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zoom RSS 『この人を見よ』 ニーチェ

<<   作成日時 : 2012/12/04 00:00   >>

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ニーチェと健康。

本書が書かれたのは1888年の秋。ニーチェは44歳だった。翌年、トリノの広場で昏倒してのち、1900年に逝去するまで「精神の闇」に囚われることになる彼の、最後期の著作になる。それまで殆ど黙殺されてきたニーチェは晩年になって外国で注目されるようになり、読者の数を増しつつあった。この高揚と、注目の的となりつつある自身が誤解されることを防ぐ必要から本作は書かれた。ニーチェが果たした仕事は、これまでの西洋世界の柱であったキリスト教的価値観の転覆とそれに変わる新たな価値の創造だったが、彼は本作の序文で、自分は有徳者の正反対であり、聖者になる気はなく、人類を「改善する」つもりなど微塵もない、と断っている。彼の望みはただひとつ、これまで人々を支配してきた「偶像」を転覆することだと述べている。ニーチェの願いとしては、彼の著作を読んだ読者が、これまで根拠なく正しいとされてきたことを盲目的に信奉するのではなく、いま一度生について意味を問い、考えるようになることだったのだろう、と管理人は推測する。ニーチェの思想とて絶対視されて新たな宗教と化してしまえば、彼が否定したキリスト教と同じく人を束縛するドグマに堕す。ニーチェは教祖になるつもりはないという。彼は問題を提起するが、答えを与えてはくれない。答えは各人が各々の生の現場において求めなくてはならない。主著『ツァラトゥストラ』の扉に、「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」と書いたニーチェの意図を汲めばそうなるはずだ。

本作は主として、ニーチェの自伝と、著者自らによる著作の解説の二種類の内容から成っている。思想問題は読者各自が自分にとって刺激的であり、切実であるもののみを汲めばいい、というか汲むしかできない。管理人にとってのニーチェの面白さは、身体や健康への言及箇所にある。病いに苦しみ、最後はそのために闇に閉ざされたニーチェは、(『喜ばしき知恵』の序文に顕著なように)人一倍健康であることのありがたさを知っていた。彼の健康への言及は、病気であるより健康なほうが愉快であり、健康であるから人は笑い、踊ることができる、というシンプルな理由から生まれたいたって自然な傾向に過ぎない。キリスト教が人間本来の生命力を衰弱させたと主張するニーチェは、健康の問題(心も身体も)から離れられない哲学者だった。

肉体が霊感を受けるのだ。「魂」などは放っておこう……


ニーチェは、栄養と、住む土地と、休養を正しく選択することを健康のために不可欠だと説く。栄養に関しては節制を勧めている。酒も珈琲も不要で、飲みものは水がいい。長たらしい食事や間食は避けたほうがいい。できるだけ腰を下ろしている時間も減らすべきだ(「戸外で自由に運動しながら生まれたのではないような思想――筋肉も祝祭に参加していないような思想は、信頼せぬこと」)。「すべての偏見は内臓にもとづく」とも述べている。節度を知ることは身体に関わることのみならず、精神の楽しみ――休養――である読書にもあてはまる。あれこれ読むのではなく、少数の、自身の好みに適った書物を読むべきだと書いている。土地や気候が身体に与える影響は無視できないといい、各人にとって快適な土地に住むことの大切さも説く。総括すると、人間には自己を守ろうとする本能が備わっており、その声に従って生きよということになるか。なるべく「否」という回数を減らして快適に日々を送ることがわれわれの健康にとって重要な要素になるという。わずかな不快であっても、日々直面するうちにわれわれの生は傷んでいく(「われわれの大きな出費とは、小さな出費がむやみに度重なることである」)。これは生の浪費であるとまでニーチェはいう。メンタル面では、ありえない空想に逃避するのではなく、現実を直視して受け容れることの大切さが説かれる。「わたしは、何事かが現にある状態と違ったようになることを、いささかも望むことがない」。「運命愛」はニーチェがもっとも重要とみなした徳だった。それはまた、自律的な生への促し――「永遠回帰」の思想――とも繋がる。

人間の偉大さを言いあらわすためのわたしの慣用の言葉は運命愛である。何ごとも、それがいまあるあり方とは違ったあり方であれと思わぬこと、未来に対しても、過去に対しても、永遠全体にわたってけっして。必然的なことを耐え忍ぶだけではない、それを隠蔽もしないのだ、――あらゆる理想主義は、必然的なことを隠し立てしている虚偽だ――、そうではなくて必然的なことを愛すること……


およそ存在するものであるかぎり、何一つ排除してよいものはなく、何一つ無用なものはない


ニーチェの健康志向は、病いや死への恐れから生じるような、いわゆる「死回避行動」ではない。中井久夫氏が指摘するように、「安全を求め、死から遠ざかろうとする行動は真の喜びを与えない」(ちくま学芸文庫『「伝える」ことと「伝わる」こと』)。ニーチェは、人間は本来喜びを欲しがる存在だと見なしている。

ニーチェが説く自律的な生とは非常に厳しいものであり、強者でなくてはとても実践できない。『喜ばしき知恵』において危険を顧みず飛び込んでいく人間を称揚し、『ツァラトゥストラ』において綱渡り師に栄誉を与えたニーチェだった。この綱渡り師が死んだのちに栄誉を与えられている、ということを念頭に置いてもよいかもしれない。彼のいう健康とは、そのような強靭さと密接に関係している種類のものだ。

タイトルは福音書の一節から取られている。生涯をかけてキリスト教を否定したニーチェは、自身が新しい価値の創造者として誤解され、磔にされるような未来を予知していたのだろうか。その人自身を攻撃することは殆どなかったイエスと、自身がその化身であると自負する異教の神ディオニュソスを対置させる結びの文章を読むと、彼のなかには最後までキリスト教(あるいはキリスト教的なるもの)が根強く残り続けたのだろうと思えて複雑な気分になる。ニーチェは「生きる勇気を与える思想家」であると思っている。けれどもそうした捉えかたは、彼の思想の背景にあるヨーロッパ文化の二本柱――ヘレニズムとヘブライズムの歴史をいわば血の記憶として身内にもっていない日本人読者の限界を示すものであるのかもしれない。われわれは、彼が憧憬し、打倒せんとした文化をもっていない、別の文化圏の読者であるから。

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ


4003363965この人を見よ (岩波文庫)
ニーチェ F.W. Nietzsche
岩波書店 1969-04-16

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