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zoom RSS 『ドン・キホーテ』 セルバンテス

<<   作成日時 : 2013/01/11 00:00   >>

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さようなら、わたしの本よ。

再読、何度でも読む。17世紀初頭、スペインはラ・マンチャのある村。郷士(下級貴族)のアロンソ・キハーノは50歳を過ぎている。彼は騎士道物語を読み続けた結果そこに書かれた空想と現実の区別がつかなくなり、遂には現在では廃れた騎士道を再び蘇らせんとして自ら遍歴の騎士ドン・キホーテと名乗り、痩せ馬ロシナンテに跨り、近所の農夫サンチョ・パンサを従えて、この世の善と愛を守るために旅立つ。道中は彼を狂人と見做す周囲との衝突によって滑稽な事態の連続で、最終的に騎士と従士は現実的になにひとつ成果をあげることなく故郷へと帰還する。失意のために病いに冒されたドン・キホーテは死の間際に自らの狂気から癒えて息を引き取る。

再読して感銘を新たにする。管理人にとっては最高の小説(のひとつ)である。セルバンテスは「前篇」の序文で、「多数の連中によってもてはやされている、騎士道物語という基盤の怪しげな虚構の打倒」を目的として本作を執筆した、と述べている。荒唐無稽なたわごとを、あたかも歴史的事実のように述べる騎士道物語は人々に害しか与えないのだろうか(フィクションの価値をめぐる議論は作中で幾度も反復されるだろう)。とはいえ、その目的は著者自身の来歴と重なって複雑な形で遂げられることになる。

セルバンテスは1547年に貧しい下級貴族の家に生まれた。大学教育は受けておらず、22歳のときにローマに渡り、翌年ナポリで軍人となる。さらに翌年、レパントの海戦に参加し、勇猛果敢な兵士として奮戦するも、そのときに負った傷がもとで左腕の自由を失う。けれどもこの負傷は彼にとっては名誉の傷だった(彼は「キリスト教の大義を守るための海戦において負傷したことを終生誇りにした」――訳者)。28歳のときに弟とともに退役して帰国の途についたところがイスラム教徒の海賊船に襲われて囚われ、5年間をアルジェで虜囚として過ごす(この間に、首謀者として四度の脱走を試みている)。身代金とひきかえに11年ぶりにスペインに帰国すると、「祖国とカトリックの大義のために戦った」報酬を宮廷に求めたものの却下されて非情な現実に失望する。官職も得られず、生活のためと文筆業に手を染め、小説や戯曲を発表するも成功しない。結局ペンを折り、食糧徴発係という「小役人」生活を十年近く続ける。その後、スペイン軍がイギリス軍に敗北したために失職、今度は徴収吏の職に就くが、集めた金の預け先の銀行が破産して、失った金の埋め合わせができなかったためにセビーリャで投獄される。この牢獄のなかで『ドン・キホーテ』の構想は生まれた。このとき50歳だったセルバンテス――当時としては高齢だった――は獄中で現在の惨めな境遇と、過去の栄光(レパントの英雄)を比較する内省にふけったものと推測される。若いときのあの喜びと熱狂の末がこの有様か。そこには、悔恨と肯定のせめぎあいがあっただろう。若き日の冒険は、当時流行していた騎士道物語に描かれているような理想と善への奉仕と相似していた。これを利用してひとつ物語を書いてみようか。
現在の不遇に対する恨みつらみと、過去の自分に対するいとおしさのこもった個人的感慨を表現するのに、流行の文学ジャンルを利用することによって、時代を反映した私的小説となりうるとことを《書物の書》に転化したわけであるが、ここに『ドン・キホーテ』の永続的成功の鍵があった。
 中世の(したがって過去の)秩序と美徳の化身である遍歴の騎士のなかに、自身と祖国の熱にうかされた英雄時代を仮託したセルバンテスは、ドン・キホーテという遍歴の騎士のパロディを創造することにより、表向きは自分とスペインの過去(=ドン・キホーテ)を否定するかのごとき体裁をとりながら、一方では、その純粋な熱情の美しさを微笑みながら認めている。古いがたがたの甲冑に身をかため、この世の不正を正そうとして旅に出る、ひょろひょろの初老の騎士ドン・キホーテは、騎士道物語のスーパーマンに対する諷刺であると同時に、背伸びしすぎたスペインと自身に対する愛情のこもった諷刺でもあったのだ。

解説(一)


かくして生まれたドン・キホーテはそのままセルバンテスの分身となる。ドン・キホーテは50歳を過ぎて(投獄されていたときのセルバンテスの年齢を思い出そう)、愛と善と美の理想に身を捧げようと決意する。しかしいうまでもなく17世紀にはすでに遍歴の騎士などおらず、ゆえに彼の決意と行動は時代錯誤の滑稽かつ狂った沙汰として人々から嘲笑の的となる。それでもドン・キホーテはめげない。何度愚弄されても、何度敗北しても、そのたびに立ち上がり、理想目指して突き進む。この姿に感動を覚えない読者――登場する正気の人物たちと一緒になって彼を嗤う読者――がいるだろうか。いるとすればその人は、管理人とは永遠に遠い他人だろう。なるほどたしかにドン・キホーテは脆弱であり、彼の言動は滑稽極まりない(騎士道に関することを除けば鋭敏な頭脳と優雅な弁舌の持ち主なのだが、これが彼の滑稽さをさらに増す機能を果たす)。しかし忘れてはいけない。彼の旅の目的は「万人に善を施すこと」だった。その旅路が滑稽かつ狂的なものであったとしても、目的までも嘲り、退けることができるのか。セルバンテスは物語の終わり近くで、さりげなくこんな一文を挿んでいる。

