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zoom RSS 『「思春期を考える」ことについて』 中井久夫

<<   作成日時 : 2013/02/01 00:00   >>

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病いと社会。

四部構成。主としてT部は思春期における精神病や教育問題について、U部は妄想や軽症うつ病、慢性アルコール中毒の治療について、V部は病跡学について、W部はサリヴァンの生涯と業績について、などの文章を収録する。書かれたのは70年代から80年代前半にかけて。この巻はコレクションの前二巻と比較してよりバラエティに富んだ内容になっている。

T部収録の「ある教育の帰結」で、一人の少女が重度の強迫神経症を発症した経緯が述べられる。彼女は、戦争の影響で満足に教育を受けられなかった両親の期待に応える形で熱心に勉強に取り組み、常に学年トップクラスの成績を取り続けた。その結果に両親は喜び、両親の喜びをわがことと感じる少女はさらに勉強に励むという好循環が生じた。より好成績を収めるため、彼女の勉強方法は次第に極端かつ徹底したものとなっていく。眠りを切り詰め、「教科書がそっくり頭の中に引っ越しをするような勉強」方法へ向かう。完璧でないと気が済まない――遊びの誘惑を退け、苦しみが増すだけのように見える勉強を自身に強いて首席を維持する。周囲はその姿を「けなげ」と見て、褒めこそすれ、止めることはなかった(「日本の社会は要領のよさや天才的な飛躍よりも、『こつこつ地道にやる』子を見込みがあるとする。それどころか道徳的にすぐれているとする」)。しかし中学生になって変化が起こる。ある男子生徒の顔がちらつくようになったのだ。「好きでも何でもない子」だった。意識に上る彼の顔を力ずくでねじ伏せるように机に向かう日々。だが抵抗は破れ、意識から排除していたはずの顔が意識に侵入してきたとき、彼女は病いを発症した。
その後彼女は長く辛い闘病生活を経て、現在(執筆時)は多少脅迫観念にわずらわされながらも、比較的落ち着いた生活を送っているという。著者が彼女に将来の希望について聞くと、彼女は大学に進学して、できれば学者になりたいと答えた。何が勉強したいのか、と続けて尋ねると、彼女はこんな返事をした。「私はほんとうは勉強が好きじゃない。好きな学問なんてない。もし、掃除のおばさんが一番えらいということに社会で決まっていたら、私は一所懸命努力して掃除のおばさんになるでしょう」。

著者はこの少女のケースを説明するのに、アメリカの精神科医サリヴァンを引く。サリヴァンは、人間が追及するものを「満足」と「安全保障感」に分類した。「満足」は本能に根ざし、「安全保障感」は対人関係に限定する。対人関係には恐怖がつきまとう。他人と接触する際には「自分は安全だ」と確認することを人は求める(動物もそうだろう)。この恐怖とは突き詰めれば「死への恐怖」に繋がっている(「肉体的な死にしても社会的(対人的)な死にしても」)。そして、執筆時現在の教育が、「満足」の追求から、次第に「安全保障感」の追及になりつつある、と指摘する。「入試に失敗したら大変である」「自分の生徒の進学率とその内容が下がったら自分にとっても学校にとっても大変である」、これらは「安全保障感」の追及――恐怖に駆られて死から逃れようとする行動――であり、どこまでいっても「感情のこもった喜びはない」。そして「それは次第に人間の心を枯らしてくる」。その帰結、というか防衛機能としての代用満足の追求という問題も連想される。

こうした日本の教育は高度経済成長期に社会が選び取ったものであり、メリットもある。進学率の向上は教育の普及だけでなく、若年層の失業者を防ぐ役割も果たした。もし戦前のように大半が小学校卒業と同時に就職したならば、不況時には大量の失業者が発生するだろう。しかし若者の多くが高校へ、大学へ進学する社会では、政府は社会保険を支払うどころか、家族の負担で膨大な潜在失業者のプールを維持することになる。しかもこのプールのなかの人たちは、失業者という意識をもつどころか、高学歴者になるという積極的な意識をもち、進んで教育を受けて、やがて優秀な働き手として世に現れてくれる。日本に大量に大学が生まれたのは戦後間もない頃で、アメリカやヨーロッパも不況になると新しい大学が生れる傾向にあるという。この教育システムはまた、教育というフィルターを通しているぶん階級意識を薄めてくれる(教育の機会が十分平等とはいえないとしても)。さらに、階級によって教育の上限が限定されないため、階級闘争を弱体化する面もある。政府には都合がよいこれらの要素が絡み合った末に教育は単色化、一元化し、「知る喜び、学ぶ喜び」(=「満足」)であるはずだったのが先の少女の例に見るような死回避行動(「安全保障感追求行動」)へと近づいていく。

高度成長は終わったが、そのバランスシートはまだ書かれていない。しかし、その中に損失として自然破壊とともに、青春期あるいは児童期の破壊を記してほしいものである。われわれは大量の緑とともに大量の青春を失ったと言えなくもない。


むろん人間には人間のしたたかさがある。愛や友情への満足欲求はそう簡単に消えてなくなるものではない。しかし、他方、それらが片隅に追いやられるならば、こまやかさは失われ、粗野なもの、茫漠たるものとならざるを得ないだろう。
今日、わが国のために弁ずる者は、わが国の犯罪率の少なさを挙げる。たしかにその通りであろう。しかし、一方、わが国の精神病院入院者数が自由世界最大であるらしいことも挙げねば不公平というものだろう。

自殺者数も加えるべきか。

では対策はあるのか? 著者は控えめに、教育の単色化から脱することだと述べる。初出が1979年のこの文章(本書刊行にあたって加筆されているかもしれないが)を振り返って、指摘された問題点は現在では解消したのか、どうか。

ことを教育問題に限らず、自身に照らして生活欲求を「満足」と「安全保障感」に分類してみるのも、自らの生を考えるうえで意味があるかもしれない。なお、上記の教育システム成立の経緯については、『「つながり」の精神病理』の内容と一部重複している(反復は「日々の力」である――著者)。

V部に収録されている「病跡学と時代精神」は江戸時代の武士の精神――自己抑制――を、ともに「境界人」であった大石良雄、森鴎外の生涯から考察する。森鴎外の「生涯を要約しうる」一詩を、ボードレール、マラルメと比較分析して論じる過程はスリリングで、読んでいて心が躍る。同じ鬱憤を主題にして、ボードレールは悲嘆に暮れ、マラルメは居直り、鴎外は悼む。三者それぞれの相違に人物が表れているようで面白い。

著者は医学について語るのにたびたび文学を引用する。なぜか。解説で滝川一廣氏は、かつて著者とともにグループでエリオットの『荒地』を読んだ記憶を引き、著者の臨床の源泉は「言葉のトーンや韻律への繊細な感覚」にあるのだろう、と述べている。そう、著者はヴァレリーや現代ギリシャ詩人の翻訳者であり、文章を書くときは音読を意識してリズムを整え、しかも平明に書く書き手なのだ。コレクションの別の巻では、精神科医の治療器具は診察室と言葉だ、とも述べている。著者の本に、学びという理由を越えて惹かれるのは、この「文学性」による部分が大きい。



448009363X中井久夫コレクション3 「思春期を考える」ことについて (ちくま学芸文庫)
中井 久夫
筑摩書房 2011-09-07

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