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zoom RSS 『六号病棟・退屈な話 他五篇』 チェーホフ

<<   作成日時 : 2013/01/06 00:00   >>

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非情の文学。

収録された7篇には医療や病いといったモチーフが共通する。アントン・チェーホフはまず医師であり、作家は本業ではなかった。少なくともそういう趣旨の発言を残している(「医学は正妻で文学は情婦」)。彼は真正の科学者であり、その立場からゾラの「科学」性を批判してもいる。「自分の顕微鏡や短針やメスなどが使える場所でなければ、真理を求めることはできない」と考えていた彼の文学の基盤は、本業である医師、ひいては医学と不離の関係にある。

管理人はチェーホフの小説を好まない。本書のほか、『可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇』『カシタンカ・ねむい 他七篇』なども読んだが、彼の小説には、書き手がテクストをつき離しているようなところがある。「心温まる」という語からもっとも遠いところにあるのがチェーホフの短篇ではないだろうか。そういう筋の短篇もあるにはあるけれども、筋はそうなのに読んでみれば心が寒くなる(たとえば「かき」など)。この情感の欠如がチェーホフの小説の特徴だと思っている。管理人が好む、情感たっぷりのドストエフスキーとは正反対の作家であり、実際チェーホフはドストエフスキーに全然興味をもたなかった、反撥するだけの関心すらなかった、と神西清はチェーホフ論に書いている。彼の小説はその情感の欠如のために、管理人には楽しめない。この冷たさはどこからくるのかと訝っていたところ、『カシタンカ・ねむい 他七篇』に収録されている、神西清の「チェーホフの短篇に就いて」「チェーホフ序説」を読んで教えられるところがあった。

神西はチェーホフ文学を「非情の文学」と見る。彼は宗教も愛も信じることができない人だった。心が燃え立つということを知らない人だった。冷ややかな目で観察し、懐疑が心を去らなかった。そういう自分に苛立ったのか、冷たい心を無理に燃え立たせようとするかのようにサハリン島へ赴くも、それですら「薬は弱すぎた」。たとえばドストエフスキーの「死の家」は終生彼から去らなかったが、サハリン島はチェーホフに何の痕跡も残さなかった。恋愛にも夢中になれなかった(結婚をしたのは39歳のときで、およそ情熱とは遠い結ばれかたをしている)。チェーホフは「非情の人」だった。神西は彼の「非情」についてこう述べる。
非情は勿論プラスの値でないと同時に、マイナスの値でもない。それはゼロであり無であり空虚であり真空状態であり、もう一つ言い換えれば、主客両体の全喪失である。有る袖を振らないのが非人情であり冷酷であるなら、もともと袖も壁もない非情はそれとは全く異質のものだ。けっきょく純粋に無色透明な心的状態とでも言わなければなるまい。

「チェーホフ序説」


管理人がチェーホフの小説に物足りないのは、彼が書いていることを本当には信じていないように思えてならない点にある。虚無的な傾向がみられる作品は別として、たとえば「犬を連れた奥さん」の曖昧な終わりかたはどうだろう。記憶を頼りに書くが、男女には何か将来の希望めいたものが示されてはいなかったか。しかしあの作品を読み終えたとき、到底それを信じる気にはなれなかった。なぜなら――勝手かつ粗雑な印象なのだが――著者がそれを信じているようにはどうしても思えなかったから。ほかの幾つかの「心温まる」作品についても、管理人はチェーホフ作品から無機質な、人工物的な印象を強く受ける(宮沢賢治が、人間の生きる悲しみを扱いながら常になつかしいような温もりを感じさせるのと対照的に)。神西清はこうも述べている。

時に一種の博愛主義に見あやまられがちのチェーホフの温かさとか、しみじみとした情愛とかいうものは、実は深い知から生まれたものであることを忘れてはならない。彼は何も人間が可愛かったのではない。真実が可愛かったのである。彼は、曾て長篇の枠どりに幻滅したときから既に、純粋に虚無の人ではなかったであろうか。

「チェーホフの短篇に就いて」(太字引用者)


もっとも、次のことは言い沿えておく必要があるかも知れない。それは、絶対の非情はしばしば寛容に似た外観を呈するという事実である。彼は、その馬泥坊はこれこれ斯様の人間だったとは書くが、馬を盗むのは悪いことだとは口を裂かれても言わない。

