と笑われそうだ)。本書の訳者、植田祐次氏の訳文は滑らかでかつ格調がある、素晴らしいもの(管理人にはやわらかな感じの日本語が好ましい)。翻訳小説を読むときは作家でなく翻訳者で選ぶようにしようかと、最近わりと真面目に思っている。

4003259718短篇集 恋の罪 (岩波文庫)
サド 植田 祐次
岩波書店 1996-03-18

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こちらは完訳版。
4891768797恋の罪、壮烈悲惨物語 (サド全集)
マルキドサド 私市 保彦
水声社 2011-10

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