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zoom RSS 『不思議の国のアリス』 ルイス・キャロル

<<   作成日時 : 2013/05/16 00:00   >>

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きみを夏の一日にたとえようか。

5月のある暑い日。7歳の少女アリスが土手のうえで退屈していると、紳士のような白うさぎを見かける。彼女は追いかけて穴に落ちる。その先はノンセンスがまかりとおる不思議の国だった。そこで彼女は、身体が大きくなったり小さくなったり、人語を喋る動物たちと謎めいた問答をしたり、意味不明な身の上話や詩を聞かされたりする。しかしそうしたすべては、アリスが姉の膝のうえで見ていた夢だった。アリスは姉に自分が見た滑稽な夢を話して聞かせ、それを聞いている姉は、妹は成長したのちも無垢な心を持ち続けているのだろうと想像して微笑する。

訳者を変えて幾度目かの再読。河合祥一郎氏の翻訳は、著者ルイス・キャロルの言葉遊びを日本語で可能なかぎり再現しようとした意欲的なもので、詩は日本語で脚韻を踏んでいる。地の文のテンポもよくスピーディに読めるので荒唐無稽なアリスの冒険を純粋に楽しめる(いままで読んだ他の翻訳では、正直なところそのノンセンスにげんなりしなくもなかった)。もっとも、声に出して笑える、というほど愉快な話ではないのだが。長くない分量ながら、意味の通じない箇所が幾つかあるのは、言語と文化の壁、また著者と読者の気質の相違だろうと思っている。

本作はもともと、一人の少女のために作られた物語だった。ルイス・キャロル(本名チャールズ・ラトウィッジ・ドッドソン)は、1832年、イングランド北西部にある小さな村の牧師の息子として生まれ、のちオックスフォード大学に進み数学の講師になる。生涯独身で(これは雇用契約の条件のひとつだった)、子どもたちと遊ぶことを好んだ。30歳ころ、学寮長リドルの家で彼の娘アリスと知り合う。1862年の夏にリドル家の子どもたちとピクニックに出かけ、アリスを楽しませようと即興で話した物語が彼女の気に入り、手作りで『地下の国のアリス』という本になる。これは、1865年に出版される『不思議の国のアリス』のいわば原型だった。

アリスの物語は好評を博したが、キャロルの本業はあくまで数学だった。幾何学を研究し、大学内の制度改革に積極的に参加し、晩年には論理学にのめり込む。アマチュアの写真家でもあり、ヴィクトリア朝の子ども写真に関しては第一人者とされる。当時のカメラは機材が30キロ以上もあり、一枚を撮るのに屋外の日光のもとで45秒もかかった。にも関わらずキャロルが撮影した子どもたちの表情が自然なのは、大家族の長男に生まれ弟妹たちの面倒をよく見た彼の人柄が子どもたちをリラックスさせられたからだとされる(よく知られている物乞いの恰好をしたアリス・リドルの写真もキャロルが撮影した)。恋愛とは無縁の生涯ともいわれるが、晩年にはガートルード・トムスンという20歳近く年下の女性と親しくなり、彼女からスケッチを学んだりもしている(恋愛感情があったかどうかは定かでないけれど)。創作では、『不思議の国のアリス』の続篇『鏡の国のアリス』、叙事詩『スナーク狩り』、長篇小説『シルヴィーとブルーノ』、また多くの詩を書いている。1897年、家族に見守られながら65歳で亡くなった。

彼の生涯には彼の作品と同様に幾つかの謎がある。聖職者の家に生まれながら、遂に牧師にならなかったこと(吃音が関係しているともいわれる)。1863年に、それまで親しくしていたリドル家と仲違いをし、日記の1頁が切り取られていること(キャロルの死後に親族が切り取ったとされ、この日にキャロルが幼いアリス・リドルに求婚したのではないかという憶測が生まれた)。1880年を境に、それまで熱心に取り組んでいた写真撮影の趣味を突如止してしまったこと、などだ。彼の恋愛嗜好に想像を逞しくする言説もある。キャロルは生涯を通じて小さな友だちと親交を続けた。晩年に妹から、少女たちとあまり付き合うと世間の噂の種になると心配する手紙を受け取ったとき、彼はこんなふうに返事をしている。「もし、誰にも欠点を見つけられないような生きかたをしてごらん。ほとんど何もできないはずだよ」。のちに美しい婦人に成長したアリス・リドルをはじめ、彼と仲良くしていたかつての少女たちが、懐かしさと親しみをこめてキャロルについて回想しているという事実を知れば、醜聞に目を向ける必要はない。

たしかにキャロルは少女期にのみ女に備わる可憐さ、美しさを愛していたのだろう(本作が書かれたときアリス・リドルはすでに12歳だったのに、キャロルはヒロインを7歳にしている)。それはきっと、散ってしまう花を惜しむのに似た感情だった。彼は心の内で、『ファウスト』の主人公のように過ぎゆく時を止めたいと願ってはいなかったか。姉が幼い妹の将来に思いを馳せるという本作のラストに漂う哀切さには、キャロルの心情が反映していると思われる(「幼いアリスが大きくなって大人になってしまうことをキャロルはとても嫌がっていました」――訳者)。不思議の国においてアリスの体が幾度も大きくなったり小さくなったりするのは、彼女が成長するのを嘆くキャロルの心の揺らぎの表象だろう。少女はいつか少女でなくなる。しかし彼はこの愛惜を、決して通俗的で安易な感傷に落とし込まなかった。美しい花が散っていくのをなす術もなく見送りながら、彼は駄洒落を飛ばし、戯歌を歌い、ノンセンスの世界で笑っている。それだから切ない。


4042118038不思議の国のアリス (角川文庫)
ルイス・キャロル 河合 祥一郎
角川書店(角川グループパブリッシング) 2010-02-25

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ルイス・キャロルの生涯を知るのに読んだ。キャロルが撮影した少女たちの写真をはじめ、彼にゆかりの土地や『アリス』の挿絵等図版が多数収録されているので読んでいて楽しい。「さし絵も会話もない本なんて、なんの役に立つのかしら?」とはアリスの有名な台詞。
4422211331「不思議の国のアリス」の誕生―ルイス・キャロルとその生涯 (「知の再発見」双書)
ステファニー・ラヴェット ストッフル 笠井 勝子
創元社 1998-02-10

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