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zoom RSS 『マロウンは死ぬ』 サミュエル・ベケット

<<   作成日時 : 2013/09/17 00:00   >>

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死の床に横たわりて。

本作は、間もない死を予感しているマロウンという老人がどこともわからぬ部屋で書いている手記の結構になっている。彼はノートに三種類のことを書く。現在の自分の状況と、財産目録と、そして物語。この三つの内容に共通するのはいわば生の報告書としての機能だ。自分の状況の報告と財産目録はどちらも間もなく死ぬだろう人間の生の証、死に臨んでの決算書としての性質はわかりやすい。では物語がなぜ生の報告書たりえるのか。マロウンは覚束ない足で躓きながら歩く人のように物語を書き進める。主人公の少年はサポスカットといい、彼がフランスの田舎で過ごす日々が述べられる。この少年の物語は途中で中断して、再開されると少年は老人になっている。しかも名前はマックマンに変更される。マックマンは浮浪者として養育院に入所し、そこで看護人のモルと恋仲になり、別の看護人とともに島へボート遊びに出かける。そこまで書いたところでマロウンの命が尽きたのか、物語は唐突な終わりを迎える(それは同時に本作『マロウンは死ぬ』の終わりでもある)。このなんとも投げやりな物語が生の報告書たりえるのは、書くこと/語ることがすなわち生であるからだ。人間は言葉を用いて語り、書く。自らについて、世界について、架空の出来事について。物語のなかに架空の人物を登場させるのは、神が人間を創造したのとよく似ている(本作にはキリスト教的なモチーフが多用されている)。人間による、縮小再生産された創造。

マロウンは死にかかっている。ときには、すでに自分は死んでいるのではないかと疑う。そんな、最期の状況にいる彼がなぜ物語を書かねばならないのか。彼は自身の過去について多くを語らない。が、どうも生涯孤独で、自分の家庭もないようだ(養育院に入れるということは親族があるのだろうか? しかし彼はそのことについては一切沈黙している)。死を間近に控えた人間が、彼に馴染みある宗教に思いを馳せる心理は自然だろう。キリスト教の神は人間を創造した。神の子は死からよみがえった。しかし自分は? そう問うたとき、マロウンは何も創造していない自分に気づいた。そこで、彼にできるやりかたで人間を創造した。彼はサポスカット少年=マックマン老人について「わたしの子供であるもうひとりの男」と書くが、そのことの滑稽さを嘲笑するように、すぐに「自分が造り上げた小人」と書き直している。存在の象徴である名前を気分に任せて変更するなど創造者にしか許されない所業だろう。
さあさあ、わたしたちはやがて死ぬのだ、精いっぱいのことをしなけりゃならぬ。しかし、わたしが生まれたのか生まれなかったのか、生きたのか生きなかったのか、死んでいるのか死にかかっているのか、そんなことはどうでもいい、いつもやっていたようにやり続けるだけだ、もっともなにをやるのかはわからない、わたしが何者なのかもわからない、わたしがどこにいるのかもわからない、わたしがいるのかどうかもわからない。そうだ、小さい人間、小さい被造物をなんとか造ろう、腕に抱けるように、わたしの姿に似せて造った小さいやつをだ、なんと言おうとも。そしてどんなみじめなやつを自分が造ったか、またはどんなに自分に似たやつを造ったか、それを見てから、わたしはやつを食ってやる。それから先は、長いあいだ、ひとりぼっちで、ふしあわせでいればいい、どんなお祈りをすればいいのか、だれに祈ればいいのか、わからぬままに。

自分に似せて、というからには、サポスカット/マックマンはマロウンに近い人物なのだろう。マロウンの過去については記憶が欠落しているために不明だけれども、養育院にいたことがあったとしても不自然ではない。ベケット作品に登場する人物に共通の特徴として健忘症がある。ここでのマロウンの独白もわからないづくしで徹底している。

物語とは畢竟嘘である。間もない死を迎えるマロウンはなんて退屈なのかと繰り返しこぼす。生の倦怠、それを乗り越えて生きるために、その退屈をなんとか凌ぐために、物語は発明されたのか。マロウンの書くリアリズム小説もまた退屈な代物でしかない。この物語を、前述のようにマロウンの生の影絵と見るならば、終盤で唐突に発生する殺人――ソローキンの『ロマン』における変調のように唐突に――はマロウンの死の意識の反映ととれる。彼はこの場面を書いたのち、痙攣的な片言を記してノート=本作を終えるだろう。架空の出来事、でっちあげの騙りと思われた物語が、実際には書く人の生の状況と密接な関係があることを示唆するようでもある。
わたしの求めるところはただひとつ、わたしの寿命の続くかぎり、そのぎりぎり最後まで、生きるという主題について語り続けること。


書くこと/語ることは生きることだった。死が目前に迫った今、そのことが痛切に意識される。
小指が紙の上をすべってゆく音、およびそれを追う鉛筆のはっきり違った音が聞こえる。そのことにわたしは驚く、そのためにわたしは、なにかが変わった、と言わざるをえないのだ。


書くこと/語ることの反省。書くことが終わるとき、命も終わる。死の意識が常にマロウンにある本作には、すべてが最後には死の虚無に呑まれてしまう、その徒労感が濃く漂っている。
わたしの最後の言葉はどんなものになるだろう、書いた言葉だ、それ以外のは残らない、消えてしまう、空に。

にも関わらず暗く湿っぽくならず、透明感に溢れて妙に清々しいのがベケットの不思議な魅力だと管理人には思える。彼のユーモアについては特に強調するほどのものではないだろうが。

本作は難物で、『モロイ』よりよほど手こずった。管理人には、訳者による解説も殆ど理解の役に立たなかった。全篇に漂う詩的な死のイメージを堪能することが、あるいは読み進める助けになるだろうか。たとえば次のような文章によく象徴される(キリスト教的な)死のイメージには読者に溜息をつかせる美しさがある。
そうだ、強がりをしてみせてもしかたがない、すべてを捨てるのはむずかしい。恐怖に倦み疲れた目が、かくも長いあいだ祈るようにすがりついてきたすべてのものの上を、あさましく去りがてにさまよいつつ、最後の祈りをこめる、ついにほんとうの祈り、何物をも求めない祈り。そしてそのとき祈願成就のかすかな気配に、死んでいたかずかずの憧れが生きかえり、沈黙の世界にひとつのささやきが生まれて、どうしてもっと早く絶望しなかったのかとやさしくあなたを咎める。臨終の聖餐のつもりでこれが最後の言葉。


一切が虚無へと崩落するのを、どうしようもない。



4560043477マロウンは死ぬ
サミュエル ベケット Samuel Beckett
白水社 1995-08

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