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zoom RSS 『パウル・ツェラン ことばの光跡』 飯吉光夫

<<   作成日時 : 2013/09/30 00:00   >>

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ツェラン詩のガイドとして。

戦後世界最高の詩人といわれるパウル・ツェラン。彼の詩を日本にいち早く紹介したツェラン研究の第一人者による、約半世紀に亘るツェランをめぐる論考。さまざまな媒体に書かれた文章の集成であり、専門的な文章とエッセイふうの文章が混ざっていて、ツェランに多少興味があるという程度の一般読者が手に取ったとしても、十分に楽しみながら最後まで読め、読めばツェランの詩に向かいたくなる優れたガイドになっている。管理人がまさしくそういう読者だったので、本書を一晩かけて読み耽ったあと、かつて読んだ著者訳の『パウル・ツェラン詩文集』を再び開きたくなった。

ツェランは1920年に旧ルーマニア領内(現在のウクライナ共和国内)のユダヤ人家庭に生まれた。第二次世界大戦が勃発するとナチス・ドイツによるルーマニア占領によって、彼の両親は強制収容所に連行され、二人ともそこで死ぬ。ツェラン自身も強制労働に従事している。ツェランにとって肉親の死、ことに深く愛する母親の死の衝撃は大きく、この喪失によって精神に傷を負い、生涯癒されなかった。強制労働に従事している学生の頃から詩を書きはじめ、1948年、28歳のとき最初の詩集をウィーンで刊行(誤植が多かったためすぐに回収)。パリへ移り、大学で学びながら文学者たちと交流を深めていく。死の床にあった、シュルレアリスム詩人イヴァン・ゴルの見舞い、のち戦後第一の女性詩人といわれることになるインゲボルク・バッハマンとの出会い。その両方が未来のツェランを脅かすだろう。ゴル夫人による詩の盗作告発。ナチス党員の父親をもつオーストリア人バッハマンとの情事(この体験は詩「光冠」に表現されている)。32歳のとき、フランス人の版画家ジゼル・レストランジュと結婚、しかしバッハマンとの関係は続いていた。発症するようになった精神の病いは緩やかに悪化の一途を辿り、ひどいときには刃物を持ち出して妻子に向かうほどだった(貴族の家庭に生まれた妻ジゼルが、悪い意味で夫を甘やかしたために彼の病いが進んだ、と著者は見ている)。困難のなか絶えず詩作は続けられ、数々の文学賞を受賞。精神病院の入退院を繰り返し、最後はセーヌ川へと飛び込む。50年の生涯だった。

その文学についてより先にツェランの生涯についてざっと述べたのは、彼の文学が深くその生の刻印を押されているからだ。彼の詩作の根源には、強制収容所で愛する人たち――とくに母親――を失ったことの悲しみ、悼み、そして恨みがある。彼にとって詩とは、創ることでそのなかに死者たちを甦らせ再会するための、そして可能ならば合一するための手段だった。彼の詩には、「あなた」と女らしき相手に呼びかける詩が少なくない。その「あなた」は殆どの場合、母親を指していると著者は述べている。
彼の詩は<du>(あなた)ということばを追って行き、その際追って行く<ich>(わたし)は生身のわたしと切り離せないものであり、しかもその<du>に<ich>が追いついたとき、それは彼岸のあなたとの合体となって、詩人としてのツェランとともども彼の生身をも拉し去ってしまったように思われる。


ツェランは詩を書くことに法外な望みをかけていた。それは、ひとことでいって、詩作によって死者にたどり着きたいという望みだった。この望みの実現のためには、言葉にその最大限の力を発揮させなければならないというのが彼の考えだった。もちろんこの場合の力には、言霊としての力というほどの意味も含まれる。


ツェランを読むことは、ナチス・ドイツの暴虐について読むことを(そのすべてではないにせよ)意味している。思えば不思議だ。詩を読みたいのに、強制収容所についてを読まねばならないというのは。ということは、彼の詩は彼の記録文書であるということだろうか。同じくユダヤ系の作家にして、ツェランが愛読していたカフカが、「文学とはすべて記録文書である」と喝破したように。
「死のフーガ」はツェランの詩篇中最も有名なもので、戦後ドイツ詩中随一のものとしてよく引き合いに出されるものである。例外のない解釈は、この詩を戦時中のユダヤ人強制収容所(ツェラン自身は強制収容所ではなく強制労働に従事させられていた)の光景と見ることである。しかし、一篇の詩と、その詩のなかに直接には言及されていない歴史的事実とを結びつけて読む行為は、実は、詩を読む行為のルール違反ではあるまいか?
(中略)彼の詩の多くはそのような芸術的反則の上に成り立っている。


