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zoom RSS 『八月の光』 フォークナー

<<   作成日時 : 2012/11/05 00:00   >>

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オン・ザ・ロード。

禁酒法時代のアメリカ南部。臨月の大きい腹を抱えるようにして、10代半ばの少女リーナはミシシッピ州の田舎町ジェファスンにやって来る。一月ほどをかけて、彼女が、住んでいたアラバマからはるばるここまで来たのには理由があった。お腹の子の父親であるルーカス・バーチを追っていたのだ。行く先々で親切にしてくれる人たちにバーチについて尋ねていくと、彼はジェファスンにいるらしかった(ただしルーカス・バーチじゃなくてバイロン・バンチだろうという気にかかる一言が添えられていたのだが)。その言葉を頼りにバンチのもとを訪れると人違いだったが、偶然のこの出会いはバンチの人生を大きく変える。30代で独身の工員であるバンチは、一目で彼女を好きになってしまったのだ。少女の話を聞くと、彼女が探している男の見当がついた。少し前に、ふらりと工場にやって来た元同僚のジョー・ブラウンが、どうやらルーカス・バーチと同一人のようだ。ブラウンは今は工場を辞め、ジョー・クリスマスという相棒と一緒に密かに酒を売って稼いでいる。

リーナの到着と同じころ、町外れにあるバーデン邸が放火によって全焼し、ただ一人住んでいた女主人の死体が発見される。バーデン邸の敷地内にある小屋にクリスマスと二人で住んでいたブラウンは逮捕され、クリスマスは行方をくらます。クリスマスもブラウンと同じく放浪の末ジェファスンにたどり着き、同じ工場で働いた。無口な彼は自身の素性を誰にも話そうとしなかったが、彼には密通の子として生まれた過去があった。白人優越主義者の祖父は、娘が関係した男には黒人の血が流れていたと(証拠はないのに)思い込み、幼いクリスマスを施設に送って監視し続けた。クリスマスの外見は白人に見える、父親に黒人の血が流れていたという確証はない、それなのに(おそらくは祖父の唆しによって)施設の子どもたちはクリスマスを「黒人」と呼んで疎外する。その後、厳格なキリスト教徒の農夫に引き取られ、つまらないウェイトレスに夢中になって家出をし、馬鹿げた恋が破れたあとは15年にわたって路上をさまよい続ける。自分は白人なのか、黒人の血が混じっているのか。自己喪失の感情は彼から去らない。33歳のときジェファスンにたどり着くと、ジョアナ・バーデンの家に入り込み、小屋で寝起きしながら、昼はバンチと同じ工場で働き、夜は老嬢ジョアナと交わる日々を送るようになる。バーデン家は北部からジェファスンにやって来た「よそもの」だった。彼女は熱心な奴隷制反対論者の孫にあたり、自らも黒人救済運動に没頭している。クリスマスと退廃的な性に耽るうちにジョアナは彼を束縛し、自らの運動の後継者に指名する。自由でいたいクリスマスはこれを退け、さらには彼女を殺害し、屋敷に放火する。逮捕され、脱走するも、興奮した町の青年たちが彼を追いかけ射殺する。

クリスマスの追跡と同時進行で、町ではリーナがバンチの助けを得て子どもを出産する。ブラウンとも再会するが、彼女との関係は戯れだった彼は喜ばず、姿を消す。リーナは体力が回復すると、騒動の収まったジェファスンを後にして、再び逃げたブラウンを追って旅を続ける。その傍らにはバンチの姿があった。

以上が梗概だが、これを述べる形式が少し凝っている。登場人物の内的独白を地の文に挿入する「意識の流れ」の手法と、時間、空間を前後させた構成。とはいえ、本作と同時期に書かれた『響きと怒り』や『アブサロム、アブサロム!』と比べると手法の過激さは控えめであり、オーソドックスなリアリズム小説と大差なく読めるだろう。リーナの登場によって始まった小説はやがてクリスマスの物語となり、彼の生い立ちと並行してジェファスンの元牧師ハイタワーの半生が述べられ、アメリカ南部の田舎町の閉鎖性が指摘される。「よそもの」同士の男女は交わり、「環境の犠牲者」である男は自らの運命――血の問題――に反逆して死に、最後は再びリーナの旅の場面で終わる。暴力と情念が渦巻くクリスマスの暗い物語は、リーナの滑稽な物語に挟まれることで浄化されているように見える。

