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zoom RSS 『日本文化私観』 坂口安吾

<<   作成日時 : 2012/12/31 00:00   >>

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生きろ。

坂口安吾による日本人論、文学論、政治論を主として収録している。安吾の思想はいたって実利的かつ真正直なものであり、解説の川本三郎氏が指摘しているように「健康的」だ。「日本文化私観」の有名な一説、「京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ」には、現実的な彼の思想が端的に表れている(「問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ」)。安吾にとっては伝統や美などはどうでもよくて、いま生きているわれわれの生活が何より大事だった。過激なことをいっているようにも思える。しかしこれは人間への信頼に裏打ちされた発言なのだ。「京都の寺や奈良の仏像」が失われても、人間は生きているかぎりそれに代わる新たなものをまた作り出す力はある、安吾はそう見ている。文化とは進歩である、とも。人間に可能なのはせいぜいいまをよくすることくらいで、未来には未来の人間たちがいるのだから彼らに任せておけばいい、われわれはわれわれの時代をよくすることに力を尽くせ。地に足のついたまっとうな意見だと思う。対象に正面から相対している彼の真摯さは、読んでいて気持いい。

終戦の翌年に発表された「堕落論」は安吾の名を一躍高めた。軍国主義的な価値観が敗戦によって崩壊し、混乱と不安の時代において、安吾は「生きることは堕ちることだ」と喝破し、裸になって出直そうと述べた。特攻隊員は闇屋になり、未亡人は新しい男を好きになる。戦時中であれば退廃となじられただろう。しかし、特攻隊員が闇屋になり、未亡人が新しい男を好きになることの何が退廃なのか。生きていく人間の、自然の姿ではないか。堕落という言葉はアンモラルな響きがあるが、ここで説かれるのは正道のモラルであり、むしろ禁欲だの忍苦だのといった一見美徳のごとく見えるものこそ、人間の本然を歪める元凶とされる。安吾は「堕落」という言葉を逆説的に用いて、人間の生の営みをまるごと肯定したのだ。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外のなかに人間を救う便利な近道はない。


安吾は二十歳のとき、「求道の道を得るため」に代用教員を依願退職し、仏教書や哲学書を読みふけり、夜早く寝て未明(午前二時)に起きる生活を一年半続けた、と巻末の年譜にある。彼はそういう人間だった。「堕落論」は安吾なりの悟りであり、裏返しのストイシズムであるようにも管理人には思える。「続堕落論」にはこうある。

「人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭なものを厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義はご法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることがまず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その歴史が始められる。


たやすいようでいて容易でない。われわれは世間のなかで生きているから、安吾のいうとおりを実践しようとすればやがて孤立してしまうだろう。彼の思考が最終的には孤独の問題に逢着するのはだから当然なのだ。安吾にいわせると真の関係とは対立のうちにあるという。真の関係がすべてそうなのかはわからないけれども、少なくとも恋愛に限っていえば、まさしく孤独な者同士が、互いの孤独を越えて結びつこうとする努力のうちに愛が存在しているように管理人は思っている。「心の壁」が消えてしまっては、愛もまた消えてしまうだろうと。

「生長は常に変化だ」といい、「私は弱者よりも強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ」と述べる安吾に、ふとニーチェが重なる瞬間がある。ニーチェが戦ったのはキリスト教(の道徳)だった。安吾は――「日本文化私観」や「デカダン文学論」や「枯淡の風格を排す」などに顕著だが――日本の旧弊な価値観と戦っている。思想と生活が一致するとき、思想に肉体が宿る、と書いている。身体と思想とは別個のものではない。もっとも、ニーチェにあった喜びの哄笑は安吾には聞かれない。ユーモアも備えているけれど、安吾のほうがニーチェより厳粛だ。

私は世のいわゆる健全なる美徳、清貧だの倹約の精神だの、困苦欠乏に耐える美徳だの、謙譲の美徳などというものはみんな嫌いで、美徳ではなく、悪徳だと思っている。
困苦欠乏に耐える日本の兵隊が困苦欠乏に耐え得ぬアメリカの兵隊に負けたのは当然で、耐乏の美徳という日本精神が敗北したのである。人間は足があるからエレベーターでたった五階六階まで登るなどとは不健全であり堕落だという。機械にたよって肉体労働の美徳を忘れるのは堕落だという。こういうフザけた退化精神が日本の今日の見事な敗北をまねいたのである。こういう馬鹿げた精神が美徳だなどと疑われもしなかった日本は、どうしても敗け破れ破滅する必要があったのである。
然り、働くことは常に美徳だ。できるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。ガン首の大きなパイプを発明するだけの実質的な便利な進化を考え得ず、一服吸ってポンと叩く心境のサビだの美だのと下らぬことに奥義書を書いていた日本の精神は、どうしても破滅する必要があったのだ。

「デカダン文学論」


こうした激しさの背後に、苦に満ちた世界で生きていくしかない人間の悲しみをまっすぐに見つめる目がある。坂口安吾とは畢竟とびきりのヒューマニストなのだ。何よりも人間を愛し、人間とその未来を信じた。

人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。自分一人だけがそうなんだから。銘々がそういう自分を背負っているのだから、これはもう、人間同士の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。

「教祖の文学――小林秀雄論」


本書に収録された文章の半分以上はほかのアンソロジーで幾度も読んでいる。それでも、安吾の誠実な言葉は読むたび常に生きる勇気を与えてくれる。


4121601262日本文化私観 (中公クラシックス)
坂口 安吾
中央公論新社 2011-07

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