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zoom RSS 『死の島』 福永武彦

<<   作成日時 : 2013/04/21 00:00   >>

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福永武彦の集大成。

敗戦が人々の記憶から薄れつつある昭和20年代末の東京。小説家志望の若き編集者、相馬鼎は、美術展で一枚の絵に惹きつけられる。この世の終わりを暗示するかのような暗い島の絵。画家の名は萌木素子とあった。相馬が出版物の装丁を依頼する目的でこの女性画家を訪問すると、そこには彼女と同居しているという若い女もいて、彼女は相見綾子といった。広島で被爆した素子は虚無に魅入られたような危うさを感じさせる。綾子のほうは良家の無邪気なお嬢さんといった風情だが、男と駆け落ちしたという暗い過去があった。タイプの異なる二人の女と接する機会が増すにつれ、双方に惹かれつつあるのを自覚する相馬。しかし、自分でもどちらを愛しているのか判然としない。ある夜には、自分が愛しているのは綾子だと思う。彼女と自分が夫婦になれば、きっと幸福な家庭を築けるだろうと。しかし別の夜には、自分が愛しているのは素子だと思う。彼女の抱える暗い記憶と、彼女の芸術家としての才能は、これも芸術家である作家を目指している自分にこそ理解できると。愛の対象を決めかねてぐずぐずと告白の日を先延ばしにしていた冬のある日、相馬のもとに突然の知らせが届く。広島旅行に出かけていた素子と綾子の二人が、旅先で心中を図ったというのだ。東京駅から鹿児島行きの急行きりしまに飛び乗る相馬。昼過ぎに東京駅を発車する急行列車が広島駅に到着するのは翌日の早朝になる。その車内で彼は二人の女の記憶を反芻し、彼女たちを活かした創作ノートを読み返し、煮え切らなかった自分の弱さを責め、女たちの無事を祈る。しかしその祈りも空しく、道中、広島の病院から彼のもとに届いた一通の電報は、女のうちの一人が死に、一人は危篤状態にあると知らせる。死んだのは素子か、綾子か。生きているのは素子か、綾子か。自分はどちらに生きていてほしいと思っているのか。相馬が答えを出せないうちに急行列車は広島駅に到着、夜明けの光がほのかに差し込む病室で彼は現実と対面する。

再読になる。以前に書いた記事に書きたいことの大体は書いたように記憶している。再読して大きく印象が変わるというほどのことはない。福永はかつて愛読した作家で、愛、孤独、死、芸術と人生の問題などを主題とした小説を前衛的な手法を用いて書いている。一昔(それ以上?)まえの少女漫画的というのか、愛だの恋だのを連呼する登場人物たちや、芸術こそ至上とするような価値観は現代の30を過ぎた読者としては陳腐に感じないでもない。代表作である本作は、これまで福永が扱ってこなかった社会問題――戦災――を取り入れている点に転換点を感じさせるが(本作は福永が完成させた最後の小説になる)、戦災――被爆――を社会問題としてではなく、あくまで個人の実存の問題――福永自身の言葉では「魂の問題」――として扱おうとしている点では、本作以前までの彼の作風と本質的に変化はないともいえる(福永はその資質からして社会問題としての原爆を扱うことは恐らくできなかっただろう)。現在の管理人としては、どこまでも個人の孤独を追求し続けてその先に至れなかったところにこの作家の限界を感じ、物足りない。

本作は福永武彦的モチーフ満載の、彼の集大成であるだろう。愛と孤独の問題は、相馬と二人のヒロインの恋愛模様によく表現されている。ともに異なる孤独を抱えた二人の女。一人は原爆によってこの世の地獄を体験し、そのときから虚無の死神に憑りつかれて今日まで生きてきた。もう一人は、肉親の情愛から離れた寂しい少女時代の記憶に引きずられている。相馬は、この二人のヒロインの孤独を(創作ノートによって)読者に示す解説者としての役と、互いに惹かれ合いながら遂に分かり合えることのない恋愛の不可能性を測る測量者としての役とを割り当てられているように見える。孤独の帰結としての死の問題もヒロインたちが背負っており、相馬は蚊帳の外に置かれて狼狽することしかできない。こうして見ると本作の主人公はヒロインの二人であるのだろう。彼女たちは異なる孤独によって互いに惹かれ合って共同生活を送り、双方ともに愛する男からの告白を聞かないうちに、互いに慰め合うような死へと向かってしまう。相馬は何も決断できず、彼女たちの助けになれず、彼がしたことといえば創作(想像力)によって彼女たちの癒しがたい孤独を(一人勝手に)追求することだけだった。彼が創作に耽っているあいだに、まるでもう待てないといわんばかりに死へと向かっていった女たちには、現実(実人生)と芸術との対立というやはり福永的モチーフが暗示されている。

このたびの再読でとくに印象的だったのは、相馬およびヒロイン二人から少し距離を置いて存在する「或る男」にまつわるエピソードだ。この男は言葉巧みに女に取り入ってヒモのような暮らしを送っている。彼の独白によると、幼いころから母親と二人きりで、雪深い北国で生きてきた。今の人生に罪悪感を覚えないでもない。自嘲的に薄汚い生を生きる彼の脳裏に、たびたび、いまは失われた母親への愛慕、いまは失われた幼なじみの少女の追憶、つまるところ無垢の時代への愛惜が去来する。
女という女は誰しも男がやさしい言葉を掛けてくれるのを待っている、それは男にしても同じことだ、己たちはみな寂しい人生を送りながら母親の懐のような暖かいものをじっと待ち受けているのだ。

