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zoom RSS 『灯台へ』 ヴァージニア・ウルフ

<<   作成日時 : 2012/11/24 00:00   >>

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母の肖像。

再読、何度でも読む。スコットランドはヘブリディーズの島。ここに別荘を構える中年のラムジー夫妻には8人の子どもがいて、わけても末っ子のジェイムズは母の愛を享けている。別荘からは灯台が見え、夜の闇に明滅する灯りはジェイムズの憧憬をかきたてる。明日、あの島へ家族で出かけることになっている。しかし、いまから楽しみを待ちきれない彼を打ちのめすかのように冷酷に父はいう。明日は晴れにならないだろう。その言葉に、少年は殺意に等しい憎悪を抱く。母はわが子を慰める。別荘にはラムジー家のほかに多くの客が滞在している。そのうちの一人、タンズリーは、ラムジー夫人を齢五十を越えていまなお美しいと長嘆息し、女性画家リリーは少年と母の肖像を彼女独自の手法で描こうと試み、やもめの植物学者バンクスはリリーの絵に関心をもつ。結局灯台行は実現しなかった。ラムジー夫人は突然亡くなり、第一次世界大戦の勃発により別荘は放棄される。幾年も経過するうちに、かつて人々が集い、団欒した別荘は傷んでいく。ようやく戦争が終わったある日、亡き夫人を悼む目的で、結果十年も延期された灯台行をラムジー氏が提案する。別荘に集合するラムジー家の数人と知人たち。いまは16歳になったジェイムズは、父親の横暴に不快を秘めて従う。かつてあんなにも憧れた神秘的な灯台へ実際に上陸してみると、時の経過によって、すでに彼の感じる心は変化していた。画家リリーは彼らの乗る船が遠ざかっていくのを眺めながら、十年まえに未完成のまま放棄した絵に再び取り組み、そこに描いた夫人の肖像を見つめ、記憶を追って、自身のヴィジョン――認識――を獲得する。

舞台はスカイ島となっているが、実際には、ウルフが少女期の夏を過ごした、イングランド南西部の町セント・アイヴズだとされる。そこから、岩島に建つ無人のゴッドリヴィ灯台が見える。ラムジー夫妻は、ウルフの両親レズリー・スティーヴンとジュリアがモデルになっている。子連れ同士の再婚だったので夫婦には8人の子どもがいた(ヴァージニアはレズリーとジュリアのあいだに産まれた)。ウルフ自身の目は子どもたちでなく画家リリーに同期しているだろう。ジュリア・スティーヴンは若くして愛する夫を突然に亡くした過去があった。死ぬことができるのであれば恵みだとも、修道院に入りたいとも周囲に洩らしていた彼女だったが、三人の子の母親であれば自身の悲しみを封じる必要があった。レズリーとの再婚によっても彼女は立ち直れなかった。人生一寸先は闇だとして信仰を捨て、俗世における献身と奉仕の人として、身内に病人が出ると無理をしてでも看護に出かけて行った。多くの男が魅了された美貌は過酷な日々に損なわれていった。ウルフが母と殆ど接する機会をもてないまま彼女は亡くなり、その悲嘆が――父親であることを忘れて嘆き沈むレズリーの悪影響もあったか――彼女の精神を変調させてしまう。以後、精神の病いは死ぬまでウルフを苛んだ。宮田恭子氏は、母の喪失のみならず、ウルフ自身の、自分は母の何程を知っているのかという疑念が病いと密接に関わっていたのではないかと指摘している(『ウルフの部屋』)。曖昧な記憶のなかの母は、言い知れぬ深い悲しみをじっと堪えているようだった。

本作ははじめ、セント・アイヴズで過ごした少女期の思い出、両親とりわけ父親の性格を描くことを重視し、短い分量のものになる予定だった。個人的な動機から出発した創作はその後大きく変容する。ラムジー氏より夫人を描くことに重点が移る。全体で三部のうち、第一部で生きた夫人の肖像が示され、時を経た第三部でリリーによって回想される夫人の存在こそ本作の柱だろう。母ジュリアが看護に飛び回ったのと同じように、ラムジー夫人は島の貧しい人たちのもとを訪問しては、彼らのために何か力になれることはないかと考えている。善意の人。しかし著者は彼女に、こうした活動はすべて虚栄心、自己満足ではないかと反省させる。与える人は無私であったか、自分の心の空虚を埋めるための活動ではなかったか――娘が母に抱いていた率直な疑念だろう。リリーは追想する。
確かにかつてのラムジー夫人は、いつも与え続けていた。与えて、与えて、与えて、そしてそのまま亡くなって――その結果こんな羽目になったんだわ。実際のところ、彼女は夫人を腹立たしくさえ思った。(略)すべては夫人のせいだわ。早くに亡くなってしまって。

