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zoom RSS 『ヨーロッパ思想入門』 岩田靖夫

<<   作成日時 : 2013/08/07 00:00   >>

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自由、平等、博愛。

ギリシア思想とヘブライの信仰。このふたつが西欧思想の土台であると著者は見る。タレスに始まり、ソクラテス、プラトン、アリストテレスへと続くギリシア思想の特徴とは何か。それは自由と平等の自覚であり、物事の真実を見極めようとする探究心だった。彼らはそれらを備えた自分たちの民族を誇り、他民族は「バルバロイ」と呼んで軽蔑した(バルバロイとは「ギリシア語を話さない人々」という意味だが、のちに「未開野蛮な人々」という意味に変わる)。自由と平等の自覚があったから彼らは民主制を作り出すことができた。探究心があったから紀元前6世紀頃から、タレス、アナクシマンドロスといった最初期の哲学者たちが登場して、世界の根源について考察した。彼らから始まった自然哲学は、その後、存在の不動性を説いたパルメニデス、実体としての原子を説いたデモクリトスへと引き継がれていく。

哲学(フィロソフィー=知を愛する)の意味を変えることになるソクラテスが登場するのは紀元前5世紀。彼が追求したのは「人はいかに生きるべきか」に関する知恵であり、彼によって「ひたすら自己の外なる自然界のみを眺めていた理性が、一八〇度向きを変えて自己自身を眺め」るようになり、「人生と善悪が本来的に問題とされる」ことになった。彼は「国家の崇敬する神々を崇めず、青年を腐敗させる」という罪状で告発され、死刑に処されるだろう。その彼が人間の生について得た究極の意味とは次のようなものだった。

すなわち、ただ生き続けることは人間の生ではない。人間の生は人間らしい生でなければならず、それは「善く生きる」ということであり、これを言い換えれば「正しく生きる」ということなのである。人間を人間あらしめている根本的特徴はその倫理性にある。その余のあらゆる人間の生の意味づけは、この倫理性という土台に支えられてはじめて成立する。


ソクラテスの弟子プラトンは、師の刑死に現実政治の堕落を見た。彼はイデア界という永遠の世界を創造し、その究極的な原理として「善のイデア」を設定した。プラトンの弟子アリストテレスは「あらゆる人間の営みは善を追求することである」とし、善とは、存在者が自己のうちに秘めた可能性を十分に発揮することであると説いた。「自己本来のはたらきの発揮が善である」とするアリストテレスの思想は、現代の「自己実現が幸福である」という了解に通じる。


もうひとつの土台、旧約から新約へといたるヘブライの信仰の特徴とは何か。『創世記』はイスラエルの神が、無から天地を創造したと伝える。天地創造以前の神については問題にされない。アウグスティヌスは、時間は天地創造とともに始まったのだから、天地創造以前の神について問うことは無意味だとした。では、常に歴史とともに言及される神とはどのような存在であるのか。
それは、イスラエル人の神が、つねに世界との相関関係のうちで語られるということである。世界のないところで唯一独存する神というものは考えられていない。彼らの神は、パルメニデスの存在のように不変不動の永遠性のうちで微動だにしない絶対者ではないのである。イスラエルの神は他者を呼び求める神なのである。


バビロニアやギリシアの神話のように、混沌から分裂して世界が生成したのではない。イスラエルの神は言葉によって世界を無から創り出した。言葉とは応答する者を期待して発せられるものであり、つまり神は、応答する者を期待して世界を創造したのだった。無からさえも他者を呼び求める神とはすなわち愛である。愛とは絶対的に他者を必要とするのだから。

