epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『熊 他三篇』 フォークナー

<<   作成日時 : 2012/11/10 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

大森林。

ミシシッピ州にある大森林を舞台にした狩猟物語、「熊」「むかしの人々」「熊狩」「朝の追跡」を収録する。もっとも分量の多い「熊」が本書の中心になる。

アイク・マキャスリン少年は見習いとしてハンターたちの熊狩りに同行する。ド・スペイン少佐が所有するこの大森林には、年を経た巨大熊オールド・ベンが棲んでいた。ハンターたちは毎年大熊を狙うが叶わず、足跡を追っては見失ってしまう。少年は大人たちの狩りに同行するうちに生命を宿すような森に魅了される。大熊は大森林の備える神性の化身であり、彼に会うためには文明を捨てなくてはいけない――そう考えた少年は銃を捨て、さらには時計とコンパスも捨てて森の奥へ進んでいく。木々に遮られた陽光が帯状に差す地面は水分を含んで湿り、風に揺れる葉の音、鳴き交わす鳥の声が耳を震わす。もっと奥へ先へと進むうちに、いつしか彼は道を見失い、迷子になってしまう。困惑と恐怖。そのときだった、地面に大きな足跡を見つけたのは。まるで彼を導くようなその足跡をたどっていくと突然空地に出、目の前にはこちらを見つめる大熊の姿があった。少年と目が合うと、大熊はゆっくり奥の茂みへ向かい、振り返ってもう一度目を合わせてから姿を消す。道具の放棄ののち少年が大熊と遭遇する、というシチュエーションが何を意味するかは明らかだろう。自然界への入門。熊は少年と敵対しないどころか救う。この数年後、少年を助けた大熊オールド・ベンは(信州信濃の早太郎のような)巨大な野犬ライオンとの死闘の果てに、遂に人間に敗れ去る。狩りのあとで、少年の精神的な父親であるサム老人は自然の衰退を予感して亡くなり(おそらく安楽死)、そのとおり森は製材会社に売却される。森の守り神のようだった大熊が死んだのち、文明化の名の下に行われる侵略。小説は、少年が破壊されつつある森のなかに踏み込んで、老人の遺産――自然と交感する感覚――を継承し、彼がこの先もずっと森とともに生きるであろうことを暗示して終わる。

解説で訳者は興味深いことを述べている。フォークナーは少年時代に狩りのため林に入って、茂みで動いたのを兎だと思って撃ったところ、誤って連れてきた犬を殺してしまい、以後ふっつりと狩りを止めてしまったという。のち、中年になって狩りを再開するもののあまり熱心ではなく、ハンターたちのする夜話にじっと耳を傾けていた、とも。緑豊かなミシシッピの田舎に生まれたフォークナー(出身地の劣等感からパーティなどの華やかな場には照れ隠しに酔っ払ってから参加することがあった)が生命に向ける眼差し、共生と哀れみへの志向は、日本人にも親しみやすいものではないだろうか――少なくとも殺生をスポーツとして楽しむ心理よりは。

元来、人間とは原始林を恐れるものだ、というのもそれが自然の造り物だったからであり、互いに名も知らぬ間柄の人間たちが、そこに群がり寄って食い荒したのであり、食い荒された森ではあの大熊が仇名を持つようになり、いつしかそれはただの生きた大熊であるばかりか、古い消えた時代からの不変の生存物と思われはじめた――いわば大熊は古来の大自然の命の亡霊、象徴、復活神といったものであり、その大いなる足もとに、ちっぽけな人間どもが虚しい怒りと嫌悪心で襲いかかり、しがみついているのだ――


太古からの森を恐れ、敬い、それと比較しての自分の小ささ、無力さを感じながら惹かれる少年は、銃をはじめとする道具を捨てることで「自分を放棄し」大熊と出会うとはすでに述べた。道具を持つことは「汚れ」だと彼は思っている。こうした畏敬の心には、どこか東洋思想に通じる部分があるかもしれない(訳者は仏教を引いている)。大熊を狩るという冒険よりも生命へ向ける著者の優しい視線が印象的なこの短篇は、彼の「語り」がストレートに発揮されており、読んでいて素直に楽しい。大橋健三郎氏によると、面白いことに、主人公のアイク少年ははじめクエンティン・コンプソンとして構想されていたという(中公新書『フォークナー』)。

続いて収録の「むかしの人々」も「熊」に通じる(時期は少し遡る)アイク少年の通過儀礼の物語だ。初めての獲物の血を顔に塗りたくることで大自然と一体化する、というややもすれば原始的な儀式と、幻影のような大鹿。最後の場面では失われた無垢を回顧するような一抹の切なさが漂う。ここでも自然は神のごとき存在としてある。

ユーモラスな「熊狩り」「朝の追跡」は読みものとして悪くはないが、アイク少年の自然入門を述べた前の二篇を読んだあとでは物足りない。本書には人種差別や血縁関係や暴力事件といったフォークナー文学の特徴的な面は見られず、難解さもなく、彼の本領である長篇の濃厚さに疲れた読者には、一服の清涼剤と感じられるだろう。


400323233X熊 他三篇 (岩波文庫)
フォークナー William Faulkner
岩波書店 2000-06-16

by G-Tools


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『熊 他三篇』 フォークナー epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる