epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『ブッダの人と思想』 中村元・田辺祥二

<<   作成日時 : 2013/08/16 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

目覚めた人。

12章に分けて釈尊の生涯と教説を紹介する。釈尊の説いた教えを簡潔にまとめており、原始仏教の入門書として適している。

釈尊の人間観は「欲望を中核(コア)とした人間観」だった。人間にはみな生存への欲望があり、その欲望が各人の世界像を歪ませている。欲望を抑えることによってその歪みを正そうというのが釈尊の教えの根本にある。執着を離れ、自己を自由に開放する。この無執着を実践する道を彼は「清浄行(しょうじょうぎょう)」といった。

欲望は人間の生きるエネルギーであり、それを捨てることは生の喜びを捨てることではないのか、釈尊の教えは畢竟消極的なものではないか――。そういう疑念を抱かないわけではない。けれども彼は、欲望を捨てた境地にこそ生の喜びはあると語っている。
満足して、教えを聞き、真理を見るならば、孤独は楽しい。人々に対して害心なく、生きとし生けるものに対して自制するのは、楽しい。世間に対する貪欲を去り、もろもろの欲望を超越することは楽しい。<おれがいるのだ>という慢心を制することは、じつに最上の楽しみである。

『ウダーナ』


人間は誰もが欲望を抱いて生きている。しかしみなが己の欲望を遂げられるわけではない。欲望を遂げられるのは相対的な強者の側であり、弱者はそのための餌食になる。欲望のパワーゲームとしての生。われわれはすでにこの価値観を自明のものとして受容している。そうして他人の餌食にならずに済むよう、警戒し、武装し、怯えながら生きている。これは人間が人間である限り脱することが不可能なシステムなのか。釈尊は違うと説く。欲望のパワーゲームとしての生が当然と思うのは、その人の世界像が欲望のために歪んでいるからだ、と。そしてこのパワーゲームのなかに留まる限り安らぎはなく、ゲームを降りることでルールから自由になり、そのとき初めて安らぎが得られるだろう、と続ける。降りたあとは別のゲームへ参加せよ、これまでとは真逆の、欲望を捨てるゲームに。貪欲であるのをやめ、自分への執着を捨てる。そこに「最上の楽しみ」はある。

釈尊は人間の生を「苦」と表す。「苦」とは、思い通りにならない、というほどの意味だという。病い、老い、死、別離など、生には苦がつきまとう。ではこの苦はどこから生じる。執着からだ。生への執着、健康への執着、金銭への執着。そして他人への執着、自己への執着――他人より優れていたい、他人より目立ちたい、他人から羨しがられたい。こうした願い、欲望が執着を生み、けれども人間は苦なる存在であるから決してすべての欲望を遂げることはできず、執着心は満たされず、苦しみに囚われる。これを捨てよ、と釈尊は説く。むろん欲望は人が生きるうえでのエネルギーではある。けれどもそれは他人を犠牲にして成り立っている。他人より上に行きたい、自己愛を満たしたいと願ったところで際限はなく、欲望は終わりを知らない。欲望に囚われた生はだから苦しい。苦しいのならそういうふうに生きなければいい。欲望なんて捨ててしまえ。釈尊は相手によって教えの内容を変えて伝えた、まるで医師が患者一人ひとりの病状に応じて薬を変えるように。そう、釈尊の教えとは、苦という病いに冒され、これを癒して楽になりたいと望む人たちへの処方箋だった。
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知りがたい。――空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

『ダンマパダ』


愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持を除くこと、悔恨をやめること、平静な心がまえと念いの清らかさ、――それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、――これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であるとわたくしは説く。

『スッタニパータ』


御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりを捨て、汚れのなくなった人――このような境地にある人を神々でさえも羨む。

『ダンマパダ』


当時のインド社会を支配していたバラモン教は輪廻転生を説いていた。人は死後、生前の行いに応じて報いを受け、何度も繰り返し生まれ変わると。解脱とはこの輪から脱して涅槃へと至ることを指す。もっとも、死後の世界云々に関して――管理人を含め――今日の日本人はあまり頓着しないだろうから真面目に考えすぎなくてもいいだろう。釈尊自身、死後の世界があるか否か、と問われて関知しない旨の発言をしている。管理人が惹かれるのは「苦の克服をめざす実践哲学」としての原始仏教である。さらにいえば、温厚の人釈尊に惹かれるからである。彼は、人に出会うと自分の方から挨拶をする人柄だったと伝えられている。

本記事では詳細に立ち入らないが、本書は仏教の概念を初心者にも分かるよう平易に解説している。「四法印」「八正道」「因縁」「五蘊」「慈悲」「四諦」など。こうした諸々の概念を知ることも重要だろうが、懶惰な人間なのでさほど興味がわかない。沢山のことを知る、ということにまず興味がないし、望むところでもない。管理人は、生きる助けとなるシンプルな叡智が欲しい、それだけの思いで釈尊を読む読者である。

釈尊は出家後、バラモン教の常識に倣って6(7)年間の苦行をするも苦行で悟りは得られないと苦行を卒業し、菩提樹の下で瞑想に耽ったのちに悟りを得た。ときに35歳だった。そうして多くの人々に教えを説いた。けれども彼の出家者としての修行は、悟りを得たから終わったのではなかった。その後80歳で亡くなるまでの約50年間、常に求道を志した。悟りを得たあとも悪魔の誘惑と戦っている。臨終間際には、
スバッダよ。わたくしは二十九歳で、なにかしら善を求めて出家した。スバッダよ、わたくしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んできた。これ以外には<道の人>なるものも存在しない。

『大パリニッバーナ経』

という言葉を残している。生きている限り修行に終わりはなかった、釈尊でさえもが。

そうして得た悟りを人々に説きながら、釈尊はまた、自分の説く真理にすら執着するな、と発言している。ある旅人が氾濫する河に行き当たったとして、渡るには筏が要る。だから筏を作った。これに乗って向こう岸に着いたら筏はどうすればいい。有益だからと担いで旅を続けるのか。違うだろう。筏は有益だったが役割は終わった、だからもう捨てて旅を続けよう。自分の教えも畢竟この筏と変わらない。

修行僧らよ、わたしは汝らが執着をはなれるようにと、この筏のたとえを説いた。このたとえを知った汝らは、法をも捨てなければならない。いわんや非法をや。

『マッジマ・ニカーヤ』


真理にすら縛られるな――これこそ釈尊の究極の教えではなかったか。彼の教説は固定的なもの、教条的なものではなかった。ゆえに無限の発展可能性を含み、ゆえに後世、世界に広まり更なる展開を見せることになった。


4140018356ブッダの人と思想 (NHKブックス)
中村 元 田辺 祥二 大村 次郷
日本放送出版協会 1998-07

by G-Tools


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『ブッダの人と思想』 中村元・田辺祥二 epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる