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zoom RSS 『モロイ』 サミュエル・ベケット

<<   作成日時 : 2013/09/11 00:00   >>

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果てしない物語。

再読。2部構成になっている。1部はモロイという足の不自由な老人が語る。記憶力が欠ける彼の語りはとりとめない。いつか溝に落ちてはまりこんだのだがどうやら誰かに助けられて、いまは死んだ母親の部屋にいるという。彼女の死について詳細は語れない。というか、わからない。いつ死んだのか、埋葬はもう済んだのか、そもそもどうして自分はいま母親の部屋にいるのかさえ定かでない。書きものをやらされている。毎週、男がやって来て書いた書類を持っていく。しかし何の目的で男がそうするのか、これもやはりわからない。モロイの語りは錯綜する。かつては――おそらくそう遠い過去ではないだろう――ある町で一人で暮らしていた。仕事はしていなかった。金が必要になると、別の町に住む母親の家まで無心に行く。その日もそうだった。自転車に乗って出かけた。ところが事件が起きた。老婦人の飼犬を轢き殺してしまったのだ。その縁からモロイは彼女の家に引き取られ、そこで暮らすようになる。老婦人は夫に先立たれた身の上だった。どうやら彼女はモロイを監視しているらしい。不自由はないが、いつまでもこうしているわけにもいかない(どのくらい彼女と暮らしていたのかの記述は曖昧だ)。夜中にこっそり家を抜け出す。自転車は置いていく、警笛だけ外して。徒歩で母親の住む町を目指す。もしかしたら、この町がそうなのか。わからない。無宿生活になり、森へ入る。足が駄目になった。もう歩けない。地面に腹這いになって匍匐前進する。春の朝だった。森のはずれに溝があった。誤って落ちた。そこから空を見た。鳥の声がした。

2部はジャック・モランという男が語り手になる。探偵めいた組織の調査員で、幼い息子が一人いる。彼のところへ組織の連絡員が来て上司の命令を告げる。息子とともに出発してモロイという男を探し出せ。モランは息子を信用していない。どうもあいつには狡猾なところがある。持ち出しを禁じた切手コレクションを父親の目を欺いて持ち出そうとするし、今夜は出発だというのに体調が悪いなどという。しかし連れていく。父親の命令は絶対だ。二人でモロイ探しの旅を続けるうちにモランの膝の具合が悪くなった。これでは旅の続行は困難だ。息子に金を渡して、頑丈な荷台が付いた自転車を町で買ってこいと命じる。できれば中古がいい、そのほうが安く済むから。自転車の値段なんて知らないが。息子に漕がせて、自分は荷台に乗るのがいい。3日後、ようやく息子が自転車を買って帰ってくる。その間に人を殺してしまった。息子には黙っていよう。出発だ。やがて目的の市についた。そういえば連絡員は、モロイを見つけたらどうしろといったのだったか。思い出せない。そのうち息子と激しい喧嘩をした。翌朝、目を覚ますと隠れ家には自分一人しかいなかった。財布のなかにはわずかな金。膝はよくならない。そこへ連絡員がやって来る。任務は終了、帰宅せよという上司の命令を携えて。金はないし、傘を杖代わりにしなくてはとても歩けない。進んでは止まり、止まっては進みするうちにひと冬が過ぎ、ようやく帰宅した。出て行った息子もそのうち帰ってきた。いまは自室で、上司に提出する報告書を書いている。真夜中、外では雨が降っている。いや、真夜中ではないし、雨も降っていない。

難解なことは書かれていない。(管理人には)どうでもいいような些末なことにこだわるモロイの語りにも、権威風を吹かせる俗な父親のモランの語りにも、どこにも通常の意味での難解さはない、書かれてあることをそのまま読むぶんには。下品なギャグが満載であり、思わず吹き出してしまう箇所も少なくない。しかし読むのが疲れる。気が滅入る。どうしてだろうかと考えてみる。

モロイの語りにとくに顕著なのだが、彼は曖昧な記憶を頼りに些末なことがらに拘泥した語りをひたすら続ける。わからない、思い出せない、らしい、といった語が頻出する。何かを述べたあとで、すぐにそれを否定する。いや違う、そうじゃなかった、と。否定が続けば、それを予期する読みかたになる。読んでいる最中からもう疑っている。「私はいつも、言いすぎるか言い足りないかなのだ」。語られる先から否定、あるいは修正されていく語り。読者の信頼を拒むような語り。何を目指してのそれなのか。ゼロを、無意味を、自由を目指して?
自由になった、それだ、それがどういう意味かは知らないが、こんなとき使われるのはその言葉だ、なにをする自由か、なんにもしない自由、知る自由、だがなにを、意識の法則をかもしれない、私の意識の、たとえば、水はもぐるにつれてのぼってくるものだとか、欄外を黒くよごすより、原文を消してしまったほうが、すべてが真白でつるつるになるまで、くだらぬおしゃべりがそのほんとうの姿、ばかげた、出口のない無意味という姿を現すまで、それをふさぎ尽くしてしまったほうがよいか、少なくとも同じことだとかいうことを知る自由だ。

加えて、前述したように、窓から見える月の動きや、4つのポケットのなかに入れた16個の小石のローテーション方法などについての彼の妙なこだわりも、その馬鹿馬鹿しさが、滑稽を越えて何やら病的な不気味な影を帯びる(計算は彼の明晰な頭脳を証明しているのだが)。終盤でモロイは匍匐前進しつつ目的の町を目指すことになるが、彼の語りも同様に遅々として進まない。

モロイに比べればモランの語りはもう少し明快だ(退屈だと思う読者は第2部から読むといい、と訳者は解説で述べている)。彼の語りにも曖昧さや否定の要素はあるものの(嘘までつく)モロイほどではない。ここでは俗物の父親の滑稽さが、それを自覚しない彼の得意げな語りによって浮き彫りになる。息子は狡猾だという。いや、そんなことはないと読者は思う。父親のほうが狡猾なのではないか。モランの語りを今度は読者が否定する姿勢になる。そうなりながらも、最後の最後では自分の語りをありえないような仕方で修正する。最後の文章はモランがモロイになった瞬間だろうか。もっとも、こういう憶測をベケットはあらかじめ拒んでいる(「最後はすべて、申し分なくよい最後も、いわゆる悪い最後と称するものも、すべてうるわしい自然のうちではないか。無益な憶測に迷うのはやめよう」)。

否定とは常に意志されたものだろう。その連なりが、こんなにも集中と辛抱を強いるとは本作を読んではじめてわかったことだった。述べたそばから述べたことがらを否定する、あるいは取り消していく。読者を煙に巻くようなモロイの語りは虚無を目指しているようで、ここに管理人の気が滅入る理由の一端があるように思える。語りのすべてが無化されてしまったら、自分は何を「読んだ」といえるのだろうか、と。


1部と2部の構造にも注目したい。どちらにも共通するモチーフがある。人探しの旅、語り手の体の不如意、息子の存在、循環形式の語り(どちらも最後に冒頭部分に戻ってくる)など。自転車のような小道具にまで目を配ればさらに相似は明確になるだろう。本作では語られる内容は問題にされていない。モロイの母親探しも、モランのモロイ探しもことの顛末は宙ぶらりんのまま終わり、彼らの語るエピソードのうちには放置されたままになっているものがある。そういう内容の整合性だとかリアリズムだとかはベケットの眼中になかったのだ。彼が企てたのはいかに語るか、いや違う、いかに語りを拒むために語るか、そしてそれによって何が現れてくるのか、という実験だったのだろう。

物語、物語。私はそれを話す術を知らなかった。今度の物語もきっと話せないだろう。



4560043469モロイ
サミュエル ベケット Samuel Beckett
白水社 1995-08

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