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zoom RSS 『ゴドーを待ちながら』 サミュエル・ベケット

<<   作成日時 : 2013/09/04 00:00   >>

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明日は、明日こそは。

夕暮れの田舎道、一本の木の下に二人の浮浪者、エストラゴンとヴラジーミルが立っている。彼らは待っていた。今日、ここに来る約束になっているゴドーという人物を。丸一日を待つのに費やし、けれどもゴドーが姿を見せないまま、もうすぐ今日は終わろうとしている。するとそこに、知恵遅れと思しき従者の首を綱で縛った男が登場する。ゴドーではない。ポッツォといった。金持ちらしい。食べ残しを恵んでくれる。不毛かつ滑稽なやりとりを交わしたのち彼らは消え、今度は男の子がやって来る。ゴドーの使いだという。聞くと、今日はゴドーは来られない。また明日待っていてほしいとの伝言。二人の浮浪者は翌日まで待つことになる。翌日、彼らは昨日と同じ場所で昨日と同じようにゴドーを待っている。しかしやって来る気配はない。昨日を繰り返すようにポッツォとその従者が二人の前を通りかかる。少し昨日と様子が違う。浮浪者たちが、昨日会ったというのに、ポッツォは知らないという。彼らが去るともう夕方で、ゴドーが姿を現さないうちにまた男の子がやって来る。また? 浮浪者たちは昨日会ったというのに、男の子は初めて会うという。彼はいつかと同じ伝言をする。ゴドーは今日も来られない。やれやれ今日も徒労だった。浮浪者二人は夜露をしのぐため移動しようとする。けれども彼らは動かない。

数年ぶりの再読。反演劇と呼ばれるこの劇の内容についてどう述べたらいいのか。すでに訳者が、管理人が思うところのすべてを述べてしまっている。ゴドーという「神もどき」(あるいは救済でも破滅でもいい)を待ち続けるしかない現代人の悲哀と滑稽を表現したものだというもっとも誘惑的かつもっとも陳腐な読み。あるいは、そうした幻想を幻想と分かっていながら捨て去ることができない人間への共感、憐憫、皮肉。ベケット自身は本作がキリスト教と無縁でないことを示唆する旨の発言を残している。いかようにも読め、いかようにも解釈できるというのが優れた作品の定義のひとつであるなら、読者の像を乱反射して映し出すような本作はまさしくそういう作品のひとつだろう。ゴドーを救いととるか破局ととるかで、筋は正反対の意味を帯びもする。

以前に読んだときは、何らかの「終わり」を待っているようでその期待に裏切られ続ける浮浪者たちのよるべなさに感動したように記憶している。しかし今回読み直してみると、かつての感動は殆どなく、寒々とした空しさを覚えた。なんという救いのなさ、なんという退屈。この劇の内容について管理人程度の読者があれこれ空想をたくましくしたとしても、陳腐な読みになるのは目に見えている。それでもあえてひとつ書きたいのは、これは待つ身の退屈さ(と言葉の関係)を主題としている劇ではないのか、ということだ。退屈な時間をやり過ごすために空費される言葉また言葉。彼らは「黙ることができない」。多用されるト書きの「沈黙」も気になる。劇の台本であるならば書かれていない部分は空白であり、間であるだろう。なぜベケットは間と書かずに沈黙と書いたのか。登場人物たちはとめどないおしゃべりをしながら、たびたび急にふっつりと黙り込む。断片的な言葉のやりとり。コミュニケーションの不可能性――人間の孤独――を示唆するようでもある。その沈黙と対比するように置かれる中盤の従者の長広舌。どうも神の恵みと世界の終末についてまくしたてているらしい。従者はこの場面以外では何をされても終始沈黙している。だからこそこの場面の異様さは際立つ。しょうじき不気味ですらある。不気味といえば一本の木の下という待ち合わせの場所もよくない。これでは――浮浪者たちもそう語るのだが――待ちくたびれて、ふと魔が差してつい首を吊りたくもなるだろう。とくに待ちぼうけを食わされた夕暮れなどには。

ベケットのユーモアは分かりにくい。本作はある程度機敏な動きで演じたほうが滑稽味が増すのだろうが、その動きが、断片的に反復される台詞によって細切れにされているのは劇のテンポとして不思議な感じがする(劇を見ずにこう書いてしまうのは乱暴すぎるけれども)。もっとも、この劇では動きの部分はかなり少なく、不毛な会話と単調なテンポがときに劇を引き伸ばしているようにすら思える。それが待つ身の退屈さを観客に感じさせるベケットの意図とも読める。

ヴラジーミル (もったいぶって)人おのおの小さき十字架を背負いか。(ため息)つつましく暮らして、だが、行きつく先は。
エストラゴン まあ、それまで、興奮しないでしゃべることにしよう。黙ることはできないんだからな、おれたちは。
ヴラジーミル ほんとだ、きりがないな、わたしたちは。
エストラゴン それというのも、考えないためだ。


「黙ることはできない」とはメタシアター的発言でもあるだろう。本作にはこの類の台詞が多い。

結局ゴドーが来ようが来まいが、待つ約束をしたのなら待たねばならない。約束(契約?)をすっぽかすような相手だとしても、ほかにすることがないのなら尚更。どれほど時間を持て余すとしても。そんなふうに、人はみな、意識しているとしていないとは別にして、幸福だとか、希望の実現だとか、よき未来だとか、神様の恵みだとか、そういうものを信じ待って生きている。何かを信じていなければ人は一日だって生きてはいられない、そう述べたのは福田恒存だったかと思うが、傍目には滑稽に見えたとしても、それがわれわれの生の実際であるのだろう。そうして待つ退屈な時間を埋めるためだけの空疎なおしゃべりがえんえん繰り返される。

ある日、生れた。ある日、死ぬだろう。同じある日、同じある時、それではいかんのかね?(やや重々しく)女たちは墓石にまたがってお産をする、ちょっとばかり日が輝く、そしてまた夜。それだけだ。(綱を引き)前進!


つまりはそういうこと。噴出する「言葉、言葉、言葉」。

これだけ待った男なら、永遠に待つだろう。そしてやがてこういうときがやってくる、もうなにも起こらない、もうだれも来ない、そしてすべてが終わって、ただむなしいとわかっていながら待つということだけが残る、そういう瞬間が。おそらく彼はもうそういうところへ来ていたのかもしれない。そして(たとえばの話だが)あなたが死ぬとする、そのときはもうおそすぎるのだ、あまりにも長く待ちすぎて、あなたにはもはややめる気力さえなくなっているというわけだ。

ベケット 『マロウンは死ぬ』


終わりを待たなくちゃいけない、終わりが来なくちゃいけない、終わりが来ても、やっとのことで終わりが来ても、ひょっとして前と同じことかもしれない、終わりへと向かわなければならなかった、あるいは終わりから遠ざからなければならなかった、あの長いあいだと同じことかもしれない、震えながら、あるいは楽しげに、覚悟をきめて、あきらめて、存分にやった、存分に存在したという自信をもって待っていた、あれと同じことかもしれないな、なにもすることができず、何者でもありえなかった者にとっては。

ベケット 『名づけえぬもの』



4560071837ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)
サミュエル ベケット 安堂 信也
白水社 2013-06-18

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