旧約の信仰は民俗信仰の域に留まっており、新しい神との契約ののちヘブライの信仰がキリスト教として世界宗教に発展していくにはイエスを待たねばならない。イエスが登場したのはユダヤ人のあいだに終末思想が広まり、救世主(メシア)到来が期待されている時代だった。当時、律法学者たちは終末の審判に備え、一般庶民には煩瑣な律法の数々を遵守することを求めた。しかしイエスは律法を守ることなど殆ど気にしなかった。彼は、「私は正しい人を招くためではなく、病人と罪人を招くために来た」といい、庶民、下層民、被差別民を中心にして新しい連帯を作っていく。新しい連帯は律法によって結ばれる連帯ではなく、愛と憐れみによる連帯だった(他者への愛がない道徳的高潔さなど意味がないとイエスは見て、彼はそういうパリサイ人を「白く塗られた墓」――清潔だが中身は死んでいる――と呼んだ)。イエスにとって愛とは、自己を捨てて相手に奉仕することだった。他者を愛するとは自分の気に入った人間によくしてやることではない。それではただの自己愛に過ぎない。そういう愛は、他者に価値――財産や容姿や社会的地位や教養など――がなくなれば消えてしまうだろう。イエスがいう愛とは、「自分にとって価値があるかないかにかかわりなく、他者が他者であるがゆえに大切にせよ」ということだった。たとえ他者が悪人であろうと、敵であろうと。それは「自己中心性の全面的な否定」であり、だから彼はたびたび「自己を捨てよ」と説いたのだった。力はすべて他者のために。福音書はイエスが病人を癒し、悪霊を追い払い、疎外されている人々に生きる希望を与えたと伝える。しかし彼はただの一度も、力を自分のためには使わなかった。罪人として十字架に磔にされた彼を、祭司長や律法学士たちが侮辱しても。
「他人を救ったのに、自分自身を救えないのか。イスラエルの王キリストよ、いま、目の前で、十字架から降りてみよ。そうしたら、それを見て信じてやろう」。
律法ではなく、愛と赦しによる連帯の可能性。イエスの死後、弟子たちによってその教えは広く伝えられていく。復活したイエスと出会ったパリサイ人パウロは回心し、それまで熱心に守ってきた律法は罪の業であると見、愛と赦しによってのみ人は救われると説くことになる。律法の枠を越えてしまえば、もはや神の民はユダヤ人のみに限らない。彼は、救いは万民のものであると説き、異邦人への宣教者となる。
「もはや、ユダヤ人もなく、ギリシア人もなく、奴隷もなく、自由人もなく、男もなく、女もない。なぜなら、すべての人は、イエス・キリストにおいて一つなのだから」。こうしてイエスの教えは世界へと広まっていく。

愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

「コロサイの信徒への手紙」


本書の約半分を割いて、ギリシア思想とヘブライの信仰が成立する歴史的経緯を述べ、残りは西欧思想ののちの歩み、アウグスティヌスからトマス・アクィナスを経て、デカルト、カント、ロック、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーらの哲学について駆け足でふれる。ギリシア思想とヘブライ信仰について解説する前半部分は分かりやすく書かれているが、その後の西欧思想の変遷についての部分は、前半部分との連続性が欠けており、ギリシア思想とヘブライの信仰がなぜ西欧の土台であるかを本書だけで理解するには物足りない(実際には、キリスト教の教義がギリシア思想を取り入れたために、このふたつが西欧思想の土台となった)。250頁ほどの新書では尽くせることにかなりの制約があるのだから、近世以後の西欧哲学は切り捨てて、ロールズの正義論とレヴィナスの他者論にもっと多くを割いたほうが、結果的に一冊の本としてよくまとまったのではないだろうか(それで『思想入門』になるかどうかは知らない)。木田元氏の現実的な哲学史を読んだあとだと、岩田氏は古代ギリシアを過剰に理想化、賛美している印象を受ける。古代ギリシア人には自由と平等の自覚があったというが、自分たちの民族以外を「バルバロイ」と呼んだ彼らの奴隷制について言及していないのは記述のバランスを欠いてはいないだろうか。


4005004415ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)
岩田 靖夫
岩波書店 2003-07-19

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