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zoom RSS 『荒涼館』 C.ディケンズ

<<   作成日時 : 2012/04/19 00:00   >>

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重厚な社会小説。

少女エスタはみなし子として伯母に育てられる。伯母の死後、エスタはジャーンディスと名乗る初老の紳士に引き取られる。その道中で、彼女は同じくジャーンディスに引き取られる彼の親戚のエイダとリチャードの二人と知り合う。彼らもともに孤児だった。ジャーンディスの屋敷は「荒涼館」と呼ばれ、吹きさらしの野に建っている。ここでエスタは二人の友人とともに暮らしはじめる。ジャーンディスは、ロンドンで有名なジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件の当事者だった。この裁判はある人物の遺言をめぐってもう何十年も続いており、長期間のうちに裁判の本来の目的は見失われ、もはや出口の見えない迷路の様相を呈している。多くの関係者がこの裁判の判決を望みながら叶わず、時の経過のうちに死んでいった。現在の当主ジャーンディスはもはやこの裁判に関心をもっておらず、あてにならない未来を頼むような姿勢を退けている。しかしリチャードは違った。リチャードはやがてエイダと恋仲になるが、優れた才能をもちながら根気が続かず何の職に就いても中途で飽きがきてしまい、最後は裁判の判決さえ出ればジャーンディス家の親戚にあたる自分とエイダに遺産が分配され、それによって暮らしていけるはずだと愚かな望みを抱くようになり、彼の弁護士もリチャードの誤った希望を助長させるようなことばかりを彼に吹き込み、さらには関係者への不信の念までも彼に植え付ける。かつてリチャードはジャーンディスを善良なおじさんと思っていたのに、本当は自分を騙して遺産を奪おうと企んでいるのではないかと疑うようになる。自分の利益しか見えなくなったリチャードは周囲の人間を信じられなくなっていく。このジャーンディス家の遠い親戚にあたるデッドロック家は由緒正しい貴族の家柄で、当主レスタ卿は容姿にも知性にも優れた妻を溺愛していた。彼女には長いあいだ胸に秘めてきた秘密があった。一家と親しい弁護士のタルキングホーンはこれを嗅ぎつけ、暴こうとする。別々に進行していくエスタの物語とデッドロック家の奥方の物語はやがて交わり、それに伴い多くの事件が発生したのち、最後にエスタが伴侶を得て幸福な暮らしを手に入れて小説は終わる。

本作は二つの視点から成っている。作者とエスタのそれだ。エスタは手記のかたちで自身が体験した物語を述べる。作者は自由に、俯瞰するように物語全体を支配する。小説は作者による、ロンドンを覆う霧の描写からはじまる。むろんこの霧はそのあと説明されるジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件の象徴であり、続いてデッドロック家の奥方と弁護士タルキングホーンが登場する。しかしここで作者はあえてピントをぼかすようにして、奥方については少しだけ、タルキングホーンについては軽くふれる程度で済ませる。両者を謎めいた人物として提示したのち、主人公のエスタが登場して、おずおずと自身の物語を語りはじめる。「私に割り当てられた物語をどう書き出したらよいのか、ほんとうに困ってしまいます。だって私が利口でないことは自分でも知っているのですから」……。冒頭でいきなり不穏な謎を示された読者は、この一見善良そのもののように見える彼女を語り手としてどこまで信用できるのか疑う姿勢になる。読み終えたあと振り返ると、いかにこの導入部分が優れているかがよくわかる。本作は当時の裁判制度を諷刺しているのだろうが、裁判の渦中にある人は他人が自分を欺いているのではないかと疑心に取りつかれる(リチャードがそうで、彼は裁判に深入りするにつれ善人であるジャーンディスを自身の利益を損ねる悪人と疑るようになる)。この心理を小説に導入して読者にエスタを疑わせるのだ。読んでいけばすぐにエスタへの疑念は晴れるものの、この心理プロセスを経たのちリチャードの迷妄と改心を終盤で読むとき、疑念がいかにたやすく人の心にきざすかがまさしく読者自身が小説冒頭でした経験に即して腑に落ちる仕組みになっている。二つの視点から物語は述べられ、しかもかなりの人数が登場するので(管理人は相関図のメモを取りながら読んだ)、物語が本格的に動かない二巻あたりまでは筋を見失わないのがやっとという体たらくで、その後次第に事件が発生してテンポが早くなりだす三巻途中あたりからのめりこんで読むことができた。訳者は解説(四巻)でディケンズは「完璧な作品を書く作家ではないし、彼には欠点や限界、今日においては読むに値しない部分がある」といい、実際ディケンズの文章はどんどん書き足して成っているような執拗な部分があってときに冗漫すぎると感じないでもないのだけれども、この文章とこの構成によって本作は読者を翻弄するかたちになって、それがまたジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件をそのまま象徴するような複雑怪奇なモザイクとして示されている。冒頭の霧の描写といい、それに続くぼかしたピントといい、さらには自信なさそうなエスタの語りはじめといい、錯綜する物語の筋といい、本作がジャーンディス対ジャーンディス訴訟事件をなぞっているのだ。

