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zoom RSS 『長編小説と散文集』 ローベルト・ヴァルザー

<<   作成日時 : 2013/10/16 00:00   >>

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小さき者へ。

「ローベルト・ヴァルザー作品集」の3巻。「ヤーコプ・フォン・グンテン」と「フリッツ・コハーの作文集」の二篇を収録する。

「ヤーコプ・フォン・グンテン」の語り手ヤーコプ少年は「召使い学校」ベンヤメンタ学院の寄宿生だ。学院の生徒たちが学ぶことは少ない。「男子はいかにふるまうべきか」、全授業はこの問題をめぐって繰り返される。教師は二人、学院長のベンヤメンタとその妹リーザ。歴史や数学や語学の教師たちは「眠り込んでいるか死んでしまったのか、あるいはたんに仮死状態なのか、さもなければ石と化したのか」、生徒たちのまえに現れない。ベンヤメンタとリーザが教師として何を生徒たちに教えているのか判然としない。小説を読むかぎりでは、彼ら兄妹は生徒たちと他愛ないおしゃべりをしているに過ぎない。ヤーコプは州議会議員の息子だという(彼は自らの境遇を誇らしげに語る)。恵まれた境遇の彼が召使い学校に入学したのは「自分自身を教育するため」という抽象的な目的であり、殆ど謎といっていい。物語は、ベンヤメンタ学院に入学したヤーコプが、教師の兄妹や生徒たちと交わり、けれども当初の目的もむなしく何ら成長・変化を遂げないうちに学院に破局が訪れ、ベンヤメンタとともに一切を捨ててあてのない旅に出る、というもの。本作以前のヴァルザー作品同様、筋の展開は緩やかで、交わされる会話は上機嫌でありながら不安な、あるいは悲哀のトーンを孕んでいる。

本作はヴァルザー自身がベルリンの「召使い学校」に通った経験をもとにしている。内容を要約すれば、『タンナー兄弟姉妹』同様の「アンチ教養小説」といえるだろう。ヤーコプは「自分自身を教育するため」ベンヤメンタ学院に来たというが、将来の夢は「まんまるの零になる」ことだという。零というのは何ももたないというほどの意味か。小説の終わりにおける彼の出発は、すべてを捨てての巡礼の旅立ちであるようにも見える。ヴァルザーは通常の意味で用いられる偉大さを拒否した作家だった。彼は、大きくなるのではなく小さいままであろうとした。低いところにい続けようとした。そういう彼の価値観が、本作にはよく表れている。
成功なんてものは、払い落とせない付随物として、支離滅裂と安っぽい世界観しかもたらさない。成功と賞賛を誇る人々がいれば、すぐに気づくものだ。彼らはいわば満腹の自己満足でぶくぶく太り、虚栄心のエネルギーで風船みたいに膨らんで、もう誰だかわからないほどだ。神よ、一人のけなげな人間を世間の人たちの賞賛から護りたまえ。


僕はぜったいに、ぜったいに偉大な人物になどならない。そのことがあらかじめはっきりわかっていることに風変わりな満足感を抱いて、僕は身震いしてしまう。


僕は自分が下から、いちばん下からスタートしたばかりの一族の末裔であるということ、しかも上に昇るのに必要な特性を持っていないということを決して忘れないでおこう。もしかしたら忘れるかもしれないが。何でも可能性はある、でも栄光と結びついた幸福をいかにも本物だと自分に思わせるような虚しい時間があるとは思えない。


自分を尊重すべきもの、価値あるものだと見なさずにすんで僕はなんて幸せなんだろう! 小さく、そのまま小さいままでいるのだ。ひとつの手や状況や波が、権力や影響力の支配する場所まで僕を引き上げたり持ち上げたりすれば、僕は自分を優遇していた境遇を打ち破り、地の底の無言の暗闇に向かって自分を投げ込むだろう。僕は下層圏でしか息をすることができないのだ。


