epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『夜と霧 新版』 ヴィクトール・E・フランクル

<<   作成日時 : 2012/12/25 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

それでも生にしかりという。

再読。内容について改めて紹介するまでもないだろう、ロングセラーの一冊。ナチスの強制収容所から生還した精神科医が自身の体験と観察を述べる。著者ははじめアウシュビッツに収容され、のちテュルクハイムに移送、そこでアメリカ軍によって解放されている。

ナチスの強制収容所がいかなる場所であったか、今日ならば多くの人間が知っている。本記事でそれについて書くことはない。未読の方に注意を促したいのは、本作は収容所の非情なシステムや、ナチス親衛隊員たちの常軌を逸した暴虐を告発する書ではない、ということだ。ところどころ暴力についてふれられることはあるものの――収容所の体験記を暴力や死の記述なしに書けるわけがない――著者の真意は、過酷な状況下で生きる人間たちの変貌のプロセスの観察と、そうしたとき人間はどう生きたらよいのかという「生きる意味」を考察することにある。

まずは変貌のプロセスを見る。
収容所に入った人間は、最初は恩赦妄想に襲われる。もしかしたら助かるのではないか、という希望を藁にもすがる思いで抱く。その後厳しい現実を受け入れ、一種の興奮状態、躁状態になる。つららが垂れ下がる室内で9人が2枚の毛布だけを頼りに眠り、肉体を酷使するような労働に駆りだされ、疲労や病気や怪我で使いものにならないと判断されれば即座に殺される生活がはじまる。少しでも休めば殴られ、真面目に働いていても見張りの機嫌次第で蹴られる。こうした環境が日常化していくうちに、人々は感情を喪失し、外界に無関心になっていく。関心を寄せるのはひとつだけ、生命維持すなわち食事だ。しかしその食事はというと、1日に300グラム以下のパンと1リットルの水のように薄いスープが与えられるだけ。常に空腹に悩まされ、自分が助かるために他者を押し退けることを何とも思わないほどに精神は荒廃していく。この過酷な日々を生き抜いていく強い人たちも、収容所生活がいつまで続くのか見通しが立たないことから苛立ちを募らせる。目的も希望ももてず、無気力になり、その果てに人格が崩壊する人まで出る。

偶然に助けられて生き残り、ようやく解放された被収容者たちはその後どうなったか。何事にも現実感が欠けたような感覚になり、しばらくして落ち着くと、今度は強迫的に自身の体験について語りはじめる。言葉にすることによって過去を再確認(あるいは整理)したせいか、やがて彼らは怒りに駆られ、暴力的になる。復讐心が湧き起こる。実際に暴力行為に出るか否かは措くとして、ようやく帰郷を果たした彼らを待っていたのは周囲の無関心やおざなりの慰めだった。去来するのは、自分の苦しみは理解も同情もされない、あんなにも耐えたのに何ひとつ報われなかった、という強い失望感だ。虚無感といってもいいかもしれない。その延長線上に、収容所経験者の寡黙さがあるのだろうか。

「経験など語りたくない。収容所にいた人には説明するまでもないし、収容所にいたことのない人には、わかってもらえるように話すなど、とうてい無理だからだ。わたしたちがどんな気持ちでいたのかも、今どんな気持ちでいるのかも」


収容所の厳しい現実。なけなしのパンを他人に与え、すれ違うときに希望の言葉をかけてくれるような人たち――彼ら「いい人は帰ってこなかった」と著者は述べる。生が剥き出しにされ、自分と自分の身内の生命が最優先される競争下で、善良な人はもちこたえられずに死んでいった。その詳細については述べられていない。栄養失調ということもあるだろうし、肉体疲労からの病いや怪我に倒れたのかもしれない。では、極限状態においては人間の善意など無効なのだろうか。わが身を犠牲にして他者を助けた彼らの思いは、死線上では愚かさでしかなく、いざとなればわが身可愛さから他人を蹴落とすエゴイズムこそ人間の本性なのだろうか。この問題について著者は答えを留保する。

強制収容所での体験は著者に生きる意味を考えさせた。こんな状況でも生きていたほうがましなのだろうか、と。そして得た答えは、たとえ身体は拘束されていたとしても人間の精神はなお自由だ、というものだった。収容所に入れられ、そこの現実に絶望して希望を失くし、ただ今日一日を生き延びることだけを考えてエゴイスチックな被収容者になるのも、収容所にいてなお人間として踏みとどまり、尊厳を守り抜くかもひとえにその人の心ひとつにかかっている。生きることの意味を強制収容所で求めるなら、自分の身をどう処すかというその一点がすべてになる。少し長くなるが著者の生の哲学を引用すると、

必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたった一度の、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。(中略)人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。


一般的な「生きる意味」などない。生は各人に問う、おまえはどう生きるのか、と。われわれは日々、生のまえに立たされ、生から問われている。それに答える(応える)のはわれわれ自身だ。生きるとは、われわれが各自の生の現場において、選択し、決定していくことにほかならない。生きることに意味が備わっているのではない。意味は生きることによって生に付与される。フランクルはそう主張する。彼の著書のタイトルそのままに、「それでも生にしかりという」人生への促し。

わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。


強制収容所のドキュメントとしても、人生に関する哲学書としても読むことができる。本書で描かれる人間が、たとえば石原吉郎のシベリア抑留に関するエッセイに出てくる人間よりも崇高であり、生々しさにやや欠けるという印象はある。著者の人柄もあるだろうが、信仰する宗教の影響がかなり強いように感じる。そっけないほど簡素で平坦な文章、短いセンテンス、自在の語り(報告、読者への語りかけ、亡友への語りかけの混合)のため、やや読みにくい。原書旧版の刊行は1946年(本書の底本は新版で1977年刊行)、その当時の著者の心境がテクストに反映されているのかもしれない。

原書のタイトルは、「心理学者、強制収容所を体験する」。これを「夜と霧」の邦題にしたのは旧版の訳者霜山徳爾だった。本書の訳者によると、邦題には、「夜陰に乗じ、霧に紛れて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実」という意味がこめられているという。


4622039702夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル 池田 香代子
みすず書房 2002-11-06

by G-Tools


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『夜と霧 新版』 ヴィクトール・E・フランクル epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる