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zoom RSS 『アブサロム、アブサロム!』 フォークナー

<<   作成日時 : 2012/10/30 00:00   >>

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記憶よ、語れ。

1833年、ミシシッピ州の田舎町ジェファソンに突如現れた謎めいた男、トマス・サトペンの生涯と、彼の一族が宿命的な滅びをたどった経緯が複数の語りによって明かされる。

再読。すでに梗概については述べている。新訳が出たこと、暑い夏であったことを機会に三年ぶりに読んだ。前回の読書は筋を追うのがやっとだったのが、今回は、土地の記憶を呼び覚まし、そこで生きた人々の亡霊を召喚する語りの重層性に圧倒された。南部人フォークナーが「郵便切手ほどの小ささ」の故郷をモデルに創造した架空の町ジェファスン。そこで愛し、憎みながら、生きそして死んでいった人々の物語。以前はトマス・サトペンにばかり注意が向いていた。たしかに彼は本作の中心ではある。けれどもこのたび読んで思ったのは、偉大なサトペンも、一族滅亡という悲劇の一役者に過ぎないのではないか、ということだ。彼らを翻弄するような血の宿命と呼びたい見えぬ力のはたらきこそが、この小説の主題であるようにいまは思える。

冒頭、怪談めいた装置で語られるサトペン登場の顛末。得体が知れず、何やら胡散臭いものを醸しているこの人物は、自身のみならず、ジェファソンの旧家コールドフィールド家を巻き添えにして破滅したのであり、彼への怨嗟を、サトペンの義妹であり、姉の死後にサトペンと結ばれかけたものの、耐え難い侮辱のために彼から離れたあと40年以上、ずっと身内に溜め続けてきた老嬢ローザは、サトペンの死後も彼を決して許さず、過去の行状を怒りと憎しみの心で回想し、目のまえの椅子に座っている、サトペンの唯一の友人だったコンプソン将軍の孫クエンティンに語り聞かせている、憑かれたように淀みなくえんえんと。サトペンは悪魔のような男だったと彼女はいう。しかしローザによって示されるサトペン像は彼女の感情と直結してやや偏りがあるかもしれない。クエンティンはその後、父親から、彼が父親(コンプソン将軍)から聞いた話としてサトペンと彼の周辺について聞く。この錯綜する昔話を、ハーヴァード大学の一室でクエンティンは同室の友人シュリーヴ(カナダ出身)に「南部の話を聞かせてくれ」とせがまれて、反芻し、語り直す。その過程で南部の歴史が再現(創造?)されていく。

クエンティンの声は過去から響く。彼が集めた声(情報)は、「南部」ジェファスンから離れた「北部」ハーヴァードで検証される。とはいえ事件の当事者たちの大半はすでにこの世になくローザの目は怒りで曇っている。けれども曇っていることを批判はできない。彼女にとっては彼女の語ることは真実であるのだから。彼女は当時の唯一の生き残りだが、やがてその死を知らせる手紙がクエンティンのもとに届くだろう。
クエンティンはシュリーヴとともに多くの声を集めて整理する。しかし彼らがどれほど検証しようと、南部の歴史は畢竟「推理」の域を出ない。当事者たちの多くがこの世にいないいま、不確かな問題は謎のまま残される(戦争で負傷したのはボンかヘンリーかも、ローザが受けた侮辱の内容もともに不確かであり、証言者たちのうち誰も見ていないユーレリア・ボンの痩せこけた姿はあくまで若者二人が想像した姿として示される)。では歴史とは何であるのか。歴史とは、残された記録(/記憶=情報=声)を整理統合したものだろう。だとすれば、クエンティンとシュリーヴが試みているのは南部の歴史の再現というよりはむしろ創造になる。ひとつの出来事には当事者の数だけ真実があり、残された者たちがどうしても埋められない記録の隙間は、歪んだ声、曖昧な証言をもとに再構成するしかない。こうして歴史は作られていく。本作においてフォークナーは、亡霊を召喚する――または彼らが亡霊と同化していく――語り手たちの声の重なりが、衝突が、歴史を形成していく現場に読者を導き立ち合わせるという離れ技をやってのけた。