ジェファスンの排他性、閉鎖性は、厳格なキリスト教徒の不寛容と重ねられている。自らもその犠牲者であるハイタワーは独白するだろう、「小さな町だと、悪事はさらにやりにくいし、プライバシーを守る機会はさらに少ないから、そこで人は、他人のなかに普通以上にありもせぬ悪を見つけがちなのだ」、「なぜなら悪を見つけるにはたった一語でたくさんだったのだ」。そうした彼らの性情は、彼らの宗教と関係があると見る。
彼自身の土地、彼自身の捕らわれた血に対する讃め歌、すなわちそれは彼が生れて生きている土地の人々、何事をも、争わずには喜びも破滅も逃避もできない人々への讃め歌なのだ。この人々は喜びや陶酔には耐えられぬようであり、そこから逃避するために暴力と酒と喧嘩と祈りを用い、破滅するときにも、また、同様に、きまって暴力を用いるのだ だから彼らの宗教も当然のことに、彼ら自身やお互いを、十字架上に追いあげるようなものになるのだ

町の人たちは彼ら自身に疑念を向けずに済むように、自分たちのルールを守り通すために、喜んで、捕らえたクリスマスを処刑するだろうとも独白する。主人公の名前からも本作が宗教の問題を批判的に扱っているのは間違いなく(クリスマスの死はキリストと同じく33歳だ)、彼の生涯は厳格なルール(強くいえば掟)による迫害の連続だった。白人優越主義者の祖父の、狂気のごとく執拗な蔑み。その後引き取られた農家での厳しい躾。どちらもが彼の存在に否定的だった。怨恨感情を抑圧して、クリスマス少年はロマンチックな(と本人は思っていた)恋愛を夢想するが、現実には相手は下衆な女であり、希望は潰える。彼女にも血のことで侮辱され、それからはさまようように15年かけてアメリカ中を移動していく。最後にたどり着いたジェファソンでジョアナ・バーデンに接近するが、差別の強い南部では仕方ないこととはいえ、彼女との関係にも血の問題が絡んでくる。そして最後は法の裁きではなく興奮した住人による私刑で命を落とす。まさしくハイタワーが独白するように「環境の犠牲者」だろうが、同時に血の宿命ともとれるところがフォークナーの凄みだと思っている。自分が何者か判然としないまま生き、孤独感、不安感の果てに、それらを超える自由を獲得しようと望むクリスマス。どこまでも続く道路は、束縛からの自由に繋がっているように彼には思えた。しかし実際には。ジェファスンに到着すると彼の運命は下降の一途をたどりだす。交わるたびに堕落していく女とともに生きる日々。道路はいつしか以前の輝きをなくしていくようだ。
彼は恐れはじめた。彼にはそれが何であるかはっきり言えなかった。しかし次第に自分自身を遠くのほうから眺めるようになり、それは底のない沼の中にはまりこんだ人間に似ていた。彼はまだそれを明確に考えていなかった。ただ自分の目に映りはじめたのは寂しい、荒れた、涼しい道路だった。そうだとも、涼しい旅の道路なんだ。彼は考える、時には声を出して独り言を言う、「出てったほうがいいぜ。ここから出たほうがいいぜ」

女は彼と結婚したがっている。ここで放浪を終わらせるのもいいかもしれない、そう思わないわけではない。そうすればもう「うろつきまわらないですむ」。しかし考え直す、「いや。もしここで降参したら、俺は、自分のなりたい人間になろうとして生きてきたこの三十年を、むだにしちまう」。そうして躊躇っていると、今度は女がずばりと指摘する、あんたはいま、自分の人生を無駄にしているんだ、と。この言葉はクリスマスには痛手だった。女は憑かれたように黒人救済運動について熱っぽく語り出す、彼にはもう我慢できなかった。