理不尽に憤るリリーの心情は、ウルフのそれでもあったはずだ。どうして家庭を放って、早くに亡くなってしまったのか。もっとそばにいてほしかったのに。

ウルフは、「一生の間で最も速く自由に」と日記に書くほどの短期間で本作を仕上げた。母の手紙や父の伝記を読むことはしなかった。べつの日の日記には「どうしてこれ程までに言葉に溢れ、自由に、思う通りのことが出来るのだろうか」と記すほどの内的衝動に駆られていた。姉のヴァネッサに読んでもらうと、彼女は、ここに描かれた母の肖像に苦しさを感じるほどだった、と手紙に書いて寄こした。この感想にウルフは狂喜する。姉への返事――
ラムジー夫人が母と似ているとあなたが考えるなんて、私はとても嬉しい。同時に、何故似ているかは心理的謎です。子供がどのようにして母のことを知り得たのでしょう。

1927年5月25日


「私が母について何を知っていたと思います? 多かろうわけがありません」と姉に書いているウルフは、想像力によって頼りない記憶を補いながら母の肖像を描いたのだった。不思議なことに、それまで彼女に「まとわりついて」いた母の幻影は、『灯台へ』を書き上げたのちに見えなくなったという。エッセイ(「過去のスケッチ」)にこうある。

……それを書き上げた時、私が母に取り憑かれることはなくなった。今はもう母の声を聞くことも、母の姿を見ることもない。
私は自分に対して精神分析医が患者に対してすることをしたのだと思う。私はずっと長い間感じ、心の奥深くで感じていた感情を表現した。そして表現することで私はそれを説明し、それから葬ったのであった。


生存を要求する声が、彼女の内部から呼びかけたのだ。書け、と。亡霊を乗り越えるために、乗り越えて生き抜くために書け、と。

ウルフが『灯台へ』を書くのは彼女が40代になってからだった。すでに母親を亡くして30年が経過している。「どこか恐ろしく敵意があるように見え、うっかり隙を見せるとすぐにでも飛びかかってくるもののように思える」人生を、病いに敗れず生きるために、その機が熟すのに、これほどの年月を待たねばならなかった。訳者は「今は亡き両親に寄せるレクイエム」と本作を評する。管理人は、死者への呼びかけと見る。お節介なラムジー夫人は、リリーとバンクスの結婚を期待していろいろ世話を焼いたが、結局二人は結ばれず、中年になったリリーは独身のまま、夫人がその価値を認めていなかった、というよりは理解できなかった絵を、最後に逢ってから10年経ったいまでも描き続けている。リリーの場合と同じように期待した別のカップルは、結婚はしたものの暮らしは破綻してしまい、また夫人の息子の一人は戦争で、娘の一人はお産のときに、それぞれ亡くなってしまった。無名だった詩人のカーマイクル氏はいまでは有名になり、ジェイムズやキャムは大人になりかけている。かつてはカタログ写真を切り抜きするのに夢中だったジェイムズが、いまは灯台行のボートを逞しく漕いでいる。生者は死者のいないその後を生きている。死者が永遠に知ることのない時間を生きている。リリーがラムジー夫人に呼びかける場面に、『ダロウェイ夫人』に示されたような、決して望みどおりにならない生を生きるしかない(それはウルフが母ジュリアから受け継いだ現実認識だったかもしれない)人間存在の哀れみを強く喚起される。誰かは死に、誰かはその後も生きていく、空白のできてしまった世界を、人生を。交流は二度とない。生者から死者への、一方通行の呼びかけしか。管理人はウルフ文学からいつも、有限の存在である人間が抱える、どうしようもない悲しさを感じずにいられない。