サトペンの素性についても以前書いた。ジェファソンでは、とりわけローザには蛇蝎のごとく忌み嫌われた彼だったが、その生い立ちを(コンプソン将軍の語りから)たどっていくと悲しい小事件に行き当たる。無知だったサトペン少年は貧しさも差別も知らずに育った。自分にも家族にも何の疑問も抱いていなかった。あるがままを自然に受け入れて曇りなく見ていた。けれども社会の現実は少年の考えと異なっていた。貧しい白人(プア・ホワイト)の子だった彼が、農園主の屋敷を父親に頼まれた用事で訪問して屈辱を味わった瞬間、無知ゆえに幸福だった少年時代は終わりを迎える。肌の色だけではない差別がある、問題になるのは体力でもない。金だ。金のある人間は強く、金のある人間のそばにいる人間も(人種を超えて)強く、今日食うものにも困るような極貧の人間は彼らから虐げられ蔑まれるのは当然だとする社会があることを、少年に屈辱を与えた黒人の使用人は身で示した(「あいつは、俺に用件を言う機会さえくれなかった。それを伝えることも、言うことすらさせてくれなかった」)。以降、サトペンの生涯はこの屈辱への復讐となる。自分も金持ちになってやる。家を飛び出して海へ向かった。持ちものといえば勇気と、短期間の学校生活で得た乏しい知識と、希望だけだった(「どんな方法を取るにせよ、頭が良くて勇気さえあれば金持ちになれるということだった、勇気の方は自分にもあると思っていたし、頭の方だって、努力と経験を積んで、勢力と意志力によって学びとることができるものであれば、きっと身につけられると信じたんです」)。ハイチに渡ったのち叶えかけた野心は予想外の事態が出来したため断念した。もう一度ゼロからやり直す、そのためにジェファソンにやって来た。今度はうまくいくかと思えた――事実、途中まで状況は彼の望み通りに進行した。しかし、捨てたはずの過去が復讐にやって来る。南部を荒廃させることになる南北戦争の勃発もあった。戦功を立て大佐になって帰還するも、帰ってきたときには息子の一人は死に、彼を殺したもう一人の息子は行方不明になっており、娘は婚約者と兄を同時に失って立ち尽くしていた。敗戦によってかつての栄華は失われる。サトペンはすでに老人になっていた。少年の日に抱いた野望を実現するのに残された時間はあとわずか。そして最後の希望をかけた試みも失敗に終わり、彼は鎌の一撃によって命を失う。

運命はかくも残酷な未来をサトペンのために準備していた。彼は復讐の人だった。目的を達成するために非情に振舞った。その非情さが仇となる。サトペンの血をともに引く二人の息子のうちの一人は父親の名を与えられることなく捨てられた子であり、彼によってサトペンの野望は潰える。いずこからともなく現れ、インディアンから土地を巻き上げ、その後数年かけて100マイルの広大な農園を一代で築き、旧家の娘を妻に迎えて一男一女をもうけた彼の栄光を、夢を、捨てられた息子が粉砕する。サトペンの何が誤りだったのか。血の問題――没落の原因は南部に根強く残る偏見に囚われたがためだった。しかしそれだけではない。サトペンが手に入れた土地はもともとインディアン(先住民)が「管理」していた土地だった。それをサトペンは(なにやら姑息な手段で)己の野心を満たすために奪い、「所有」した。耕して農園にした。サトペンの滅びは、私有化(文明化)されるのに憤った地霊の呪いとも見える。運命は皮肉にも、ともに暮らすヘンリーより、捨てられたチャールズ・ボンを父親に似せた。ボンは母親から父への恨みを聞かされて育ってきた。復讐の生を生きたサトペンが、彼の犠牲者による復讐で滅びるという因果。そして直接サトペンの命を奪う鎌――死神を象徴する――を振るったのは、サトペンが憎み恥じて逃れようともがいた階級に属する、貧しき白人のジョーンズだった。土地の怨念、血の因縁、出自の偶然(必然?)――サトペンの没落は運命によって三重の悲劇として仕組まれていた。復讐から出発したサトペンが、動揺を経て落ち着きを得、老いてようやくかつての屈辱を乗り越え、昔の自分のような少年が二度と扉をノックしなくても済むよう、そのときは彼を家に入れてあげたいという、非常に人間的な慈しみの心境になったのちに殺される、このタイミングに注目したい。ひとつの復讐の終わりが新たな復讐に繋がっている。なんと整った悲劇の構造であることか。作中人物たちの名前には、運命の物語である古代悲劇を連想させる意味が込められているかもしれない(サトペンの無知も絡んでいる)。