特殊な経験である。国境を、時代を越えて普遍性を得られる詩なのだろうか。彼を戦後世界最高の詩人として扱う風潮をどう捉えればいいのか。個人的体験を極めれば普遍に転じるという、あの普遍的独自の原理が彼の詩に作用しているのだろうか。しかし彼が舐めた歴史的な辛酸と悲痛は特殊なものだったとしても、その悲痛、その喪失感はもしかしたら彼のした体験よりは多くの人々に訴えるところがあるのかもしれない。われわれはみな、歴史という大河の上に浮かんだ小船のごとき生を生きている。荒れれば翻弄される。抗えない。抗いの声を上げるのが精一杯で。ツェランの詩とはまさしくそういう声だった。彼にとっては、たとえ戦争が終結したとしても戦後は訪れなかった。どうしてか。愛する人たちは戻ってこないから。
ウクライナは緑、でもぼくの母は帰って来ない

その苦痛を体験してしまった者には、決して終わりなどありえないということ。だから、1970年に亡くなった彼の詩が同時代性をもって現在においても読まれているのだとしたら、それは喜ぶべきことではないのかもしれない。世界は彼の死後も、やはり悲しい場所であり続けているか。二年前の春を、あの春の午後を、われわれは決して忘れられない。
涙。
兄弟の目にやどる涙。
その一粒は流れ落ちようとしなかった、ふくらんだ。
私たちはその中に住んでいる。
息をしろ、
その涙がはじけるように。

「声たち」


しかし詩人としてはともかく、人間としてのツェランというのはずいぶんと困った人だったようだ。妻子への刃傷沙汰や、インゲボルク・バッハマンとの不倫(しかも小心翼々たる、情けない付き合い方)。不倫相手はバッハマン以外にもいたようで、このあたりの事情には、戦中に青春期を過ごした人間特有の、荒廃した性観念があったというようなことを著者は書いているが、そうなのかどうか。不倫を知った妻ジゼルを加えての三角関係は修羅場であり、病いや弱さに沈んだ人間がその原因のために更なる泥沼に溺れていくさまを見るようで慄然とする。ツェランの精神病の根本はむろん強制収容所で肉親を失った体験なのだが、イヴァン・ゴル夫人によるいわれなき詩の盗作告発もかなり堪えたらしい(著者と親交のあるツェランの家族は、こちらこそが自殺の原因だったと見ている)。身に覚えのないことであれば、大抵の人間は一蹴するか無視を決め込んでそれきりだろうに、それを引きずってしまうツェランにナイーブさを見るべきなのか。精神の病いは当事者以外には見えないしわからないものではある。
ツェランにとっては不快事の“忘却”が何よりの救済策だったはずである。しかし、詩作は彼にとって過去をたえずくり返すことだった。そこでは古傷がたえず掘り返され、度重なる病院での治療も彼には何の救済ももたらさなかった。

ヴァージニア・ウルフ(彼女も母親の不在に葛藤した)とも通じる、病いと創作のジレンマ。狂気と紙一重の、病者の文学。

ドイツ文学者、ツェランの翻訳者としてのツェラン詩の解説があるが、納得できない、腑に落ちない謎、空白は尽きない(管理人の力不足もある)。そういう専門的な文章よりも、エッセイふうの文章のほうが読んで楽しく、何度でも繰り返し読みたくなった。とくに、ツェラン夫人ジゼル(本書の表紙は彼女の作品)との交流をめぐる回想はどれも彼女へのいたわりに満ちていて温かい気持になる。アンリ・ミショーの住所を聞こうと訪問したガリマール社の受付わきに、「ハゲ頭のいかにも守衛然とした男」がいたので取り次ぎを頼んだら編集者が飛び出してきて、社を出てすぐに、あの「ハゲ頭」はミシェル・フーコーだったと気づいたというエピソードは可笑しかった。


4560082944パウル・ツェラン: ことばの光跡
飯吉 光夫
白水社 2013-07-27

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