高名な思想家だった父レズリーは哲学者ラムジー氏として登場する。かつては時代に貢献するような著作をものした、けれどもその後はぱっとしない。自身の知性を懐疑し、不安にかられては妻の慰めを――まるで子どものように――求める姿は滑稽を通り越して不気味だ。大声で詩を口ずさむ、些細なことで不機嫌になってそれを隠さない。ジュリア亡きあと、絶望と自己憐憫を子どもたちに押し付け、金銭に対する不安からヒステリックになったレズリーにウルフは憎悪を抱いたが、自分と通じるものを父に感じていたのもまた事実だった。彼が図書室を開放しなかったら、作家ヴァージニア・ウルフはいただろうか。

このラムジー氏と夫人は対照的に描かれる。偏屈で意地悪いラムジー氏と、上品で善良でお節介な夫人。ウルフは醒めた目で批評しつつ、愛情を込めて両親の肖像を描きだす。夫婦が二人きりになる第一部の最後の場面は、ユーモアと哀感に満ちて見事だ。バンクスがリリーとアムステルダムについて語る場面や、リリーが、彼女の靴の紐を結ぶために屈んだラムジー氏を見下ろす場面も忘れがたい。島に上陸するとき、偏屈な父親からボートの操縦を褒められてジェイムズが内心ひそかに得意になる場面は、冒頭の、少年だった彼が父親に向けていた激しい憎悪を浄化する。小説の構成としては、第一部と第三部のあいだに短い第二部があり、ここで夫人の死後、放棄され荒れ果てていく別荘の情景が述べられる。朽ちていくかに見えた別荘が、戦争終結後に手入れされ、部分的にとはいえ蘇っていくのは、第一部と第三部をつなぐ構成上の必要と、荒廃していく世相を安定に向かわせようとする著者の願いとが込められてあるのだろう。印象派ふうの作風と評されることもあるウルフの特徴が顕著に表れ、本作のうちでもとくに好んでいる部分だ。


「貴方」も「私」もそして「夫人」も、皆死んで消え去るのです。何も残らないし、すべては変わります。だが言葉は違うし、きっと絵も違うはずでしょう。でも、わたしの絵は屋根裏部屋にかけられるのがせいぜいで、ひょっとすると丸めてソファの下に突っ込まれてしまうかもしれない、とリリーは思う。いや、たとえそうであっても、そのような絵に関しても氏の言葉はやはり当たっているのだろう。こんななぐり描きでさえ、そこに現実に描かれたものより、それが表そうとしたものゆえに、きっと「永遠に残る」はずだ

描くことで対象を永遠化する。画家リリーの努力はそのままウルフのそれだった。過ぎ去り帰らぬものに呼びかける声、一瞬あとにはもう消えている輝きを、独自の手法で宝石のように美しく強く、テクストに固着させること。個人的な愛惜の念と、それを引き受けて前へ進もうとする生への意志とが、ウルフにこの感動的な小説を書かせた。それはまた、すべての子たちが願う夢の実現でもあった。自分の母親を永遠化する、という夢の。



4003229118灯台へ (岩波文庫)
ヴァージニア ウルフ Virginia Woolf
岩波書店 2004-12-16

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『灯台へ』において無視することができない母親とウルフとの関係を念頭に読むことができたのは宮田恭子氏に負うところが少なくない。
4622045494ウルフの部屋
宮田 恭子
みすず書房 1992-02

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
epiさん、ブログ更新を再開なされたのですね。しかもフォークナー、ウルフといきなり難儀な作品ばかり・・・。でも嬉しいです。ウルフの『灯台へ』はちょっと難しそうだと二の足を踏んでいました。でもepiさんの文を読んで俄然興味が湧いて読みたくなって来ました。ちなみに私は読書メーターで同じHNで時々感想を載せています。よかったらどうぞ(宣伝ではありません)。これからも無理せず更新してくださいね。
ひらり
2012/11/25 18:35
>ひらりさん

あたたかなコメントありがとうございます。書き溜めた分をいくらか短いスパンでアップしたあとはたぶん週一回更新になるかと思います。お付き合いいただければとても嬉しいです。

フォークナーはともかく、ウルフはそこまで読者に我慢と集中を求める作家ではないとわたしは思っています(『波』は途中で挫折しましたが)。短篇や『ダロウェイ夫人』もよいものですが、『灯台へ』はさらに上と見ます。普通に面白い家庭小説ですので、あまり構えずに気軽に向かわれてはいかがでしょうか。
epi
2012/11/25 21:32

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