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zoom RSS 『万延元年のフットボール』 大江健三郎

<<   作成日時 : 2013/03/28 00:00   >>

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地と血。

はじめに語り手がふたつの困難に直面していることが述べられる。親友の異常な方法での自殺と、生まれた子どもの障害。語り手は子どもを施設に預けるとアルコール依存症の妻を連れ、アメリカから帰国した弟の鷹四に誘われて故郷の愛媛へ帰郷する。兄と弟のほかの家族はすでにこの世にない。到着すると故郷は以前語り手が知っていた時分とは様子を変えていた。新しく開店したスーパーマーケットによって村の商店は壊滅状態に陥っている。有効な打開策は見出せない、というよりも諦めて思考停止してしまったかのような昔からの住人たち。聞くとスーパーマーケットの開店には過去の人種差別が絡んでおり、そのために起こった事件は語り手一家に無縁ではなく、進出の背景に因縁が匂わされる。村の閉塞状況を打破しようとして鷹四は若者たちを集め、フットボール・チームを組織する。やがて彼は、かつて――これも語り手一家が関わっているのだが――万延元年にこの村で起きた一揆をなぞるように暴動を計画する。一揆を指導した先祖に英雄を見出す鷹四と、それを否定する語り手の齟齬。土地の風習も利用して遂に暴動が起こりスーパーマーケットは略奪されるが、鷹四の失墜によってあっけなく終息してしまう。彼は自ら命を絶ち、村は再び以前どおりの活気なさに戻り、語り手は妻が新たに宿した不義の子を、先に生まれた障害の子とともに引き受け、新しい生活に乗り出す決心をして村を去る。

語り手は、自分はアイデンティティを喪失している、と述懐している。東京での暮らしは――著者の実体験である――障害のある子の誕生や、妻のアルコール依存症などによって彼を圧迫している。本書の3年前に発表された『個人的な体験』ですでに扱われた困難がここでもう一度示される。しかし、あいだに3年を挟んで著者の変化だろう、ここでは『個人的な体験』にあった逃避のモチーフは前面に出てこない。たしかに語り手は愛媛に帰郷するものの、それは自らの根を確認するための作業であり、鳥(バード)が漠然とアフリカに憧れていた逃避とは質を異にしている。前作ではたびたびふれられていた子どもの障害をめぐる叙述が殆どないのも、すでに語り手は困難を困難として背負って生きていく覚悟ができているものと読める。本書は別の角度から、著者の――自己確認という――「個人的な」問題を扱っている。

語り手と鷹四とはともに一人の――おそらくは著者の――分身だ。語り手も鷹四も、自らの根がないことを感じている。鷹四は自らの根のありかを、いまや伝説となった一揆の指導者の生をたどることで直接的に確認しようとしている。語り手はその弟を眺め、批判する。彼の自己確認は弟のそれより遅れる。弟が暴動に失敗し、忌まわしい「本当の事」を兄に告白して遂に自己統一を成して自殺したあとで、残された語り手の自己確認作業がはじまる。彼は、自らの生を凝縮したぎりぎりの言葉である「本当の事」――生存を賭けた言葉――を遂に語り得た弟、そして自殺した友人を暗がりで回想したのち、自身はまだ「本当の事」を見極めていない、それがゆえにまだ死ねないのだ、と悟る。自らの「本当のこと」を見出して死んでいった者たちと比べるとなんと惨めな生であることか。自嘲するように耽る語り手の物思いは、妻の声によって破られる。彼女は二人の子とともに生きるといい、語り手に、誘いのかかったアフリカ行を承諾するよう促すだろう。弟が憧れるようなものをあえて排除しながら生きてきた縛られた生からの脱却。自ら果敢に、英雄的に生きる道を選択すること。妻は語り手を反省させ、これからの生きかたを指し示す。過去から解放された、新しい生活の予感。そこに理想の生活を見出すことができるのだろうか。語り手は本書の最後を力強く締めくくる。「容易だ」と。暴動は死んだ鷹四にとっては生存理由だったが、生き延びた語り手にとっては通過儀礼に過ぎなかった。分身の一人は死に、一人は生き残る。二人の生死は著者の自己確認であり、また「希望と忍耐」の勝利を意味しているのだろう。

『個人的な体験』やそれ以前の作品と比べるとかなりリズムよく読みやすい文体になっている。死んだ友人と彼の語りを通して鷹四を紹介する第1章、四国の森の神話的な雄大さを述べる第3章は出色だろう。すべてを述べ尽くそうとするかのような執拗で細部にまで拘泥する文章はときにまわりくどく感じられ、その粘り強さが上に挙げた二章では効果的だと感じたが、逆に終盤では勢いを殺いでしまっているように思える。鷹四の死体を発見する場面などはもう少し簡素なほうが迫力が増したのではないか。チョウソカベやら念仏踊りといった土着的なモチーフと、スーパーマーケットやフットボールといった輸入されたモチーフの対照がいい。暴動は略奪行為よりも、暴力の情念を解放し、想像力を刺激することに意味がある、とする鷹四の見かたは人間の群集心理をついている。『死者の奢り・飼育』や『個人的な体験』には感心しなかったが、本書は面白く読めた。日本文学の伝統的モチーフである反省を、土地の記憶と絡めて壮大な物語に仕上げている。


4061960148万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)
大江 健三郎 加藤 典洋
講談社 1988-04-04

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