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zoom RSS 『名づけえぬもの』 サミュエル・ベケット

<<   作成日時 : 2013/09/24 00:00   >>

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まだ終わらぬために。

見渡す限り真っ暗な空間に語り手はいる。ここはどこなのか。現実なのか夢なのか死後の世界なのか。彼によると、自分には頭があるとは思えない、口も目もあるとは感じない(なのに真っ暗だという)。語り手は何もわからないままにしゃべりはじめる。わからないけれども、とりあえずはわかっていることについて。その、わかっていることについての真実味は限りなく薄いのだけれど。かつて松葉杖をついて故郷を目指したことがある。首まで甕に浸かって料理屋の軒先にいたこともある。しかしそうした、彼にとっての過去の話が彼のかつての姿だったという保証はない。もしかすると誰かに聞かされた話だったかもしれない。声が聞こえる。語っているのは自分ではない、これは自分の声ではないから。ただその声に導かれるまましゃべっているに過ぎない。語りの内容は錯綜し、『モロイ』で顕著だった騙りの技法が存分に発揮される。否定、あるいは言い直しに次ぐ言い直し。一切が不毛で、一切が不確かな語り手の言葉。もはや何を語っているのかさえ判然としなくなる。それでも止すわけにはいかない。なぜか。それが彼にとって唯一の、自己の存在証明だからだ。

本作は『モロイ』『マロウンは死ぬ』から続く、所謂三部作の掉尾を飾る。ベケットは語ること/書くことの意味を主題に据えて前二作を展開させてきた。『モロイ』における騙りの技法、『マロウン』における書くこと=創造であることの証明(イスラエルの神とは言葉だった)。語り手たちの語りは迷路のなかの歩みにも似て、進むかと思えば引き返し、出直し、迷い、躊躇した。本作の、名もなき語り手による語りもその不確かな歩みに変わりはない。けれどもここまで来ても、語り手は遂に迷路の外には出られない。おそらく彼は袋小路にぶつかっている。

語り手はひたすらにおしゃべりを続ける。本作は前半の一部を除いて全篇改行なしでえんえん続く語り手による語りで成っている。そこで語られる内容について事細かに点検していく必要は(少なくとも一般の読者にとっては)ないだろう。前二作で見られたベケット節だ。語りの錯綜、曖昧さ、不明瞭さ。逡巡、訂正。それらは読者を煙に巻く装置ではなく、作者ベケットの、言葉=語ること=書くことの意味を探求する精神の誠実さの表れであり、本作においても健在だ。語り手の記憶力は頼りない。自分の身に起きたことだったのか、聞いた話だったのか、語るいまになって判然としない。それでも語り続けなくてはいかないことはわかる。なぜなら言葉があるから。言葉があるから、という事実だけが、語り手を前に進ませる理由になっている。同時に語り手が自らの語りを確認していく過程は、曖昧な彼の自己確認作業にもなっている。彼は、自分は何もない真っ暗な場所にいて、身体はない、というようなことを述べている。彼はいわば意識だけの存在ということだろう。しかし身体はなくてもまだしゃべることができる。名はついに明かされないし、自分がいる場所も、自分が生きているか死んでいるかさえ覚束ないというのに、それでも自分があるということだけはわかる。いいきれる。なぜなら語ることが可能だから。「われ語る、ゆえにわれあり」。ついに明確な像を結ばず、空へと消えていくような語り手の言葉の一切が、あるいはこの自己確認のためにのみ存在しているかのように思えなくもない。存在証明としての語り、発語。訳者はこう述べる。「もはや言葉はなにかを述べるためにあるのではなく、言葉それ自体のために発せられることになる。話者の存在論に言葉の存在論がとってかわる。見たところ同じことを際限もなく述べたてているようでありながら、その繰り返しの果てに、自己同一性の問題などはあるか彼方に置き去りにされ、主体も客体もない「灰色」の世界のなかに、おしゃべりのためのおしゃべりだけが続くのである」。199頁から200頁にかけての、言及によって無限増殖していくかのごとき圧倒的な饒舌。語られる内容はもはや問題とされない。形式さえ問われない。言葉がある、ただそれだけのこと。ただそれだけでいいこと(ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と同じことをしているようにも思えたが、スターンにはベケットのような言語をめぐる明確な問題意識はなかっただろう)。

「とにかくおれはしゃべらないわけにはいかないんだ。絶対に黙らないぞ。絶対に」。つまりはしゃべることを止めてしまえば、沈黙してしまえば、彼の存在が消滅してしまうということを意味するのだろうか。「彼ら」がいて、彼らの声が自分に反響してしゃべらせている、そういう謎めいた発言もしている。通常の意味での登場人物と異なる存在であることを示唆する発言もある。「ああ、彼らがはじめようとしてさえくれたら、おれを彼らの好きなものにしてくれたら、今度こそおれを好きなものにすることに成功してくれたら、おれはなんでも彼らの好きなものになるつもりさ、もうあきあきしたんだ、材料、材料、いつまでもむなしくいじりまわされるだけの材料であることに」。まるでまだ創作途上にある、未満の登場人物によるメタ的な発言のようには聞こえないだろうか。『マロウン』において、創作(神の模倣としての創造)の問題に焦点を当てたベケットだった。本作でさらに突き進んで、未満の登場人物に創作についての皮肉めいた発言(あるいは創作行為への懐疑の表明)をさせたとしても不思議はない。また、こういう点が、管理人には分かりにくいベケットのユーモアであるのかもしれない。モロイやマロウンをはじめとするベケットの過去作品の登場人物たちへの言及も、本作をメタ小説たらしめる要素になっている。ベケットの言葉をめぐる意識によって生まれた本作の語り手は、物語という「嘘」の意味を探る探偵の役割も果たす。彼はたびたび、自分の語ることは嘘だと言う。前二作を読んで本作に至った読者であれば、語り手にそう言われて、その「嘘だ」という発言そのものが嘘ではないのかと疑わずにはいられないだろう。言葉の表層ではなく裏の意味を探る癖がついている。そうして抜け出せない、懐疑の蟻地獄に自ら嵌っていく。言葉は発語した者に属すると同時に聞き手(読者)にも属する。解釈、誤解の余地は常に残されてある。そのことの自由と、そのことの恐ろしさを示すようでもある。

反復、言い違い、言い直し、憶測など、およそとりとめない言葉の連なりは、すべて語り手の自我の証明であり、確認作業だった。この「おしゃべりのためのおしゃべり」は、終盤で遂に沈黙の問題に逢着する。「こうやって沈黙が来るんだ、言葉がなくなり、ささやきだとか、遠い叫びだとかに満ちている沈黙、予想どおりの沈黙」。言葉による自己の存在証明。とすれば沈黙とは自己の消滅に他ならない。まだ言葉が残っているのなら抵抗しなくてはならない。「声が沈黙を破ることを期待するんだ」。以前の記事に「語ることは生きること」と書いた。意識だけの存在に生きるも死ぬもあるか。本作はそういうレベルの話になっている。言葉があるから発語する、言葉があるから発語を止すことはできない(言葉とは神である、という聖書の記述の重みは、管理人にはとうとう理解できないほどであるかもしれない)。発語とは他者への呼びかけでもある。他者に対する、自己の存在証明であるのだから止せるわけがない。歌えないかもしれない。たどたどしいかもしれない。頼りないかもしれない。どこまで行っても袋小路であるかもしれない。それでも止さない、言葉がある限りは。
続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉を言わなくちゃいけない、言葉があるかぎりは




4560043485名づけえぬもの
サミュエル ベケット Samuel Beckett
白水社 1995-08

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