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zoom RSS 『ランボー全詩集』 アルチュール・ランボー

<<   作成日時 : 2012/10/27 00:00   >>

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閃光少年。

ランボーの詩と散文のほぼすべてと、「見者の手紙」を含む手紙を五通収録する。小林秀雄訳の確信と性急さこそ至上と思ってきたのだけれども、意味がわからないところも多かった。宇佐美訳ランボーは平明で親しみやすく、その上詳細な注が付いているので詩人の意図を考察しながら読むのに適している。

はじめに、ランボーが15歳だった1869年から1872年にかけて書いた韻文詩が前期と後期に分けられて並ぶ。前期の詩は幾つかの主題を繰り返し扱う。大雑把に、(自身の身の上を投影したような)子どもの孤独をうたったもの(「孤児たちのお年玉」「びっくり仰天している子ら」)、1870年に起きた普仏戦争に取材したもの(「悪」「皇帝の怒り」「谷間に眠る男」)、庶民の愚劣さを嘲弄、皮肉るもの(「音楽会にて」「坐っているやつら」「教会の貧者たち」)、パリ・コミューンに取材した時局的なもの(「パリの軍歌」「パリの乱痴気騒ぎ」「ジャンヌ=マリの手」)、そして放浪の自由をうたったもの(「感覚」「みどり亭」「わが放浪」)などに分類できる。おそらくランボーといって一般読者がイメージするのは放浪者ではないだろうか(それとも反抗者か)。「感覚」という詩は十代の若者ののびのびとした心境が自然との交感とともにうたわれ、爽やかで心地よい気分になる。短い詩なので引用すると、

夏の青い夕暮れに ぼくは小道をゆこう
麦の穂にちくちく刺され 細草を踏みしだきに
夢みながら 足にそのひんやりとした感触を覚えるだろう
吹く風が無帽の頭を浸すにまかせるだろう

話しはしない なにも考えはしない
けれどかぎりない愛が心のうちに湧きあがるだろう
そして遠くへ 遥か遠くへゆこう ボヘミアンさながら
自然のなかを――女と連れ立つときのように心たのしく


一般的なランボーのイメージを象徴するような抒情漂うこの詩はしかし、彼の詩全体を通して見ると例外的に素直に書かれたものだと知れる。全体的にランボーの詩は抒情的でなく、彼は、冷めた現実感覚で事象を相対化するための装置として抒情を用いているふしがある。希望や空想の甘さに惹かれもするのだけれど、それを常に客観視し、突き放して笑うようなところがある。抒情を愚弄する意図か、陶酔しながらも反省する心を失くせない批評性か。「ニーナの返答」がその最適な例になるだろう。この詩は終盤まで夢想的な男の言葉が続き、最後に女が現実的な返答をして男の夢想を台無しにするという滑稽なもので、ここでは抒情はあらかじめ否定を背負わされている。ランボーの本領は、抒情よりも、「水から現れ出るウェヌス」の嘲弄や「ザールブルックの輝かしい勝利」の皮肉さにこそあるように思える。涜聖や女性嫌悪、スカトロジーの嗜好もあるか。後期の詩もほぼ同じ傾向を示すが、こちらには後に書かれる「地獄の季節」を予告する詩が多く、「地獄の季節」の準備期間ととれる。有名な「いちばん高い塔の唄」や「永遠」、「おお 季節よ 城よ/無疵な魂などどこにいよう」の無題詩などはこちらに属す。

ランボーの代表作「地獄の季節」。彼自身が公刊を企て印刷に付した唯一の書物。1873年に書かれ、年内に印刷製本されたが、おそらくは出版費用が払われなかったために500部近くが倉庫行きになったまま30年近く眠り続け、著者用見本の一部が知人に配られたのみだったというこの詩篇は、地獄で一季節――夏――を過ごした語り手による報告という形式の「心理的自伝」だ。(文学的な)人生の総決算と見るのは後世の読者の曲解になるか。現在を振りほどき、未来に掴みかかるような激情が高揚を誘う。語り手はこの詩篇のなかで幾度も自己を白紙還元して進む。自身に流れる異教徒の血を確認してキリスト教の救済を拒否する「悪い血」、ヴェルレーヌとの関係を奇妙な夫婦に託した告白(と読める)「錯乱T」、後期韻文詩を改変しながら取り込んだ、「自己言及によって飾られ、あるいは論証された自己検証」たる「錯乱U」、先には労働を侮蔑した語り手が次第に新しい労働の創造へと(懐疑を孕みながら)向かっていく「閃光」「朝」、そして文学への決別ともとれる「別れ」。繰り返しになるが、どうしてもこの詩篇はランボーの生の総決算と思えてならない(現実には、ランボーは「地獄の季節」完成後「イリュミナシオン」を書いている)。管理人はこれまでタイトルの地獄を人生とだけ読んできたのだが、宇佐美氏によると、神学上のそれと日常生活と二つの意味が重ねられているという。厳格なクリスチャンだった母親への反抗心が潜んでいるだろうか。以前、この詩篇から希望が感じられると書いた。けれどもこのたび訳注とともに読んでいくと、この詩篇の核は希望というより出発の覚悟であるかもしれない。

私はまだ自然を知っているだろうか? 自分を知っているだろうか? ――いや、ことばはもういい。腹のなかに死人(ことば)を喰らい込むのだ。叫び、太鼓、踊り、踊り、踊り、踊りだ! 私には先のことなど見当もつかない。やがては白人たちが上陸して来て、虚無に堕ちて行くのであろうけれども。
飢えだ! 渇きだ、叫びだ、踊り、踊り、踊り、踊りだ!

