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zoom RSS 『ヘンリ・ライクロフトの私記』 ギッシング

<<   作成日時 : 2012/05/07 00:00   >>

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悲しき幻想。

ヘンリ・ライクロフトはロンドンの売れない作家で明日食うものにも困る暮らしを送っていたが、50歳のとき幸運にも独り身の彼が生活していくには十分な遺産を受け取ることができ、これを機会に文筆稼業と訣別して、イングランド南部のデヴォン州に隠棲する。金のためにあくせくする必要から解放され、かねてからの念願だった読書と散歩と思索の孤独な日々に入ったのち亡くなった。彼と親交のあった著者ギッシングは遺品を整理して私記を発見する。本作は、この架空人物の私記という結構になっている。

小説は春から四季を追って四部に分かれている。述べられるのは苦難続きだった作家時代の回想、イギリス文化の考察、書物への愛、そして彼が好む周囲の田園風景の描写などだ。ギッシングは生涯貧乏に悩まされた。彼の理想的分身であるライクロフトは、いつも空腹で寝るところもなく都市をさまよった作家時代にたびたび言及するが、読んでいて戦慄するこの極貧の過去はそのままギッシングの暮らしだったのだろう。彼は現実では叶わない自身の夢の生活を送る人としてライクロフトを創造した。想像のなかで夢を実現するような本作を発表した翌年、肺炎で亡くなる。46歳だった。

幸福感に満ちた繊細な田園風景の描写と、陰鬱な作家時代の回想。対照的なこの二つのパートが本作の柱だろう。四季のうつろいを眺める作家の視線はどこまでもやさしい。樹木や花や小鳥たちへ寄せる愛情が読者をあたたかい気持に誘う。一方で作家時代の回想は、息が苦しくなるような困窮の挿話が連続する。金がないことでどれほど多くの辛酸を舐めてきたか。どれほど多くの幸福になれる機会を逃してきたか。暗い過去があるからこそ、贅沢さえしなければとりあえず不自由のない暮らしが送れる現在のありがたみが身に沁みる。

以前一度読んだときには、ライクロフトが読書への愛を述べる箇所に惹かれた。彼は熱烈な文学愛好者で、けれども懐が暖かいときなど滅多になかったから本の購入は熟慮を重ねた末でなくてはできなかった。ときには食事を抜いて本を買った。遺産のおかげで気楽に買える境遇になったが、今でも書棚に本を並べるときは「ぼくの読書する視力がつづくかぎりはそこに並んでいてくれ」と語りかける。なけなしの金をはたいて買った書物を腕にかかえて、みすぼらしい(「今思うとぞっとするような」とライクロフトは書いている)住居に帰っていく30年まえの自身を、壮年の彼は懐かしむような憐れむような複雑な思いで回想している。

