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zoom RSS 『ダロウェイ夫人』 ヴァージニア・ウルフ

<<   作成日時 : 2012/11/14 00:00   >>

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生への意志。

1923年6月13日のロンドン。本作はこの一日の朝から夜までの出来事を「意識の流れ」の手法を用いて述べる。軸となるのは、ともに著者の分身であるだろう二人の人物――クラリッサ・ダロウェイと帰還兵のセプティマスだ。クラリッサは政治家の妻でまもなく52歳、今夜自宅でパーティを開く予定になっている。セプティマスは戦争で心の傷を負った青年で、以後精神の不調に悩まされている。小説中で直接出会わないこの二人のうち一人は死に、もう一人は生き延びるだろう。

クラリッサは上層中流階級に属す。夫リチャードとの仲はよく、思春期を迎えた娘のエリザベスには少々距離を感じている。善良であろうとしているが、自分が無知な俗物であることは認めるし、周囲がそう思っているのも知っている。少女だったころはいまとは少し違った。もっと感情豊かだったような気がする。あのころには仲のよい友だちが二人いたが、些細なことから喧嘩になってもう何年も逢っていない。彼女と一緒にいられる時間を至福と感じたサリー・シートンと、もしかしたら彼と結婚したかもしれないピーター・ウォルシュ。あの二人はいまどうしているだろう。ロンドンを歩きながらクラリッサは思いに耽る。外界の事象に刺激されて彼女は自己に沈潜し、過ぎ去った日々を懐かしむ。同じロンドンの片隅では貧しいセプティマスが妻と暮らし、狂気と闘っている。健康になれるという口実のもとに彼を施設に隔離しようとする医師に憤り、やがて彼は自室の窓から身を投げるだろう。パーティのとき、当の医師からその話を聞かされたクラリッサは席を外して一人になると、死んだ青年に思いを馳せる。思いを馳せて、不思議な親しみを覚える。自分は年をとっていくうちに青春期の瑞々しい生命力を徐々に失くしていった。無頓着に、摩滅するがままに任せてきた。生きるとは、年をとるとはそういうものなのだと自らに言い聞かせながら。自殺した青年はそれを守ったのだ、わたしにはできないことをやってのけたのだ。生の悲観に傾くようなクラリッサだったが、今夜のパーティには数年ぶりに再会するかつての友人二人、サリーとピーターが偶然にも参加していた。三人とも、仲がよかった若いころに想像していたのとはずいぶん異なる人生を歩んだ。けれども三人とも、うまくいったのかいかなかったのか、念願叶ったのか否かは措いて、そうなるしかなかったのだろう一度きりのこの人生を、かすかな諦念を交えながら肯定している。小説は、失われた青春時代を優しく葬る抒情を湛えながら、かつて想い合った男女が接近する場面で終わる。

ヴァージニア・ウルフは13歳のときに母親を亡くしたのを境に、その後の人生を精神の病いとともに生きた(セプティマスの病状には自らの体験が投影されている)。セプティマスのパートで著者は狂気の主題を掘り下げる。正気の状態で――執筆、創作とは平生心の産物であるのだから――自らの狂気を見据え、確認するという作業に伴う負担はいかばかりだったか、想像するに余りある。早くに肉親を何人も亡くした経験も影響しているのか、ウルフには死を凝視する傾向があって、それは恐れであり、同時に願いでもあるような微妙な距離感で述べられる印象が強い。本作でも死は重要な主題のひとつになっている。セプティマスの死は、無慈悲な世界から自身を守りたいというような感情がはたらいているだろう。美しいものを美しいままに、という純潔への憧憬も含まれているかもしれない。少なくともクラリッサは、見知らぬ青年の死をそのように受け止める。かつて彼女も、歓喜の最中に、「いま死ねばこのうえなく幸福だろう」と独白するような少女だった。ウルフの執筆当初の構想では、セプティマスは本作に登場せず、クラリッサは小説の最後で死ぬことになっていた。構想の変化は死の克服と読める。セプティマスをいわば身代わりとして死なせ、代わりにクラリッサを救う。かつての自分がそうだったから理解できる死を選択した青年へ共感しつつ、もはや自分はそうした感情を越えて――耐えて――生きねばならない。年を経ることで失ったものは多いだろう、けれども手に入れたものもある。ある意味での図太さ、生きることを恐れぬ逞しさ、そうしたものを、かつて歓喜のうちに死ぬことを望んだ感傷的な少女は、三十年もの時をかけて自身のなかに育て、収穫したのだ。