※太字部分は本書では傍点

私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ!
この私! 一切の道徳を免除された、道士とも天使とも自認したこの私が、果たすべき務めを探し求め、ざらざらした現実を抱きしめるべく、土に戻されるのだ! 百姓だ!


そうだ、新しい時は、少なくともきわめて厳しいものだ。
というのも、いまや勝利がこの手中に収められた、と私には言い得るからだ。歯ぎしりの音、炎のめらめら燃える音、悪臭を放つ溜め息はみな鎮まる。薄汚い思い出もすべて消え去る。私の最後の未練も退散する、――乞食や、強盗や、死の友、そしてあらゆる種類の精神薄弱者への羨望が。――地獄堕ちの者共よ、この私に仕返しができたならなあ!


こうした言葉が何を意味するか。それは書いた人間のではなく、読者の側の(受け取りかたの)問題かもしれない。彼は周知のように、わずか数年の詩作ののち文学を放棄し、軍隊を志願し、それから商人となってアビシニア(現在のエチオピア)へと向かった。22、3歳のとき軍隊を志願したのは、幼い頃に彼を捨てた軍人の父親への思いが何かしらあったのか。商人となったのちは文芸雑誌からの手紙等は一切黙殺した。文字通りの決別だった。

ランボーの才能に惚れ込み、彼と深く関わることになるヴェルレーヌをはじめ幾人かの手を経て、詩人の関知しないところで公刊された未完の詩集「イリュミナシオン」。小林秀雄が「飾画」と訳したこの詩篇は「地獄の季節」以後、1873年から74年にかけて書かれたとされる。タイトルどおり、都市や芝居、祭りなどをうたった視覚的な詩が多くを占め、以前の時期よりも象徴的な詩風へ変化している。母音の色を発明したとうそぶき、詩人は「見者」であれと書いたランボーの視覚が先鋭化した世界だろうか(「子供のころ、ある種の空が私の視力を練磨した」――「戦争」)。多くの詩に色への言及があり、イメージの百花繚乱といった趣がある一方、意味を追うのは困難になる。実際、詩人はこの詩篇で――とくに都市を主題とした詩に顕著だと思うのだが――言葉を用いてダイナミックに絵を描こうとしているのではないか。「ランボーの短い文学生活は自己否定ないし脱皮の連続であった」と訳者は指摘している。「イリュミナシオン」は韻文詩とも「地獄の季節」とも異なる、躍動感に溢れた新たな詩の世界を見せる。

ランボーを一言でとらえる言葉があるならそれは「はやさ」だろう、と訳者は書いている。十代後半の数年間に自身の文学生活を凝縮した詩人。その後は一切の文学から遠ざかった人生。これを伝説のように語ることもある。しかし当の本人は自分が伝説となることに興味をもっていただろうか。商人となったのちの手紙には文学への言及は一切なく、商売に関することだけが書かれた無味乾燥なものだという。まるで過去を抹消したようなその後の生。その後? いや、商人となったとき、彼にはその「現在」がすべてだったのではないか。まるで子どもが飽きた玩具を捨てるようにして詩を捨てた彼、しかしわれわれとて少年、少女の日に夢中になったものを惜しげもなく捨てて大人になってきたのではなかったか、二度と顧みることもないままに。ランボーにとっての詩もその程度の遊び――しているときは真剣な――でしかなかったとは考えられないか。遊び、または感情に任せた落書き、といった程度の認識でしかなかったと。もしかしたら本人としては思い出したくない恥ずかしい過去ですらあったかもしれない。そんな想像をついしてしまう不埒な読者だから、ランボーの詩を高級なもののように扱うのには違和感を抱く。このたび、訳注と併せて詩を読みながら、ふと、書いたランボー本人はここまで深い意図をもっていたのか、彼の詩はかしこまって読み解くべきなのか、気軽にカジュアルに向き合っていいものなのではないか、という疑念の湧く瞬間があった(プルーストの言葉を借りるなら、「文学をたいそう高尚なものと考えうる一方、優しく笑うこともできる」)。むろん、時代や国境を越えて多くの人々に愛好されている事実から考えて、彼の詩には人の心を打つ普遍的な何かがあるのだろうが。

ランボーは単純に詩を書くことに飽きたか馬鹿馬鹿しくなったかしたのだろうと管理人は見るのだが、伝記や手紙にあたらなければまだ確言できない(放棄には、7歳だったアルチュール少年を捨てた父親の姿が重なる)。あるいは彼の渇きは詩では満たされない種類のものだったのかもしれない。実際、そういう人は世の中にたくさんいる。文学では満たされずほかのものに向かう人たち――統計的にはたぶんそういう人が世の中の大多数だろう(文学にふれるのが習慣化していると周りもそうだろうと錯覚してしまいがちだが、実際には文学を必要とする人間なんて世の中のごく一部に過ぎず、そしてそんなものなしでみんなけっこう満足そうに暮らしている)。そういう一人としてのランボーを、管理人は想像する。彼が37年の長くない生涯を終えるときその脳裏に浮んでいたのは、詩人としての名声などではなく(最後の手紙は支配人に金の未払いを尋ねる内容だ)、どこまでも続く荒涼たる砂漠の風景だったのではないか。


4480031642ランボー全詩集 (ちくま文庫)
アルチュール ランボー Arthur Rimbaud
筑摩書房 1996-03

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