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zoom RSS 『よく生きる』 岩田靖夫

<<   作成日時 : 2013/08/11 00:00   >>

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生きることを学ぶ。

著者が行った講演等のなかから、「よく生きる」という問題に関する内容をまとめた一冊。この問題を、著者は哲学に携わって以来一貫して考え続けてきたという。「幸福」「他者」「神」「社会」の四点について古今東西の哲学者、思想家を引用しながら、「よく生きる」とはいかなる生なのかを考察する。本記事では主として「幸福」と「他者」の問題について述べる。

人は誰もが自由に生きたいと願う。自由とは誰かから命令を強制されない自律した生を指す。自らが望むことをなす、所謂「自己を実現する」生は、アリストテレスの時代から人間の幸福であるとされてきた。しかし自己実現とは、人が自分を維持、拡大して強くなろうとすることでもあり、同じく自己実現をしようとする他者との競争を生み出す。この競争に終わりはなく、重要視されるのは自己ばかりで、遂にはエゴイズムの貫徹に陥るだろう。自己実現としての生に幸福はあるし、人は何事かをなして金を稼がねば生きていけない。しかし、そこに生きる喜びはあるか。生きる喜びは自己満足の追求からは生まれない。生きる喜びは「かけがえのない人との出会い」、すなわち他者との交わりにある。

なぜ他者との交わりなのか。人は誰でも自分を肯定して生きていたい。けれども自分で自分を肯定しても意味がない。「自分は善人だ」「自分はすごい人間だ」と自分でいってみたところで空しいだけだろう。自分を肯定してくれるのは他者だけだ。他者とはわれわれが支配できる存在ではないから、常にわれわれを拒否しうる可能性をもっている。その他者が留まり、われわれを肯定してくれたとき、存在を認めてくれたとき、われわれは幸福を感じる。世界のなかで居場所を見つけたと思える。ではどうすれば他者との交わりに入れるのか。社会的地位や容姿や金銭に頼るのではない。暴力や権力を用いるのでもない。自分の弱さも醜さもすべてさらけ出して一方的に善意を捧げること――ここまでしなくては他者との本当の交わりはない。見返りも打算もなく、弱い自分が全力の善意を他者に捧げてその応答が得られたとき、人ははじめて幸福になれる。何やら厳粛な幸福論だが、求道の生に入れというのではない。著者は身近な例を挙げて、端的に上述の内容をこう述べる。
私は学生たちによく冗談で言うんですけれども、授業の間にですね、「人間はいったい何のために生きているんだ」。毎日学校へやってきて、友達に「こんにちは」って言うために生きているんだ、というのが私の答えです。そう、本当にそうなんです。「こんにちは」、「おはようございます」。で、うちに帰ってお父さんやお母さんに「おやすみなさい」って言うために生きている。それが人間が生きている意味です。挨拶することがうれしくて生きているのです。私たちは。


毎朝目が覚めたら親子で「おはよう」と挨拶する。それから学校に来て、友だちに「こんにちは」と挨拶する。この「こんにちは」という挨拶は、自分の善意を他者に送っていることです。これが人間の最高の喜びです。ほとんど唯一の喜びです。これが、人間が生きているということです。
人が自分に心を開いてくれるのか。それとも、姿を見たら、見えなかったふりをして横道にそれて行ってしまうのか。これが心を開いてくれない姿です。人間が最高に傷つく姿です。しかし、思ってもみなかったところで、突然、背後から、「やあ」なんて声を掛けられたらすごく嬉しいわけです。で、どうしたら人は心を開いてくれるのでしょうか。人の心というのは、外から、力でこじ開けることは絶対に出来ません。


自分を守るため、傷つかないですむため、他者を支配するため、人は力を望む。しかし人は強くなればなるほど、自己防衛という檻のなかに閉じ込められて孤独になる。他人との本当の交わりを失っていく。本当に他者と交わろうとするならば、だから力を捨てて弱さをさらけ出す必要がある。それは自分を守っている鎧を捨てることであり、傷つく危険を冒すことでもある。意地悪な人間が踏み込んでくれば血だらけになるかもしれない。けれども、他者との本当の交わりに入るとは、それだけの勇気と覚悟を必要とする。

古代ギリシアの哲人エピクテートスは暴君と奴隷のこんな話を残している。暴君が奴隷に言うことをきかせようとして、「言うことをきかねば牢屋に入れるぞ」と脅す。奴隷「どうぞ」。暴君「言うことをきかねば腕を切り落とすぞ」。奴隷「どうぞ」。暴君「言うことをきかねば首を切り落とすぞ」。奴隷「どうぞ。あなたが殺すのは私ではなく、私の肉体だけです」。殺すとは相手を支配できなかったことの証でしかなく、これほどまでに他者とは絶対に支配できない存在であった。20世紀の哲学者レヴィナスは、関係のなかにしか「自分」と呼べるものはなく、かけがえのない他者との関係のなかでかけがえのない自分になり、そのかけがえのない者同士の関わりを愛と呼んだ。イエスは常々、「自分を捨てよ」と説き、神のごとき力をもっていながらただの一度もその力を自分のためには用いず、弱き他者のためにのみ用いた。宮沢賢治は「貝の火」という小説のなかで、他者に尽くす人間の高潔さ、善良さがいかにたやすくエゴイズムに転落するかを述べ、妙好人・因幡の源左は「人は他人のおかげで生きている」と考えた。みな同じことを考えていた。人間の生きる意味は他者との交わりのなかにしか存在しない、と。それをイエスやレヴィナスに倣って愛という言葉を用いて、人は愛し愛されるために生きている、といってみたい(ただし愛されることを期待してはいけない)。

愛の相手はロボットではだめです。奴隷でもだめですね。自分の言いなりになる相手との間には、愛は成立しません。ただ、自分を拒否する能力を持つ相手のみが自分を愛する能力を持つのです。自分を否定しうる相手との間にだけ愛は成立するのです。
愛の成立の根拠には、いつでも拒絶の可能性があるのです。言い換えれば、自由な者と自由な者との間にだけ愛は成立するわけです。


人は誰かを愛したとき、その相手と一体になりたいと望む。しかし、上述のとおり他者とのあいだには絶対的な断絶があり、望みは決して叶わない。これをかつては絶望と考えていた。しかしあるとき、ふと気づいたのだった。この断絶こそが、この空隙こそが、希望ではないのかと。いつまでもどこまでも去れない自分のままで、永遠の他者に向かって呼びかけ続けること、求め続けること。応答の保証もなしに。心を開き、この試みに自らを賭けることこそ、生きるということにほかならない。


4480062688よく生きる (ちくま新書)
岩田 靖夫
筑摩書房 2005-11

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130901「こんにちはが聞きたい」
 岩田靖夫さんの「よく生きる」を読んでいます。  私は、文章を読むことによって、その文章の書き手の人の思いを知りました。知ることによって、自分自身についても知ることが出来ました。だから、自分自身も、書くことを選択し、書いてきました。  最近、ずっと書くこ… ...続きを見る
Kinari Tapisserie
2015/12/17 23:58

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内 容 ニックネーム/日時
epiさん、お久しぶりです。お元気にされていますか。
昔の記事へのコメントですみません。この記事を読んで岩田さんの本に興味を持ち、読んで、感激して、文章を書きました。記事の中に、epiさんのこの記事へのリンクを貼らせて戴きましたので、お礼とお知らせを。
また新しい記事が更新されるのを楽しみにしております。
kinari
URL
2015/12/18 00:04

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