ウルフに老いることへの強迫観念はあっただろうか。きっとあっただろう。もとより死に魅入られているところに、病いのために子をもつことを諦めねばならなかった彼女が、生命のリレーが自身で終わってしまうことに悔しさや寂しさを感じていたとしても不思議はない(日記に、子どものいる姉を羨む記述がある)。本作を執筆していたとき彼女は40歳を過ぎたばかりだった。自身より一回り近く年長の婦人を主人公に据えて、老いとともに摩滅していく感情の機微を彼女に吐露させる。そこに、そうなりたくないという拒否する気持と、それでもいいのだという受容する気持とのせめぎ合いを見る気がする。狂人を死なせて夫人を延命させるのには、著者の生への意志も込められているだろう。序盤では年齢を重ねることは否定的に、ネガティブを強調しながら述べられていくが、後半になると逆に、年月の積み重ねによって得られるものの尊さがうたわれる。年をとると若いころより他人を理解できるようになる、あるいは、わたしの体は55歳だけれど心は20歳の娘よ、といったピーターやサリーの言葉に、自らの生――時間――をポジティブに捉えようとする著者の心が透けて見える。

本作では地の文と人物の内的独白が区分なく叙述される。主要人物から端役にいたるまで数多の人々の意識は蜘蛛の巣のようにロンドン全市に張り巡らされ、彼らの心の声に誘われ導かれていくうちに、いつしか小川に足を浸すような、涼風に吹かれるような静謐な幸福感を覚えている。過ぎ去り二度と戻らない一瞬一瞬を、その輝きを保持したままテクストに定着させること。決して望むようにはいかない人生を、そうであるからこそ愛すべきなのだと説くこと。表現と内容を調和させた比類なく優美な小説がここにある。通しで読むのは3度めか4度めになると思うが、パーティでのピーターとサリーのやりとりは、何度読んでもその都度切なさで胸が詰まる。

昔からの癖だ、ポケット・ナイフをひらく癖、とサリーは思った。興奮するとナイフを開いたり閉じたりする。この人がクラリッサに恋をしていたとき、わたしたちはとても仲がよかった、わたしとピーター・ウォルシュは。リチャード・ダロウェイのことで、いつだったかの昼食のとき、あのひどく滑稽な騒動が起こった。わたしがリチャードのことを「ウィッカム」と呼んだからだ。どうして「ウィッカム」と呼んじゃいけないの? するとクラリッサはかんかんに怒った! それ以来、わたしとクラリッサは会わなくなった。この十年で五、六回も会っていない。そしてピーター・ウォルシュはインドへ行った。不幸な結婚をしたとなんとなく噂で聞いた。子どもがいるかどうかもわからないし、訊くわけにもいかない。彼はずいぶんと変わってしまったから。ちょっとみずみずしさがなくなった感じがするけれど、優しそうになったと思う。心から愛おしく思える。わたしの青春とつながっている人だから。この人からもらったエミリー・ブロンテの小型本はいまだにもっている。本を書くと言っていたはずだ、たしか? あのころは本を書くつもりになっていた。
「本はお書きになったの?」、片方の手をひろげ、そのがっしりとした形のよい手を、昔を思い出させるような仕草で彼の膝に置いて、彼女はそう言った。
「一行も!」とピーター・ウォルシュは言った。彼女は笑った。


生は死よりも尊い。そう述べてウルフは恐怖心を越えようと試みたのかもしれない。精神科医が冷淡に扱われるのは、ウルフが病者の立場から狂気を擁護しているためだろう。

4087605353ダロウェイ夫人 (集英社文庫)
ヴァージニア・ウルフ 丹治 愛
集英社 2007-08-21

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