知識や技能を自身に加えていくこと、プラスしていくこと、それが学習であり、教育であるだろう。そうした知識・技能は、たとえば社会的に成功すること、そこまでいわずとも何らかの職業に就いて働く際の価値となりうる。けれどもヤーコプは零になることを目指しているのだった。だから何も足されなくていい、引かれなくていい。ヤーコプのこの価値観は、おそらくは著者自身のそれだった。ヴァルザーは汚い界隈に住み、家賃すら払えない極貧の暮らしを経験しておきながら、銀行の事務員になって高給が得られるようになると、不如意だった過去などなかったかのように贅沢を満喫して、やがてまた仕事を辞めてしまうという「のらくらもの」だった。作品に共通する、上機嫌な、楽観的なトーンは彼の気質の反映と見ていい。本作では語り手のヤーコプがまさしく「おふざけ」好きな人物として設定されている。彼とは反対に真面目で勤勉なクラウスという同級生が登場するのは、著者が自身を客観的に眺め測ろうとした結果だろうか。現実は世知辛い、だからこそ彼は怠惰を称揚した。
ぼくの人生の浮き沈みは
なんと奇妙なものだろう
せっかく自分に手招きしてくれるものがあっても、
いつもぼくは自分がそこから抜け出て、漂い出すのを見る。

「哲学的すぎる」


「ローベルト・ヴァルザー作品集」は刊行された4巻すべて読んでいる。そのなかで本作はもっとも曖昧であり、そのために精彩を欠いているように思われる。『タンナー兄弟姉妹』や『助手』と比較すると、だらだらしすぎてしまりがない。ゆったりとした作風はヴァルザー文学の特徴であるけれども、それにしても本作は度を過ぎている。前半で幾人かのクラスメイトの人物を紹介しておきながら、クラウス一人を除いて殆ど筋に絡まないのでは何のための紹介だったのか、構成は歪だ。また、これまでの作品に見られた熱狂的な自然賛美が殆どないのも不満としてある。都会が舞台の本作の語り手は、自然などなくてもいいと述べる。ヴァルザー文学における自然との交感の高揚に魅力を感じてきた読者としては少々寂しい。自然との交感がなくなった代わりに語り手の内面的な叙述が以前よりも目立っている。

いつか「まんまるの零」になることを予感している語り手は思考を嫌う。「議論やら理解やら知識によって、生きる気力が人類から失われてゆく」。「神は思考しない者たちとともに行く」。思考すなわち自我の放棄による安らぎへの道、ここではないどこかへの憧れ。
僕が粉々に砕けて破滅したとして、いったい何が壊れて破滅するというのだろう? 零だ。僕個人はたんなる一つの零にすぎない。でももうペンを置こう。思考生活はもうやめだ。ベンヤメンタ先生と一緒に砂漠に行くのだ。荒野でも生きて呼吸して存在し、ちゃんと善を望んで実行し、夜には眠って夢を見ることができないものか、見てみたい。ああ、もうこれ以上何も考えたくない。


一度目の読書では読み終えても漠然とした印象しか残らず、今回少し間を置いてから再読してみたものの、ヘッセやカフカが認めた本作のよさは結局わからずじまいだった。難解だというのではない。ただ、内容をあとから反芻しようとしてもできない、掬おうとすると零れ落ちていく、そういうもどかしさが募る小説であり、ある意味稀有な作品といってもいい。「どの文章もその前の文章を忘れさせるという役目しかもっていない」というベンヤミンによるヴァルザー評が思い出される。本作にはほかのヴァルザー作品に顕著な不思議な幸福感は薄く、悲哀の色が濃い。1909年の発表当時、読者から戸惑いや奇異をもって迎えられ、結果本作によってヴァルザーは作家として生きる道を閉ざされることになったとされる。

「フリッツ・コハーの作文集」はヴァルザー的小品の嚆矢。のちに彼が書いた数々の優れた小品をすでに読んでいる読者としては感心するところは少ない。



4862654061ローベルト・ヴァルザー作品集3: 長編小説と散文集
ローベルト・ヴァルザー 若林 恵
鳥影社 2013-05-31

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
20年くらい前に「ベンヤメンタ学院」という映画を見たことがありますが、これが原作なのでしょうね。自分を召使に例えるという心理状態は分りますか?
Bianca
URL
2013/11/08 18:54

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