粘るようなディケンズの文章に我慢を強いられるようになりながらも中途で止さずに最後まで読んでいけるのは、やはり多くの人がいうように彼の人物造形の巧みさのおかげだろう。本作と並行して久しぶりにトルストイの『戦争と平和』を読んでいたのだが、そちらは結局前半で放棄してしまった。相性の問題もあるだろうが、管理人はトルストイの描く人物に精彩を感じられなくていつも途中でつまらなくなってしまう。彼と比較するとディケンズの描く人物たちには読んでいて引きずられるようなバイタリティを感じる。善良なエスタやジャーンディスやジョージ氏だけではない、タルキングホーンやガッピーといった悪人(あるいは戯画的人物)やバグネット夫妻のような端役にいたるまで、彼らの動向が知りたくて読んでしまう。フォースターは『小説の諸相』の登場人物についての章で、「平面的人物」と「立体的人物」という二タイプの分類を示す。「平面的人物」とは成長、変化のない人物であり、「立体的人物」は前者より複雑な内面をもつ人物だという。ディケンズは平面的人物しか創造できなかったが、彼らが実に生き生きとしている点にこそ彼の天才はあるとしてこう述べる。
ディケンズの天才のひとつは、類型的人物や戯画的人物、つまり、登場するとすぐにそれとわかる人物を使いながら、しかもけっして機械的でない効果をあげ、けっして浅くない人物像をつくりだしたことです。ディケンズ嫌いの人たちには、彼を非難するりっぱな言い分があります。たしかにディケンズは欠点だらけの作家です。しかし、とにかくわが国の大作家のひとりです。(略)
ウェルズやディケンズのような、偉大ではあるけれど不完全な小説家は、力を伝達する能力がずば抜けています。彼らの小説の生き生きした部分が、そうでない部分にまで感染し、登場人物たちをいつも生き生きと飛びまわらせたりしゃべらせたりするのです。ウェルズやディケンズは完璧な小説家とは種類が違います。

フォースターのこの評に肯きたい。
また、これまで管理人はあまりディケンズのよさがわからなくて、『大いなる遺産』はきれいにまとまっているけれどもそれだけという感じがしたし、『デイヴィッド・コパフィールド』はなぜか飽きて、主人公が母親の死後、義父に家を追い出されるところまで読んで放り出した(この小説の第二章は素晴らしいと思った)。訳者によるとディケンズ作品は『コパフィールド』までを前期、それ以降を後期とするらしく、『荒涼館』は後期に属するが、この頃からディケンズは次第に小説の構成に気を払うようになっていったというから、ストーリーやプロットや登場人物の魅力のほかに小説の構成に関心のある管理人が本作に魅力を感じるのは当然なのかもしれない。このあたりは嗜好の問題だろう。ディケンズのような膨大な作品を残した作家は多くの面をもっており、それぞれが好む面からアプローチしていく読者を満足させてくれるのだろう。ディケンズを愛読していたカフカは彼の『デイヴィッド・コパフィールド』として『失踪者』を執筆した。本作の終わらない裁判をヒントに『審判』や『城』を書いたのではないか。

