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zoom RSS 『第五の書』 ラブレー

<<   作成日時 : 2013/02/14 00:00   >>

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死者の書。

『第四の書』を刊行した翌年の1553年、ラブレーは逝去する。その11年後、カトリックとプロテスタントによる宗教戦争の最中に、ラブレー作として『第五の書』が刊行される。これはラブレーの遺作なのか、彼の名を騙る別の人物が書いたのか。訳者によると、『第五の書』(三つのテクストの集合体)は編者がラブレーの草稿を基にしている可能性はあるものの、ラブレーの作品ではないという。当時は著作権の概念などなく、「作品はいまだに作家という固有名によって文節されてはいない。続編があれば望ましいと思えば、別人が、さまざまな手段・戦略で書き継いでいくという文学的営為が、いまだに続いていた」時代だった。思えばラブレー自身、『ガルガンチュア大年代記』という物語の続編として『パンタグリュエル』を書き、さらには遡って『大年代記』を「上書き」したのだった。ラブレーの遺した草稿が活用されているかもしれないが、書いたのは別の人間である、という「灰色」のテクスト、それが『第五の書』だ。ではこの『第五の書』の内容はどういうものか。

物語は『第四の書』から続いており、自身の結婚問題に関するお告げを聞くために「聖なる酒びん」を目指すパニュルジュ一行の珍道中が述べられる。巡るのは相変わらず奇天烈な島々。幻想が、教会や司法の権力を諷刺する装置になっている。錬金術への接近もある。幾つかの島を経巡ったのち、遂に旅の終点である酒びんのもとに到着すると、神官とともに儀式に臨み、「飲め!」というお告げを聞く。パニュルジュたちはお告げのとおりに酒を飲んで歌をうたい、一行の旅は終わる。

別人による作品であり本家には到底及んでいないものの、どうしようもないほどつまらなくはない。けれども退屈を覚えたのは事実で、とくにうんざりしたのが過剰に衒学的な記述だ。何かというとギリシア・ローマ文化に言及する饒舌な語りは時に苦痛だった。本家のようなダイナミクスもない。本作の人間チェスを『ガルガンチュア』のピクロコル戦争と比較すると違いは顕著だろう。本作を書いた人はきっと真面目な人だったのではないか。どうも、優等生が一所懸命読者を笑わせようとして逆に滑っているような感じがするのだ。たとえば下品な箇所が殆どない。意味不明で笑えるから脱糞とか失禁とかもっとすればいいのに。諷刺にしてもナンセンスに通じるようなひねりがない。酒びんのお告げを聞く前後の場面は全体としてはややいかめしいし、神官によるお告げの講釈も教訓臭い(それが悪いとは思わないけれど)。大体が(訳者も指摘しているが)お告げのあとに講釈するなんて野暮以外の何者でもない。それに、結局最後にたどり着いた答えが「飲め」では、『第四の書』を締めくくったパニュルジュの「飲もうじゃないの」の繰り返しでしかなく、「笑いこそ人間の本性」と書いたラブレーなら違うふうに書いたのではないか。訳者の言葉どおり、『第四の書』で終わりでいいじゃないの、という気になる。本作にはまたエラスムスをはじめほかの作品を流用している箇所もあるという。よいなあと思ったのは錬金術の国(カント・エサンス王国)の、音楽で女王が病人を治したり、秘術を使って老婆を少女に若返らせているというエピソードくらいだった(第20章。ダンス名を列挙するならでたらめなネーミングのものも入れればよかった)。

本書には、人物イラスト集「パンタグリュエルの滑稽な夢」が併載されている。本邦初紹介、グロテスクで奇怪な人物イラストが120点。これもラブレーの死後に彼の名を借りて刊行された便乗商法的な代物で、16世紀フランスの百鬼夜行といった趣がある。訳者はブリューゲルやヒエロニムス・ボスとの関連性を(控えめに)指摘している。動物、魚、昆虫と合成したような人物や、身体の一部が極端に巨大化している人物、変てこなかぶりものをしている人物などのオンパレード。日本の妖怪のほうがよほど洗練されて愛嬌もあると感じてしまうのは、日本人ゆえの贔屓目だろうか。もう少し可愛いくてもいい気がする。


4480429212ガルガンチュアとパンタグリュエル 5 第五の書 (ちくま文庫)
フランソワ ラブレー Francis Rabelais
筑摩書房 2012-05-09

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