しかし今更何をどうできる。美しい思い出を抱えたまま薄汚い生を生きるしか術がないこの男は――かつて綾子が駆け落ちした相手であるが――本作の本筋には殆ど絡まない。福永はなぜこの人物の挿話を本作に組み込んだのか。福永がときに扱う故郷への思慕の念(『忘却の河』はこの願望を主題にした長篇だろう)、人生とは失うことの連続であり、そのことに寄せる作者の哀惜が、彼をしてこの「或る男」の挿話を書かせた理由であるのではないだろうか。同じような作家にプルーストがいる。しかしプルーストは失われた時の回顧によって人間の生きる力を回復させようと試みた作家であり、生を志向するプルーストと虚無や死へと向かう福永は、その文学の孕む生命力が大きく異なっている。


戦争が終わってからだって、日本人はみんなクライシスの中にいる筈よ、世界中の人間はみんなその筈よ、

萌木素子はそう相馬に語る。彼女の発言は被爆という体験を背景にしている。今日の読者としては、彼女の発言を限定する必要はなくて、今日の目で捉え直して考えてみるのがいい。震災の記憶は未だ生々しく残り、かつ時代は閉塞感を強めつつある。しかしそういう状況にあって今日も人間は逞しく生きている。どれほどの災害も乗り越えて人間は生きていける。生きていけるし、生きねばならぬ。管理人が本作に不満を覚えるのは、被爆者である素子が最後には絶望に絡め取られて破滅を選択してしまうクライマックスにある。絶望するのはたやすい。しかし、たとえ実らなかったとしても、人は希望を抱き続けねばならない。生きねばならない。なぜ。生まれてきたからだ。素子が地獄を乗り越えてなお生き抜く道を選択するヒロインであれば、本作はもっと力強く、もっと幸福感に満ちた作品(『忘却の河』のように)になり得たのではないかと思われ、そのifが福永の資質に背いていることを承知のうえで、少し残念な気持で読了した。



残念といえば、頁いっぱいに文字を印刷した読みにくい文字組みもそう。同じ価格で単行本にできなかったのだろうか。
4062901862死の島 上 (講談社文芸文庫)
福永 武彦
講談社 2013-02-09

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4062901870死の島 下 (講談社文芸文庫)
福永 武彦
講談社 2013-03-09

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
お久しぶりです。再読されたのですね。
私は単行本をブクオフでずいぶん前に拾ってずっと積んでいて、今回文芸文庫で復刊されたというのを機にやっと読みました。
以前のepiさんの感想も読ませていただいていて気にかかっていたのに、なかなかきっかけがつかめなくて。
読み始めると一気に引き込まれて、構成は複雑で咀嚼するのも大変な作品にも関わらず、他の事をしている間も『死の島』のことが頭の片隅に引っかかっていて、早くこの用事を済ませて『死の島』の世界に戻りたい、とそればかり考えてしまうほど、吸引力のある小説でした。
相馬鼎の真似をしてハイボールばかり飲んでいました(汗)

が、最後がどうも納得がいかなくて・・。
素子には本当に、epiさんの仰る通り、尋常じゃない絶望(原爆という想像もつかない悲惨な経験をしたのですから、当然かもしれないけれど)の中にあったとはいえ、なんとか生きる道を選んで欲しかったです。タイトルが『死〜』とついちゃってるんだから、そうなることは最初から決まっていたといえばそうなんでしょうけど。
「或る男」の章は余計なような気がしましたが、あえて入れることで緊迫した場面にちょっとクッションをおくような感じなのかな、くらいに思っていたのが、epiさんの読解で腑に落ちました。
このように丁寧で真摯なレビューをずっと続けておられること、敬服します。
猫のゆり
2013/04/23 10:42
>猫のゆりかごさん

ご無沙汰しております。お元気ですか。

『死の島』は福永武彦の代表作のようにいわれていますが、しょうじき物足りなく思う部分があります。
ここには『草の花』にあった「英雄の孤独」も、『忘却の河』にあった他者へのいたわりもみられず、登場人物がみな内にこもっているようで、作品世界が息苦しい。相馬の剽軽さが多少の救いでしょうか。作者は、原爆というあまりに重い主題に圧倒されているように見えます。

素子を、泥を啜ってでも生き延びる、そういうヒロインとして造形できなかったところに福永という作家の限界があったのではないかと思います。『死の島』はフィクションですけれど、どんな悲しみも辛さも、生きていけばいつか記憶は薄れゆき(それは自然と生命に備わった生きるための強さでしょう)、気持を整理して、また新たな気持ちで人生と向き合えるようになる。そういう人間のしたたかさを、災厄が主題の物語だからこそ見せてほしかったという惜しい気持が残ります。それは福永武彦の資質ではない、といってしまえばそれまでですが。
epi
2013/04/23 20:07

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