けれども10年ぶりくらいに再読してみると、意外なくらい以前の感動はなかった。なぜだろうか。相変わらず田園風景の描写は美しかったし、書物に寄せる愛情を述べるくだりもいい。しかし全体を見るとライクロフトという人はかなり狷介な人物であって、彼の偏見に満ちた発言への違和感が終始頭を去らなかった。滑稽ですらある祖国愛や、批判意識が欠如した歴史観、他者への不寛容、保守的な階級意識などのくだりを読むとギッシングの限界がよくわかる。彼は絶えず金銭問題に脅かされ――社会主義に惹かれた時期があった――異性問題では苦労した。投獄や、アメリカへ渡るも挫折して帰国した体験もある。波瀾の多い生涯の人だったのに、その旧弊な価値観を読むと、彼は現実生活で何を見ていたのだろうと疑問が沸く。ギッシングには「性格に対する感情がなく、会話に対する感覚がなく、緊張感をもりあげる力がなく、諧謔を解する心が乏しかった」という評がある。訳者は、「貧乏といい、両性関係といい、あるいは民衆問題といい、彼はある意味でそれらの問題の内側にいたはずであった。皮膚で感じているはずであった。ところが、事実は、彼は皮膚で感じていたにもかかわらず、それらを文学的教養とでもいうべきものを通して理解し摂取していたのではなかったのか」と述べている。以前は気にならなかったこの文章が、今回の読書では腑に落ちた。容赦なくいってしまえば、ライクロフト(=ギッシング)の社会問題への言及は読むに耐えない。失意の人だから大目に見るべきかもしれないが、愚痴っぽくて辟易する。過去の賛美それ自体は悪いとは思わないけれども、現代をこき下ろしてのそれは発言者がいかに頑固かを示すだけであり、これでは偏屈な老人が「昔はよかった」と嘆いているのを聞かされ続けるようで苦痛だ。もちろん愚痴それ自体が無価値だとは思わない。ブコウスキーもよく愚痴っているが、彼の文章を読んでも退屈しないのは、彼にユーモア精神が備わっているのと、なんだかんだいっても彼が生を愛しているからではないだろうか。ギッシングの愚痴はユーモアが乏しいために全体的に説教臭くなってしまっている。読了して寂しい気持になったのは、本作がライクロフトの遠からぬ死の予感で結ばれるからとばかりはいえない。窮屈な、閉ざされた精神しか作品のなかになかったからではないか。ライクロフトは自身をこう分析している。
真実を語らせてもらいたい。わが人生行路のいつのときにか、私が他人の愛情に値するごとき人間でありえたと、本当に自分でわれながら信じているのであろうか。私はそういう人間ではなかったと思う。私はいつもあまりに自らの問題に没頭しすぎていた。自分の周囲のあらゆるものに対して批判的でありすぎた。あまりに傲慢な心が強すぎた。私のような人間はただ独りで生き、そして死んでゆく人間なのだ。

古典を深く愛し、本を読むとたびたび――無邪気に――ここに書かれているのは自分のことだ、自分ほどこの作家がわかる者はないと述べる感性豊かな彼なのに、そこまで夢中になった読書によって形成されたのがこんなにも意固地な人格であったというのでは寂しい。もしかすると彼は、厳しい現実を見たくないから読書に逃避したのではなかったか、と勘繰るのは意地悪に過ぎるだろうか。親交のあったウェルズはギッシングの葬儀の際、「彼は人生をまともにみようとはしなかった。いや、おそらくはみようとしてもみられなかったのだ」と語ったという。

著者が逝去する前年に発表された本作には、死の予感が散見される。墓地を訪れて深い瞑想に耽る「秋」の十二章の静まりが胸を打つ。われわれはみな死にゆく。今日墓のまえに立って故人を偲んでいた人が、明日は同じ身となるかもしれない。ギッシングは執筆時、死を救いのように考えていたのだろうか。悲惨な境遇の作家が現実に失望し、未来を諦め、せめてもの慰めにこうありたいと望んだ暮らしを小説として書いた、というのが痛ましい。ライクロフトがベストセラー作家になって隠棲するのではなく、遺産によってそうなるという設定からして、著者の失意の深さが測れて、辛い。

かつては好んだ小説だが、今読んでみると悪い小説とは思わないものの以前ほどの魅力を感じられず残念だ。「飽きられるのは、欠陥が露呈するときに生じる」とライクロフトは書いている。


400322471Xヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)
ギッシング 平井 正穂
岩波書店 1951-01

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
十代のころ彼の「蜘蛛の巣の家」を英日対訳で読んだことがありますが、おっしゃるような「偏狭さ」や「息苦しくなる感じ」を覚えました。それ以来、読んでいません。たしか本屋から本を抱えて帰る主人公でしたが、作者自身だったのですね。
Bianca
URL
2012/05/08 12:20
>Biancaさん

ギッシングはとても真面目です。真面目すぎて、心の余裕があまりなさそうに思いました。コメントで書かれている、「本屋から本を抱えて帰る主人公」は、きっと作者だと思います。
epi
2012/05/09 18:24

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