小説の前半はサトペンの栄光と没落のアウトラインを示し、後半でその詳細を述べる構成になっている。広さ100マイルを誇る農園の主が、南北戦争後は土地を失って商店の主人になり、15歳の少女に声をかけるというスケールダウンには、それまでのサトペンにそぐわない滑稽な印象を受ける(著者は失墜によってサトペンが矮小化するのを防ぐように、シュリーヴに幾度も「悪魔」といわせる)。しかし彼は惨めな境遇に落ち込んでも諦めない。老いた身でありながらなおも運命に戦いを挑むかのごとく、彼の野心の象徴である農園と一族の再建に乗り出す。

わたしはあの男をじっと見つめていました、年老いた彼が憤怒にかられてただ一人で、以前のように、頑固だが徐々に手なずけられる大地と闘っているのではなく、まるで素手と屋根板一枚で川を堰き止めようとでもしているかのように、一変してしまった新時代そのものの、のしかかる重圧と闘っているのを見つめていました、


南部の男は不屈であるのだろう(「そうとも、大佐どの。やつらはおらたちをやっつけましただが、おらたちはまだ殺られちゃいねえですだ。そうでしょうが?」)。この不屈さは近親相姦よりも人種混淆のほうを問題視する南部の偏見(「君にはとても理解できないさ。南部で生れなきゃわからないことだから」)――土地と生の問題――と違って理解できる読者を限定しない。行為の是非は措くとして、サトペンの不屈は、この先の時代も人間は生き延びるだけでなく勝ち栄えるだろう、というフォークナーの勇壮な言葉を想起させる。われわれの国も、(南北戦争で北軍に敗れた)作家の故郷と同じく敗北したのち不屈の心で立ち直った。敗北者への共感(1955年に長野市で開かれたセミナーにおけるフォークナーの発言――「私たちの国も敗けたのであり、私も敗戦の味を知る者です」)、人間への強靭な信頼、そして生きてあることの悲しみを見つめる目。管理人はフォークナー文学にそれらを見出す。それらに親近感を抱くがゆえに、何度もの拒否にあってもこの作家に挑みたくなる(読者が作家・作品を選別するように、作家・作品のほうでも読者を選別する)。以前は本作を二度と読むことはないと思ったようだが、とんでもない、何度も読むに値する傑作だった。三年まえの自分の非力さを知る。

本作の成立にはフォークナーの少年時代の記憶も影響しているだろう。フォークナーの曾祖父、ミシシッピにおける初代フォークナー、ウィリアム・クラークは常に暴力の気配を漂わせながら一代でのし上がった人物で(ミシシッピ州北部の町リプレーには彼の彫像が建っている)、弁護士として立ち、南北戦争に参加して「大佐」にまで昇り、その後鉄道会社の副社長を務めるかたわら作家としてベストセラーをものした。最後は射殺されたこの傑物の逸話をフォークナー家に仕える使用人たちは代々語り継ぎ、少年時代のフォークナーももちろん聞かされていた。影を抱えたような先祖の男と、彼について語る複数の声。どちらも本作の重要な要素として活きている。