迫害、受難といったモチーフはクリスマス一人でなく、ハイタワーやリーナの場合にも見出せる。ハイタワーには土地に魅せられた者が土地によって破滅させられるという皮肉な運命が用意されていた。リーナも、遊び人に利用された挙句捨てられるという受難の人になるのだが、しかし彼女はクリスマスやハイタワーと違って逆境を乗り越える強かさを備えている。他人のいうことを聞かず、笑う場面はなく、自己に沈潜しているような彼女は異様な人物に見え、そのため彼女が、よく指摘されるような希望の光を象徴しているとは思えなかったのだが(リーナのパートが明るいという見方は、クリスマスのパートが暗すぎるために生じた錯覚ではないか)、世俗を超越したような性格であるからこそ、彼女は難を難と感じず、ただ受け入れ、ブラウンを追ってジェファスンまで来たのに彼に逃げられてしまっても、さして落胆した様子も見せず、また一からやり直すかのように追跡の旅を続けることができる。フォークナーによるとミシシッピの八月中旬には、秋を予告するように涼しく、空は優しく輝く日が数日訪れる。この、キリスト教以前の時代を思わせるような光をイメージして『八月の光』というタイトルをつけたのだが、これはまたどこか異教的なリーナとも結びついているという。そう見れば、リーナがほかの人たちと話が通じないのは当然なのかもしれない。彼女は「よそもの」でなく、「異」なる存在であるから。土地の怨念に絡めとられて滅びる男(たち)と生き抜く女の対比が面白い。うだつのあがらぬ中年男を供に連れ、赤ん坊を抱いて旅を続ける娘の姿にはどこかユーモアも漂う。目的は本当にブラウン探しなのか、ただこの広いアメリカ中をどこまで行けるか試しているだけではないのか――小説の終わり近くで、リーナの生命力は、死んだクリスマスと対照的に示される。『響きと怒り』や『アブサロム、アブサロム!』にも共通する、強く図太い女の像。
女こそ、つつましく全てを受容する存在なのだ、彼の肉体の種だけでなく精神の種をも受け入れる容器として、神様が創りたもうたものだったのだ――

リーナが出産するのはバーデン邸から少し離れた、クリスマスとブラウンが寝起きしていた小屋だ。クリスマスはここで殺人を思い立ち、リーナはここで新たな命を誕生させる。本作が完成する前年に、フォークナーは長女を生まれてすぐに亡くしている、という伝記的事実を知ると、リーナの出産場面はより意味深く思える。

巻末の解説によると本作の主人公はリーナであるとする見方が強いようだが、読んで印象深かったのはクリスマスの孤独さだ。どこにも居場所を見出せず、15年間道路をさまよい続ける彼の孤独――それが人種問題に起因するとなれば、訳者の述べるとおり日本人の想像を絶するものであるだろう――と、運命に抗うように自由を求めて果たせない悲しみが、殆ど悪夢のようなイメージで迫ってきて離れなかった。
大きな男が誰もいない道路を行く光景ほど寂しいものはあるまい。彼はそれほど大きくも背が高くもなかったが、それでも彼の姿は砂漠の中に立つ一本の電柱よりも孤独に見えた。広くて空ろで影の濃い道路の中で、彼は亡霊のように見えた。地の下の自分の世界から出てきてさまよっている幽霊のようだった。

クリスマスとリーナは最後まで出会わない。もし二人が出会っていれば、何かしら救済が彼に訪れたのだろうか。リーナの「大地」(自然)は希望の、クリスマスの「道路」(文明)は滅びの象徴である、そういった解釈もあるようだ。


4102102019八月の光 (新潮文庫)
フォークナー 加島 祥造
新潮社 1967-08

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