「チェーホフ序説」


チェーホフの非情さが、情緒的にしか小説を読めない管理人のような読者には不満なのだが、醒めきった視線に感嘆し、ここに坂口安吾がペローの童話に見出したような「文学のふるさと」を感得する読者もいるかもしれない。これは嗜好の問題だろう。ただし管理人はチェーホフの戯曲はよいものだと思っている(「かもめ」や「ワーニャ叔父さん」は、暗いけれども引き込まれる)。おそらくチェーホフのよさとはそのトーンにあり、それが小説よりも象徴的な演劇という形式において十全に発揮されるためだと考えるが、どうか。

チェーホフの小説を好まない理由についてくだくだしく書いたが、不満を表明するのは楽しいことではない。なぜならそれは、読者として著者に拒まれているのを認めるのと同義だから(関係とはすべて双方向的なものだろう)。今回、基本的にはどれも退屈に思える彼の短篇で、初めて面白く読めた作品に出会えたのが嬉しかったから、こうして記事を書いている。トルストイやトーマス・マンが絶賛したという「退屈な話」がそれだ。

「退屈な話」は、近い死を予感している老齢の大学教授の手記の形式で書かれている。彼は高名な医学者として、ロシアのみならず世界的にその名を知られている。家族は、妻と男女それぞれの子どもが一人ずつ。軍人の息子は現在遠方に赴任している。同居している娘は、決して裕福な家ではないのに金のかかる音楽学校に通っている。妻は金銭問題を毎日彼にぼやいている。もう一人、幼いころに養子のように育てたカーチャという娘がいて、彼女はいま、彼やその家族から少し離れたところに一人で住んでいる。
主人公は虚無感に苛まれている。もはや家族に愛情はない。毎日家にやって来る娘の婚約者の俗物ぶりにはうんざりしている。唯一心を開けるのは幼いころから可愛がってきたカーチャだけ。しかし彼女とてもう少女ではなく大人の女であり、暗い過去を抱えていまもそれに囚われている。主人公はまるで無縁の人たちのあいだを行くようにして日を送り、自分には結局何もない、自分の人生は空しい人生だったという苦い悟りを開いて、遂にすべてを失う。

暗い話だ。救いもない。教授は世間的には人生の成功者だが、その内実は空虚であり、彼は家族に不満を抱き(しかしそれを表明はしない)彼らが赤の他人のようにしか思えない。何事からも切り離され、自足することもできない。世界が無縁の場所のように思える人生。彼が唯一憩いを感じるカーチャには、彼女なりの苦しみがある(娘のリーザも同じく)。誰もが一人ひとりの苦しさを抱えている、生きていくことの漠然とした苦しさを。しかし、彼らは決して自分の苦しみに没頭してはいない。カーチャは教授を、教授はカーチャを、不可能とわかっていても助けようとする。溺れている者同士が助け合う図にも見えるが、だからこそ、教授とカーチャの関係は胸を打つ。人は悲しみのなかにいるとき優しくなるという。もっとも優しい人とはもっとも悲しんでいる人かもしれない。チェーホフはこの短篇に安易な、メロドラマチックな結末をつけない。女は去り、男は残される。間もない死を予感しながら。互いをいたわる心の交流も、遂に実を結ばずに終わるだろう。しかしそれは、誰もが結局は、自分の悲しみは自分一人で背負うしかないという(至極当然な)認識へと読者を導きはしないか。「退屈な話」のよさは、人誰もが悲しみの子でありながら、その悲しみのゆえに結ばれる、人と人との関係が見事に表現されているところにある。人は自分の悲しみを知って、はじめて他者の悲しみを知る(想像する)ことができるようになる。そして悲しみは、悲しみだけが、人と人とを結ぶ糸を紡ぐ。喜びの糸では脆い。なぜなら喜びは儚いから。

この短篇を「退屈」と題してしまうところにチェーホフ独自の世界観があるように思える(「桜の園」を喜劇としたのと同じ精神だろう)。ほかに「脱走者」「チフス」「アニュータ」「敵」「黒衣の僧」「六号病棟」を収録する。


4003262263六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)
チェーホフ 松下 裕
岩波書店 2009-11-13

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4003262352カシタンカ・ねむい 他七篇 (岩波文庫)
チェーホフ 神西 清
岩波書店 2008-05-16

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