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zoom RSS 『晩夏』 シュティフター

<<   作成日時 : 2013/07/03 00:00   >>

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もう一度だけ夏を。

若き語り手は地質学の調査をしている。ある日、雨宿りのため、丘のうえに建つ、壁に薔薇を絡ませた美しい邸を訪れると、老齢の主人が出てくる。邸のなかは芸術的な内装が施され、すぐれた美術品が数多くコレクションされていた。学問や芸術、園芸や農地管理についての話を聞くうちに、語り手は主人の知識と洗練された趣味に感服し、善良な人柄に惹かれる。この出会いをきっかけに二人は親しくなり、毎年夏になると語り手は薔薇の家を訪問し、やがてこの邸の隣の領地に住むマティルデ、ナターリエ母娘と相知るようになる。主人は語り手を教育するように導き、教えを学びながら少しずつ人格を陶冶する語り手。小説は、薔薇の家を初めて訪れてから9年目に、語り手とナターリエが幸福な結婚をする場面で終わる。

本作の基調は静穏なもの。激しい葛藤や劇的な展開は(殆ど)なく、語り手の人格陶冶すなわち彼と薔薇の家の主人との談義が小説の大半を占める。交わされる話題は地質学、美術、音楽、文学、室内装飾、建築、園芸、農業、政治など。語り手たちは裕福なので――もっとも、この富は長年の勤勉さの賜物だ――暮らしの心配をする必要なく高尚な世界に没頭できる。登場するのはみな善人。対立のない完全な調和に満ちたこの作品は、発表当時(1857年)から退屈な小説だと評されてきたという。しかし管理人は、これまでに読んできたシュティフター作品のなかでもっとも楽しく、もっとも興奮しながら読んだ。「芸術こそ現世における最高のもの」とし、ひたすら芸術礼賛が繰り返されるこの小説のどこに魅力を感じたのか。理想郷的な薔薇の家で、俗悪さから遠く離れて高貴なもの、美しいものに没頭する登場人物たちへの憧憬がある。著者の、善性への強靭な意志への共感もある。しかし、ある意味では単調といえなくもないこの物語が先へ先へと読者を誘う最大の魅力は質朴な文章にあると見る。以前にも書いたかと思うがシュティフターは人間のドラマを心理の側面から照射しない。彼は登場人物たちの内面に殆ど踏み込まず、外面から描き出す。画家でもあった彼の特徴だろうか。山場のひとつである語り手とナターリエの恋愛場面はその最たるもので、語り手はナターリエと二人きりで会話をした夜、ただ「眠れなかった」と短く述べるのみ、ナターリエが(恥じらいから)翌日彼を避けるようにしても、うじうじ葛藤したりはしない。引用すると、

はすかいに中をのぞくと、ニュンフ像の脇にある大理石のベンチにナターリエがかけているのが見えた。ベンチの一番奥の端にかけている。薄い灰色の絹の服が暗い洞窟の中でほのかに光っている。片腕を垂らし、他の腕をベンチの手すりにかけて、額を手でおおっている。私は立止まった。どうしたらいいかわからない。中に入れないのは明らかだった。(略)彼女は眼を上げた。立っている私を認めた。立上がると洞窟を出て、足早に木蔦の壁の方に向い、茂みの方へ立去った。彼女の服のほのかな輝きが茂みの中に消え失せた。私はちょっと立止まっていたが、洞窟の中に入り、彼女がかけていた大理石のベンチに腰をおろして水の流れを眺めた。(略)ずいぶん長いあいだ腰かけていた。近くに人声が聞えて、誰かが泉の像のところに来る気配を感じたので立上がり、洞窟を出て茂みの中に入り、来たときと同じ道を通って邸へ戻った。


ナターリエは「暗い洞窟」のなかのベンチに腰かけ、「額を手でおおって」何を思っていたのか。語り手は黙って出ていく彼女の服の「ほのかな輝き」を目で追いながら、何を思ったか。「長いあいだ」じっと「水の流れを眺め」ながら何を考えていたのか。著者はあえて説明しない。簡潔な叙述はその隙間を読むことを読者に求める。外面の描写だけで、慎み深い若い男女が恋愛感情に戸惑う様子を表現する。なんと見事な文章であるか。淡白なうちにも情緒あるこうした書きかたが、読者を先へ進ませる原動力になっているように管理人には思える。

『晩夏』の背景には、三月革命に期待をかけたがその残酷な現実に失望した著者の苦い経験がある。人間は未熟である、その認識が彼を教育制度改革へ向かわせた。「社会の変革は、一時の大きな出来事によってなされるのではなく、幼い頃からの人間形成において用意されなければならない」(『石さまざま』)。この願いを、浮世離れしたようなところまで推し進めて作品化したのが本作であり、芸術こそ人間精神のうるわしき結晶と考える著者の思いを斟酌すれば、登場人物たちが建築や家具調度にこだわる意味が見えてくる。吉田健一の、「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という言葉も併せて連想される。

