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zoom RSS 『悪徳の栄え』 マルキ・ド・サド

<<   作成日時 : 2012/11/28 00:00   >>

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悪徳の幸福。

裕福な家に育ったが、両親の死によって貧しい孤児となったジュリエットとジュスチーヌの幼い姉妹。姉は、妹が無邪気に信奉する美徳と訣別して、より充実した生のために悪徳の道に身を投じる。育てられた修道院で性の喜びを知ったのち、売春宿で体を売り、ときに盗みを犯しながら、関わる人々から悪の哲学を吹き込まれて意識的な遊蕩者へと成長していく。ジュリエットに悪の哲学を説くのは僧侶や貴族などの社会的強者だ。何も恐れずにただひたすら自らの欲望に忠実たれ、彼らは弟子に繰り返しそう聞かせる。神が真に全能ならば、なぜ人間に悪の属性を与えたのか。悪は神の意に叶っているのではないか。そもそも宗教など信じるに値しない。その宗教を生み出した者が生まれる以前から宇宙は厳として存在していたのであり、彼の言葉で世界を測らねばならない理由などない。愚昧な連中のみが、宗教が難解に、神秘的になればなるほど己の無知のためにありがたがる。神とは畢竟自然であるだろう。この自然は人間を愛しもしなければ憎みもしない。ただ永遠に無関心であり続ける。来世など恐れる必要はだからない。人間にとって無知と同胞の悪意以外に地獄などない。善人も悪人も死ねば等しく無に帰る。悪の実行の妨げになる良心は人間の本性ではなく誤った教育による偏見に過ぎない。意識的に悪を実践していくうちにこれを克服して自由を得られるだろう。同胞愛など顧みる必要はない。そんなものは弱者が生存のために編み出した戦略であって、強者はそれを退け、弱者を自らの満足のために利用せよ。自然は人間に感覚を与えた。これを快楽で満たすことこそ人生の幸福である。

はじめは悪を手段として用いていたジュリエットは、遍歴を重ねるにつれ悪を犯すことそれ自体を目的にしていく。刺激は反復によってマンネリ化する。常に新鮮で激しい快楽を得るために、彼女の罪悪はエスカレートの一途を辿る。奔放な性交や窃盗といったレベルだった罪悪は、やがて誘拐や殺人へと発展していく。その内容も、人間の想像力の限界を志向するかのごとく醜悪の度を強めていく。肛門性交、輪姦、強姦、獣姦、屍姦、近親相姦、鞭打ち、糞尿食い、内臓食い。犠牲者たちは遊蕩者の情欲を満たすためにのみ存在する「物」のように扱われる。この「成長」過程でジュリエットの感情は磨り減っていき、ただ快楽の感知のみを生存目的とするマシーンへと変貌していく。終盤で彼女は、7歳になる実の娘(肉親の情愛はない)を男たちとともに性の玩具として弄び痛めつけたのち無惨に殺害するという、まさしく神をも恐れぬ所業に手を染めるまでになる。