本書は藤平育子氏による新訳。文章はこの重い小説の重さをいい意味で感じさせないマイルドなもの。上下巻とも家系図、登場人物紹介、各章の簡単な内容紹介、ヨクナパトーファ郡の地図、年表が付いている。ジョーンズによるサトペン殺害は短篇「ウォッシュ」でも読むことができる(福武文庫『エミリーに薔薇を』所収)。フォークナーの生い立ちについては大橋健三郎氏による『フォークナー』を参照した。


4003232364アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)
フォークナー 藤平 育子
岩波書店 2011-10-15

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4003232372アブサロム、アブサロム!(下) (岩波文庫)
フォークナー 藤平 育子
岩波書店 2012-01-18

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4121011392フォークナー―アメリカ文学、現代の神話 (中公新書)
大橋 健三郎
中央公論社 1993-07

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
ブログの更新を再開したのですね、おめでとうございます。これからも、無理せずに頑張ってください。たまにコメントして、影ながら応援する事にします。
しかし、ランボオにフォークナーから再開ですか。どちらの作家の作品も、最後まで読みきることができずに挫折した、あるいは理解できなかった作品ばかりです。特にフォークナーは気になる作家だけに、何度もチャレンジしては挫折しています。いつか、「アブサロム、アブサロム!」にたどりつける日は来るのだろうか、とこの記事を見て思う日々であります。
しかし、拒まれていると感じる作家に対して、ここまで付き合っていける精神・忍耐には感服します。そこで質問しますが、フォークナーを最後まで読み進め理解できるコツというものはないのでしょうか?ご教授していただけたら嬉しいのですが、宜しくお願いします。

追伸:そういえば、ロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」がついに刊行されます。楽しみですね。
reclam
2012/10/30 21:00
>reclamさん

コメントありがとうございます。
状況が少し落ち着いたので再開しました。また読んでいただけますと有難く思います。

「フォークナーを最後まで読み進め理解できるコツ」とのことですが、まず後半の部分に関しては、わたしの手には負えませんのでお答えできかねますことをご了承下さい。「最後まで読む」には、翻訳書ならば現在手に入りやすいものが3種類あるので、それらを覗いてみて合うものを選ばれることが一番だと思います。あとは、これは経験から述べるのですが、読める時期が来るのを待つというのも大切だと思います。気が乗らないのに無理に読んでも読まないのと大差ないでしょうし、読者の気が乗ればテクストは実に多くのことを語ってくれます。その時期がいつ来るのかはわかりませんが……。ほかには、伝記や評論から入るというのも有効だと思います。わたし自身は、以前フォークナーは好きではなかったのですが、長野市での発言を知って作者に興味が出たことと、土地や血と個人の関係が気になるようになったときに新訳があるのを知り、再読したら面白かった、というのが実際です。藤平訳はとても読みやすいように感じました。以上、参考になりましたら幸いです。

河出書房新社は海外文学がとても充実していて有難いですよね。
epi
2012/10/31 19:16
なるほど、読める時期を待つことですか。最近の読書は短編ばかりで長編を読む気力がないので、待った方が良いのかもしれませんね。
ちなみに、私にとってフォークナーは、「野生の棕櫚」の台詞である「悲しみか無かどちらかを選ばなければならないとすれば、おれは悲しみを選ぼう」という言葉を見かけて以来、ずっと興味を持ち続けています。その言葉を思い出しては挑戦し、小説の長さと独特の表現に対して挫折する事を繰り返しています。また、フォークナーのノーベル賞受賞講演もすばらしいと思います。
いつの日か、これらの言葉が多くの事を語ってくれる日が来るのかどうか...
とりあえず、フォークナーのような重厚な長編が読める時期を待つしかなさそうですね。
ご回答ありがとうございました。参考にしたいと思います。ブログの更新、頑張ってください。
reclam
2012/11/05 20:29

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