勤勉、克己、節制といったシュティフター文学の特徴は本作にも充溢している。「知りたい」という本源的な欲求に根ざした学問への志向。家庭の幸福と安定のために仕事に励む勤勉。他者への配慮、謙遜。情熱に流されず、しかるべき時を待てる忍耐心などを、登場人物たちは備えている。絵を描くことや楽器の演奏にしても、彼らは娯楽と呼ぶにはあまりに真剣な態度で臨む。真剣にやらなければ本当の楽しみはない、ということか。食事の場面はたびたびあるのに、具体的なメニューに殆どふれないのがいかにもこの作家らしい。裕福な登場人物たちが、怠惰に陥ることなく自身の境遇をうまく活かして人格形成に努めているのが素晴らしい。

下巻巻末の年譜を見ると、著者と薔薇の家の主人には共通する部分が多くあるのに気がつく。シュティフターは23歳のとき商人の娘ファニー・グライプルに想いを寄せるが、彼の将来に見通しがないという理由で娘の母親から拒絶される。その後二人の関係は進展がないまま破局を迎えてしまうが、30歳の彼は別の女と婚約したあとも、かつての想い人へ未練の恋文を送っている。その後婚約者と結婚、しかし夫婦関係は冷えたもので、実子に恵まれず、妻の姪を養女にする(のち彼女は自殺する)。教えるのがうまいと評判で、一時期メッテルニヒの息子の家庭教師を務めた。これらの経歴はすべて薔薇の家の主人に投影されている。「ありえなかった生」を想像するような空想的な投影ではない。苦い経験を苦いまま投影しているのだ。タイトルの晩夏とは、この主人の人生、彼の言葉を借りるなら「夏のなかった晩夏」を意味し、著者はこの主人こそ本作の主人公とまでいっている。主人は著者の分身、ゆえに本作は非常に自伝的な小説として読める。終わり近くで彼の過去が回想される場面があり、その部分が全体と少しトーンが変わるのも自然ととれる。

社会への失望と自身の失意の昇華、新しい世代への教育的意図。執筆の背景を知ると、浮世離れと評したくなるような本作が、実は非常に「現実的」な作品だと知れる。社会に、人間に幻滅しながらも、小説には「この世にあるすべてのものは、結局は正しい方向に向っている」(下巻146頁)と書いたシュティフターの強さを思うと厳粛な気持になる。彼は本作執筆中の1855年、編集者の友人にこんな手紙を書いている。
一体、私にとっての大きな喜びは、自然で高貴な人間を満足させることなのです。つまり、気高く、真なるものの王国を広めることが私の目指すところですし、私の文章のささやかな評判を聞きつけて、この王国を求め訪れようとする人々を引き入れ、この王国に定住させることができれば、何よりの喜びなのです。

この声に耳を傾ける。

シュティフター文学にはデモーニッシュなものが排除されているという見方があるが、これは誤りだと訳者は解説で述べている。管理人も――シュティフターについて多くを知っているわけではないが――この意見に同感だ。短篇「電気石」では人間の狂気が扱われているし、そのほかの短篇でも自然がデモーニッシュなものを象徴しているケースが多く見られる。では調和に満ちた本作では? 本作にもデモーニッシュなものが扱われる場面がある。終盤の冬山登山だ。ナターリエと結ばれた幸福の最中、語り手は唐突に冬山登山を思い立つ。それまでは理知的、合理的、慎重だった彼が。そこには地質学者としての実際的な必要もあったかもしれないが、あえて冬に決行する切迫した必要性はなく、事実現地の人々は同行を求められて拒否する。結局語り手は信頼できるガイドを一人連れて登山を敢行するのだが、この場面は何を意味するのか。なぜ彼は幸福の最中に命を賭すような行動に出たのか。訳者は解答を留保する。管理人には、愛の高揚ゆえの冒険、あるいは愛を聖化するための一種の清めの行為として行われたとしか判断できない。この場面でそれまでの静謐さが突如破られ、自然との対立―制覇という荒々しさに変調するのは解せない。ひとつだけいえるのは、おそらくシュティフターという作家のなかには――研究者やトーマス・マンが指摘しているように――デモーニッシュな性質が存在し、それの克服が彼の文学に表れている、ということだ。

本作を「ドイツ文学の至宝」と絶賛したのは、ベートーヴェンよりビゼーを愛したニーチェだった。彼はこの小説のテンポを「すばらしきアダージオ」と評する。その、ゆったりしたテンポと、先に述べた質朴な文章が相まって読みやすく、風景を眺めながらなだらかな山道をゆっくり歩くような、とても気分のよい読書ができた。図版が多数掲載されているのも嬉しい。


4480039449晩夏 上 (ちくま文庫)
アーダルベルト・シュティフター Adalbert Stifter
筑摩書房 2004-03-12

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4480039457晩夏 下 (ちくま文庫)
アーダルベルト・シュティフター 藤村 宏
筑摩書房 2004-04-08

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