人を愚弄する者たちも愚弄される者たちと同じく狂気に囚われていると思う、現に、侯爵夫妻は一対のばか者をからかい、もてあそぶのにあれほどまでの熱意を示しているのであってみれば、彼ら自身、ばか者と思われるところからほんの指幅二つと離れていないのだ。


本当の狂人とはどういう人だろう。理想を抱いた時代錯誤の「愁い顔の騎士」なのか、彼の狂気を弄んで狂喜している人々なのか。

善への志向。弱き者への慈しみ。正義の実践。こうした騎士道の美徳はキリスト教の美徳でもある。本作にはキリスト教(カトリック)的な価値観に則って書かれている。その最たるものが、「後篇」におけるサンチョが領主になるエピソードだろう。いずれ自分が手柄を立てればお前に島を与えてやる、ドン・キホーテのその言葉に惹かれて苦難の旅をともにしてきたサンチョの念願は「後篇」でとうとう叶い、彼はある村の領主になる。愚か者という評判だったのが、実際に統治者となれば持ち前の機知と善良さで優れた手腕を発揮する。しかし彼はわずか10日で権力を手放してしまう。領主なんて気苦労が多くて厭だというのだ。それよりもドン・キホーテのお供をするか、故郷に帰って家畜の世話をするほうがいい、そのほうが自分には向いている。彼は治めていた村を去るときにこんなことをいう――「サンチョは裸で生まれて、今も裸、損もしなけりゃ得もしねえってね。わしは一文なしでこの島を治めにきて、一文なしでこの島を出ていく」。これは「ヨブ記」だ(「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」)。「後篇」はドン・キホーテよりもサンチョが活躍(?)するようになる(重要な出来事には必ず彼が絡む)。彼が「相棒」の灰毛驢馬の首を抱く場面では、その崇高さに涙がこぼれた。もっとも、サンチョは聖書中の偉人ではないので、従士に戻ったあと再び権力を夢見もするのだけれど。

以前の記事で本作の構成については述べているがもう一度ふれておく。前述のとおり「前篇」は騎士道物語のパロディとして1605年に刊行されてたちまちベストセラーとなった(ただしセルバンテスは版権を売却していたため、この成功も経済的な助けにはならず、死ぬまで貧窮生活を送った)。その10年後に刊行された「後篇」においては、「前篇」がドン・キホーテの伝記として刊行されている設定になっている。多くの人々が「前篇」を愛読し、ドン・キホーテとサンチョの名を知っている。「後篇」では、いわば現実と虚構がないまぜになってしまうのだ(ドン・キホーテ自身の狂気とは何であったかをここで思い出すのも無益ではないだろう)。「前篇」は騎士道物語に、「後篇」は「前篇」に依拠している、訳者は明快にそう解説している。「後篇」は、たとえば「前篇」の矛盾点や脱落箇所についてドン・キホーテ主従が答える場面があるなど、いわばメタフィクションと化していくわけだが、とくに面白い手法が「贋作」の利用だろう。セルバンテスが「後篇」を執筆していたころ、タラゴーナ市でアベリャネーダなる人物が偽物の『ドン・キホーテ 続篇』を発表する。セルバンテスは憤り、「後篇」では幾度もこの贋作を批判しているが、単なる批判にとどまらず、贋作の筋や登場人物を利用して、こちらこそが真作であると主張するのだ(目的地の変更や、贋作の登場人物の利用など)。すでに17世紀初頭に、こうも卓越した批評性を備えた作家がいたということに素直に驚嘆する。以前読んだときは本筋に絡まない挿話をもどかしく思ったようだが、こうした構成も「何でもあり」の先駆としてこのたびはさほど退屈せずに読めた(とくに「前篇」の「愚かな物好きの話」は別個の短篇小説として十分に読ませる)。ちなみにセルバンテスはシェイクスピアと同年同月に逝去している。

すでに年老いた。いまは惨めな境遇にある。理想に燃えた若き日が眩しく見え、過去が眩いがゆえにいまがなお暗くも思える。そういう苦境から、われらが「愁い顔の騎士」(または「ライオンの騎士」)は生まれた。高齢でなお、理想を求めて立ち上がる。幾度敗れても諦めない。誇りを失わない。嗤われようともわが道を行く、善と愛を守るために。ドン・キホーテは物語中では殆ど騎士道の成果を挙げられなかった。最後には騎士道物語とそれに憑かれた自身の冒険のすべてを否定するだろう(すでに騎士道物語の書物は周囲の人たちによって燃やされている)。しかし皮肉なことに、本作が生まれてから400年以上にわたって、彼の存在は理想を追求するヒーローとして、現実の多くの人たちに勇気を与え続けたのではなかったか。笑いとともに涙を提供し続けたのではなかったか。人間が理想を抱くことの尊さを忘れないかぎり、滑稽にして廉直なドン・キホーテの物語は不滅であるに違いない。


4002010589ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)
セルバンテス 牛島 信明
岩波書店 2001-07-09

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
セルバンテスとシェイクスピアが、ほぼ同時期に逝去しているとは知りませんでした(なんという偶然!)。リアル風車、脳内ドラゴンに突撃する彼を、「理想を追求するヒーローとして現実の多くの人たちに勇気を与え続けたのではなかったか」と肩を持つのは流石です。
読了直後でしたら、『ナボコフのドン・キホーテ講義』も併せると二度おいしいかも……
Dain
URL
2013/01/12 12:23
>Dainさん

ドン・キホーテの肩をもちたくなるのは、人誰もが程度の差こそあれ「愁い顔の騎士」ではないのか、とつい思ってしまうせいかもしれません。わたしの偏狭な人間観の反映です。
epi
2013/01/12 20:48

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