ディケンズをよく知らない管理人は彼が重厚な社会小説の作家だったのを知って驚いている。本作では裁判制度や上流社会への批判、慈善事業の諷刺がある。高貴な家柄の貴族から貧民街で爪に火を灯すようにして暮らす貧しき人たちまで登場して物語世界の奥行きがとても広い。そして前述したように彼らが生き生きと描かれている。『大いなる遺産』でも感じたことだが、本作でもディケンズは読者に多様な価値観が存在することを優しく説く。貴族名鑑に載っている人物、あるいは法曹界で有名な人物、そういった社会的立場から彼らの値打ちを測る価値観がある。しかし別の価値観もこの世にはあって、それはいうなれば目に見えない貴族階級とでも名づけられるもので、これは家柄や収入の多寡ではなく、他者に対して愛や思いやりやあわれみの情を抱けるか、他者のために尽くすことができるか、といった尺度で測られる。この価値観の世界では広壮な屋敷に住んでいる立派な服を着た人よりも、貧民街で暮らすぼろを着た人のほうが高い地位にあることも珍しくない。ディケンズはそうしたもう一つの価値観があることを、ピップやジョーやエスタを通じて訴えている。

ディケンズは中流下層階級の家に生まれ(イギリスの階級社会というのが実感として管理人にはよくわからなくて難儀する)、彼は生涯この立場で考え、書いたとされる。親の借金のために十二歳のとき学校を中退して靴ずみ工場で働いた期間があり、いやしい境遇に落ちぶれたという屈辱を感じ、これを終生忘れられず(親に見捨てられたという感覚もあったらしい)子どもたちにも語らなかったという。感じすぎというかやや異常にも思える引きずりかたであり、この体験が影響して彼の小説の主人公はみなし子ばかりなのだといわれている。ピップもそうだし、デイヴィッドもそうだし、エスタやエイダやリチャードもそうだ。自身のうちにこうした秘密を抱えた作家は、書くもののうちにもその傾向を示すものだろうか。『大いなる遺産』にせよ本作にせよ、秘密の隠蔽というモチーフが登場するのはゆえなきことではないのかな、と思ったのだが、もう少しこの作家を読んでみないと何ともいえない。そうした隠蔽のモチーフが重苦しさとなって「ディケンズは暗い」という管理人のなかでイメージが作られているような気がする。本作も決して陽気な小説とはいえないけれども(せっかくだからオルタンス嬢の悪をもっと掘り下げてほしかった)、ラストは爽やかであってこのタイトルはふさわしくないように思う。産業革命を経て功利主義に傾いていく社会に対する武器としてディケンズが示したのは愛とあわれみという、まことにか弱いものだった。何かそうしたイメージを喚起する可憐なタイトルこそ本作にふさわしい気がするのだが、どうだろうか。


448002297X荒涼館〈1〉 (ちくま文庫)
チャールズ ディケンズ 青木 雄造
筑摩書房 1989-02

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4480022988荒涼館〈2〉 (ちくま文庫)
チャールズ ディケンズ 青木 雄造
筑摩書房 1989-03

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4480022996荒涼館〈3〉 (ちくま文庫)
チャールズ ディケンズ 青木 雄造
筑摩書房 1989-04

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4480023003荒涼館〈4〉 (ちくま文庫)
チャールズ ディケンズ 青木 雄造
筑摩書房 1989-05

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先日googleロゴになったが、今年はディケンズの生誕二百年だ(ルソーの生誕三百年でもある)。これを機にドストエフスキーの『虐げられた人びと』に影響を与えた『骨董屋』や、バーナード・ショーが「『資本論』以上に暴動をあおる」と評した『リトル・ドリット』が復刊しないかと期待している。
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