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zoom RSS 『散文小品集T』 ローベルト・ヴァルザー

<<   作成日時 : 2012/12/11 00:00   >>

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散歩者の夢想。

いま管理人に読むことの喜びをもっとも与えてくれる作家の作品集の4巻(事情により3巻より先に刊行された)。ヴァルザーは35年の執筆期間に、短篇よりもさらに短い「散文小品」を千数百篇書いた。本書はそのなかから、「路上で」「会社で」「劇場」「ベルリン」「テクストは踊る」「作家の肖像」「僕はどうなったのか」の7つのセクションに分類して36篇を収録、加えて中篇「散歩」が収められている。

多くがスケッチふうの、散文小品(あるいは掌編)としかいいようのない文章ばかりで(「ある時期、わたしは書物の執筆から散文小品書きへ立場を移してゆきました。というのも、長々と続く叙事的連関はわたしをいわば苛立たせるようになったのです」)、筋の展開や登場人物の魅力といった要素は弱い(いくつか「落ち」のある小品もある)。エッセイとも違う。あくまで虚構の結構で述べられている。やはり散文小品としかいいようがない。いや、ジャンル分けなどどうでもいいだろう。文章を読む、ただそのことの快楽をこの1冊は教えてくれる。

わたしの書く散文小品は、わたしの考えるところでは、ある長い、筋のない、リアリスティックな物語の部分部分を成している。あれやこれやの機会に作成したスケッチは、一つの長編小説のあるいは短めの、あるいは長めの章なのだ。先へ先へと書き継いでゆくその小説は、同じひとつの小説のままで、それは大小さまざまに切り刻まれて、ページもとれてばらばらになった<わたしという本>と名づけてもらってもよいものだ。


管理人がとりわけ感心したのは、「雪が降る」「劇場火災」「散歩」の三篇。「雪が降る」は4頁ほどの分量でありながら、本書中もっとも深い感動を覚えた。雪が降り積もっていく様子を言葉でスケッチしたこの小品の魅力をどう述べたらいいのだろう。訳者はこの小品を「ヴァルザー的散文の極致」と後書きに書いている。ヴァルザーは、作家とは「あらゆるものの中に入り込むことのできる存在である」と考えていた。彼は眼で的確に降雪という自然現象を捉えながら、同時に自身をそのなかに溶かしていく。ヴァルザーは自然に対して熱狂的な愛を抱いていた作家であり、彼のその一面が凝縮された一篇といえるだろう。空から降ってきた雪が地上のあらゆるものの上に徐々に積もっていき、やがて世界を白一色に染めていく、その過程を、陶酔を込めて言葉でスケッチした一篇、「雪が降る」についてはそれ以外に説明の言葉がない。最後には雪のなかに倒れた兵士と、彼の帰りを遠い地で待っている女が登場して切なさをかきたてる。この一篇から受ける感動に匹敵するものとしては、プルーストと吉田健一しか思い浮かばない。惜しむらくは、窓際に立って雪景色を眺めていた女が、突然霊感を受けて恋人の死を知ってくずおれるという結末で、ここはむしろ、女は兵士の死を知らず、帰りを今か今かと待っている、そういう宙ぶらりんな結びのほうがより哀切さが増したのではないだろうか。個人の嗜好といってしまえばそれまでだが。

助手』の記事に、「激しい、劇的なカタストロフの感覚はヴァルザーには無縁であるようだ」と書いた。しかしこの感想は誤りだった。「劇場火災」は彼が敬愛していた作家クライストに通じるような、激しいカタストロフの小品だ。劇場が火事になり、人々は恐怖に駆られて泣き叫び、助かるために出口へ殺到する。桟敷席から身を投げる人々が下の席の人々を押し潰し、転倒した子どもたちは逃げ惑う人々に踏み潰されて死ぬ。そんな阿鼻叫喚の地獄のなかにあって、一人の剛毅な男は負傷しながらも懸命に救助活動にあたる。ヴァルザーの作品全体のなかでこの小品がどのような位置づけになるかは知らないが、不穏さと静穏さが微妙に均衡を保っているような作風と思っていた管理人のヴァルザー像の修正を迫る一篇であり、本書中での異質さも含めて忘れられない。ドライな語りといい、繰り返しになるがクライストの短篇とよく似ている。彼のほかに、ヴァルザーはヘルダーリンビューヒナーを愛読しており、彼らのスケッチは「作家の肖像」セクションに収められている。

そして「散歩」。ヴァルザーは書くことと並んで歩くことを愛した人で、書くことをやめたのちも散歩の趣味は死ぬまで止さなかった。「散歩」はこの活動のいわば報告になる。

皆様十分にご存知のように、筆者は散歩も執筆も同じように愛好しているのです。もっとも、もしかすると後者については、前者に比べるならほんの少しばかり愛好の度合いが低いと言えるかもしれないのですが。


「散歩は」とわたしは答えて言いました。「絶対に必要不可欠なものなのです、わたし自身を活気づけるためにも、生きた世界とのつながりを失わないでいるためにも――この世界を感じ取ることなしには、わたしは一文字の半分すらも、わずかばかりの韻を踏んだ詩節も散文も書くことができないでしょう。散歩しなければわたしは死んでしまうでしょう、そして情熱をもって取り組んでいるわたしの職業も破滅でしょう(略)」


家を出て町を通り、森を抜けて湖へと至る、約半日の散歩のスケッチ。その途中で語り手は幾人かの人とあるいは会話をあるいは論戦をし、昼食の約束を果たして腹を満たし、最後は湖畔で花を摘む。風景の観察、歩くことの喜び、平日の昼から散歩している自身の弁明、そして貧しくとも自立した一人の男であることの矜持などが述べられる、非常に豊かな内容の一篇となっている。散歩は運動だけでなく、観察の機会でもある。「雪が降る」において自然を凝視していた作家/歩行者の特異な視力はここでも活かされ、周囲の観察はときに昂じて夢想へ繋がる(ベンチに腰かけている女を女優と思い込んで話しかける)。この場面は病いの不穏さを嗅ぎ取るより、散歩の高揚が誘った白昼夢と見るほうが適切だろう。ユーモラスに語られながら進んでいく歩みは、終点に到着するとやや暗転して虚無と喪失の述懐となるが、それを越えて生きようとする語り手の(控えめな)決意が胸を打つ。何気なく摘んでいた野の花は、自身の「不幸を飾るため」だったのだろうか。しかし彼は寝そべっていた野原から立ち上がって、夕暮れのなか帰途に就く。生きるために、家へ帰っていく。

ヴァルザーを愛読していたカフカも、同じようによく歩く人だった。プラハの町を路地裏にいたるまで熟知していたという。最初の引用部分は、カフカ文学についてもいえることのように管理人には思える(カフカの作品はどれも彼の生の記録文書だと思えてならない)。いまの管理人には、生の不穏をユーモアを交えながら空白によって表現したカフカよりも、自然に熱狂、陶酔するヴァルザーのほうが好ましい。ローベルト・ヴァルザーという、おそらく今後も文学史のメインストリームに踊り出ることはないだろう作家の著作を作品集として刊行した鳥影社と訳者に感謝している(同社は近々ヤーコプ・レンツの著作も出版するようだ)。現時点で3冊出ている作品集のうち、本書がもっとも刺激的だった。


4862653758ローベルト・ヴァルザー作品集4: 散文小品集I
ローベルト・ヴァルザー 新本 史斉 他
鳥影社 2012-10-17

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