本書は全体の約三分の一の分量に縮めた抄訳だ(いずれ水声社から完訳が刊行されるだろう)。訳者が述べるように本作は、はじめ手段として罪を犯していた少女が、「教育」によって目的のための悪をなす「哲学者」へと成長していく教養小説として読める。とはいえ基本的には、悪人との邂逅→悪をめぐる哲学議論→放縦というパターンの反復なので、物語の進展とともに凄惨さが増していくとはいえ退屈するのは否めない。この構成と作中で披露される悪をめぐる哲学のおおまかな内容は、『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』と共通する。個人的には――初めてのサドだったからという理由もあるだろうが――虐げられる妹の語りによる『ジュスチーヌ』のほうが衝撃度は強かった。抄訳だからか、本書には『ジュスチーヌ』にあった美徳と悪徳の対立がまったく見られず、悪徳によるワンサイドゲームになっていて単調だ。また、弱者に寄り添うようにして小説を読むため、加害者による語りよりも被害者による語りのほうにより強く「恐怖と哀れみ」を喚起される(のちに書かれる『新ジュスチーヌ』――本作の姉妹編――では叙述は三人称となり、ジュスチーヌは言葉を奪われるだろう)。『ジュスチーヌ』にあった、犠牲者たちが泣き叫んで助けを乞う場面も殆どないので、遊蕩者たちの残虐性のインパクトも弱い。代わって『ジュスチーヌ』になくて本作にあるのは爽快感だ。加害者ジュリエットは次々とおぞましい犯罪に手を染めて悔いない(一度だけ改心しかけるがすぐに思い直す)。一度悪の道に足を踏み入れたからには悔悛などはありえず、妥協もなく、自身が信じる道を突き進むのみ。その結果、彼女は莫大な財産と強力な後ろ盾を手に入れる。ジュリエットの潔さと強い意志はすがすがしいような気持にさせてくれる。彼女は終盤、溌剌たる口調でこう述べる。
ごらんのとおり、みなさま、あたしは現在こんなふうに幸福な境遇におります。そして正直に申しますが、罪悪を熱烈に愛しております。罪悪のみがあたしの官能を刺激するので、あたしは人生の最期の瞬間まで、罪悪の原則を公言して行くつもりです。あらゆる宗教的な恐怖からまぬかれているばかりか、用心深さと財力とによって、自由自在に法網をくぐることだってできるのですもの、いったいどんな神の権力、あるいは人間の権力が、あたしの欲望を拘束することができましょう? 過去はあたしを勇気づけ、現在はあたしを痺れるような感覚で酔わせます。そして未来も、ほとんどあたしを怖がらせることはありません。だから、あたしの人生の残りの部分も、おそらくあたしの青春のあらゆる放埓をはるかに多く上回るものではないかと思われます。自然が人間を創ったのは、人間が地上のありとあらゆるものを楽しむためにこそでした。これが自然の鉄則であって、あたしの心の鉄則も永久にこれのみです。

言うまでもなく本作はサドの「適法」と「違反」、二種類の作品群の後者に属す。

『ジュスチーヌ』と同じく、本作の最後でもジュスチーヌは雷に撃たれて死ぬ。『ジュスチーヌ』ではその死によってジュリエットは改心するが、本作ではその死が美徳の虚偽を示して、ジュリエットは一層悪徳の道に邁進する決意をする(この結末もまた本作の爽快感に繋がっているだろう)。悪徳のおぞましさをえんえんと述べることで不快感を誘い、読者を美徳へと向かわせる逆説的な啓蒙の書物としても読める(サド自身が自作――「適法」の作品――に関してそう解説している)。残虐非道なジュリエットに嫌悪を感じつつも惹かれるのは、美徳がわれわれを拘束して生の可能性を制限するのに対して、何からも束縛されない悪徳を実践する彼女の生きかたが開放的で、生から重荷を除いて軽くしてくれるように感じられるからだろうか。

サド文学の特徴として、同時代の書物からの剽窃(あるいは着想)および故意の曲解による引用がある。本書で述べられる悪の哲学は同時代の書物に多くを負っていると思われる。これらの文学手法とともにサドには――『ジュスチーヌ』で植田氏が指摘しているように――社会性への強いこだわりが見られる。サド文学において遊蕩者はすなわち社会的強者だ。弱者は権力者の餌食とされる。また、サドの描く放縦の場面は、(恋愛)感情を一切排除して感覚の満足のみを追求する外科的な傾向を示す。優生思想や宗教冒涜(ジュリエットが歴代法王の醜行――もちろん作り話――を列挙する場面さえある)等の言説には爆弾と例えたいような激烈さがあり、ドストエフスキーといいニーチェといい、既成の価値観との長い年月にわたる格闘が根底にあることが、西洋思想の強靭さに繋がっているのを窺わせる。



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