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zoom RSS 『ブッダのことば』 中村元訳

<<   作成日時 : 2013/08/22 00:00   >>

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最古の仏典。

本書『スッタニパータ』は、釈尊と、彼に教えを乞う修行者たちとの対話から成っている。中国、日本の仏教には殆ど知られなかったが、本書は数多ある仏典のなかで最古のものであり、釈尊の言葉にもっとも近い詩句を集成しているとされる。登場する修行者たちは屋外――樹下や岩窟――で暮らしており、寺院が作られる以前の時期であることを伝える。尼僧はまだいない。釈尊の死後まもなく、弟子たちによって彼の教えは簡潔な韻文のかたちでまとめられた。それらがいかなる経過で経典――のちの三蔵――となっていったかについては巻末の解説に詳しい。

生はままならない。自分が望むことを望むとおりに果たせる場合など殆どない。自分の力ではどうにもならない、老い、病気、死の恐怖が常につきまとう。愛する人たちともいつかは必ず別れるときが来る。さらに、当時のインド社会を支配していたバラモン教は厳格なカースト制で人間を縛り、生前の行いに応じて何度も生まれ変わり再びこの苦しい生を繰り返す輪廻転生を説いていた。紀元前から、人は生に迷ってきた。どうやって生きたらいいのかと。釈尊もまた、生の憂悶から求道を志した人だった。彼が、無益な苦行ののちに菩提樹下で悟った生の真理について、本書は彼と弟子たちとの対話形式で素朴かつ力強く述べる。

欲望を捨てよ。執着を離れよ。足るを知れ。何にも縛られるな。慈しみの心を持て。すでに過去の記事で釈尊の教えを要約してはいる。本書から引用すると、

子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。


生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。


心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。


虚言をなすことなかれ。知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりすぐれていると思ってはならない。


古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。


釈尊には真理さえもが回避すべき妄執、固執だった。
師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

それではどっちつかずのばかばかしい教えではないか、対話者マーガンディヤはそう釈尊を批判する。しかし釈尊にとってみれば、これこれこうであるという固定的なものの見方そのものが、すでに妄執であり束縛なのだった。すべての想いを離れよ、離れれば縛めは存在しなくなる。そこに解脱がある。容易でない教えである。と同時に、それが極めて論理的に組み立てられた思考であることも知れる。

師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

この文章を読んで、デカルト的な「思うわれ」を連想する読者は少なくないだろう。訳者は注をつけてこう述べている。ここではデカルトに対応する自我の問題が扱われている。しかし近代西洋と古代インドの仏教とのあいだには確然たる相違があり、近代西洋が自我の確立を目指したのに対して、古代インドの仏教では、自我は制し、滅ぼすべきものであったと。引用した釈尊の言葉はこう続く。
これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

管理人はここを、本書でもっとも重要な部分と見る。釈尊にとっては(自我の)思惟がすでに慢心の母胎であり妄想なのだった。この思考を言葉で表現するのは不可能と思える。無とか空とか、そういうイメージで捉えるべきではないのか。釈尊がここで述べようとしている真理は語りえぬ境地なのではないだろうか――古代中国で老子が、これが道だといって示すことのできるものは道ではないと説いたのと同じように。生身の人間が至れる境地なのか、と嘆息する。彼は考えることを否定しているのだ。考えて、考えて、考えて――その果てに、考えることの限界を示している、そういう教えと読める。彼は死にかけるような6年もの苦行を経て、そのあとさらに瞑想してようやく悟りを開いたのであり、しかも彼の修行はそれで終わらず、死ぬまでの約50年間、常に努め続けた。悟りを得たといってふんぞり返って人々に教えを説いていたのではない。幾度も己の内なる悪魔と戦っている。求道とはこれほどまでに過酷な茨の道だった。

本書は約450頁、そのうち本文が約半分で、残り半分は注になっている。学問的すぎて煩わしく思える箇所もあるが、比較文化的な箇所は非常に興味深く読める。たとえば、釈尊がよく孤独を勧めていることについて、古代インド社会では、風土の影響で集団労働をせずにすみ、ために他人への依存度が低く、結果各個人は孤立的になる傾向があるとする。「インド人は孤独を楽しむ」。彼らを見た古代ギリシア人は、ポリス的人間である自分たちと比較して、その違いに驚いている。こうした孤立性が、インド思想独特の内向性を生む土壌となった(釈尊の教えは出家者を対象としており、その個人的な部分がのちに小乗――小さい乗り物――だとして大乗仏教から批判されることになる)。ただ、有名な「犀の角のように独り歩め」という孤独の勧めは、その前に「朋友を得られないならば」という但し書きがついており、釈尊は他者と関係を結ぶことを必ずしも執着として全否定していたわけではない(そうでなくては他人に教えを説くという行為自体が成立しなくなる)。
他にも「足るを知れ」という教えは、ほぼ同時期に、中国では老子によって、ギリシアではストア派によって説かれていた教え/知恵であるという指摘がある。多くを求めず、いまあるものに満足するという生き方は、消極的、停滞的と批判することも可能だが、幸福になるのに最も近い道であるのは確かだろう。何が幸福であるのかと他人と比較して考えることはすでに不幸の始まりであるとも釈尊は説いている。

どれほどの有難い教えも、それを読めばすむというものでないのは述べるまでもない。釈尊であれ、イエスであれ、エピクテートスであれ、マホメットであれ、孔子であれ、老子であれ、彼らの言葉を求めるのは、読者が叡智を求めているからだろう。しかしそれを、収集家が対象物を収集するように――あるいは装飾品で身を飾るように――ただ読んだだけでは何の変化も進歩も発展もない。読んだ、それがどうした? 大事なのは言葉ではない。いや、言葉は大事だが、それ以上に大事なのは読者の側の思索と実践の意識だろう。「他人が解脱させてくれるのではない」、釈尊はそう説いている。釈尊の教えを大事にするなら、彼の言葉を胸に刻んで、けれども彼の言葉に囚われずに生きてゆけ。


400007007Xブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)
中村 元
岩波書店 1991-01-24

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大量の注釈はワイド版のほうが字が大きく読みやすい。何度も繰り返し読むことになるだろう一冊なので、購入される方にはこちらをお勧めする。

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