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zoom RSS 『カフカ寓話集』 池内紀編訳

<<   作成日時 : 2013/10/26 00:00   >>

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寓意の問題。

本書には全部で30の短篇が収録されている。このうち比較的有名なのは「巣穴」「断食芸人」「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」だろうか。「巣穴」は「カフカ的」といわれるような不安が主題の物語で、もぐらもどきか、もぐら人間か、そういう存在が自身の地中生活を述べていく(後段で少し考えてみたい)。「断食芸人」は、いまは廃れた断食芸の達人が、自分を忘れ去った人々を寂しく思いながら芸を極める。檻のなかに入ったまま、40日を遥かに越え、誰も覚えていないほどの長いあいだ何の食事もとらずにいたところで偶然発見され、雇い主は死にかけた彼に、なぜ食事をしないのかと問う。すると芸人は、口に合うものがなかっただけだ、合うものがあれば腹いっぱい食っていただろうと答えて息を引き取る。本人の望みを別にして、そうするしかない星のもとに生まれたことの苦味を、悲哀とユーモアをこめて描いている。「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」は、二十日鼠族の歌姫ヨゼフィーネにまつわる物語。一族はこれまで歌に価値を置いてこなかったしいまでもそうなので、歌姫というのは限りなくヨゼフィーネの自称に近い(一応取り巻きはいる)。彼女の歌は要するにチュウチュウ鳴いているだけで、ほかの鼠がやるチュウチュウと変わりない。疲れると喉の調子に差し支えるといって労働を避けようとしているが、調子のいかんを問わずコンサートをやればいつもどおりのチュウチュウであって聴衆には違いがわからない。いっぱしにコロラトゥーラがどうしたこうしたというが、それをやってもやらなくてもやはり聴衆には違いがわからない、彼女自身もわかっているのかどうか。一族から愛されてきたヨゼフィーネだが、それは彼女の可憐さゆえのこと、彼女の歌の価値ゆえではない(そもそも彼女自身が音楽について何を知っているのやら非常に怪しい)。最終的に彼女は姿をくらまし、一族は再び歌のない生活に戻っていく、とくに残念がることなしに。『カフカ短篇集』の記事に、ひそかに内心期するところのあった、いわば野心家としてのカフカについて述べたけれども、まさしく彼の矜持が鼠の歌姫にこめられてあるのだろう。カフカの死の年に書かれた最後の短篇である。

「巣穴」について少し述べる。語り手は地面に穴を掘ってそこを塒にしている。彼の特徴を叙述から読み取っていくと、「爪がある」「爪で地面を掘る」「掘った穴で暮らす」「掘った面を固めるのに額を使う」「肉を食う」「毛皮がある」「口もとにヒゲがある」とある。カフカは動物(自身の想像が生んだ奇妙な生物を含め)が登場する物語を多く書いている。これもその類でさしずめはもぐら、けれどももぐらの主食は昆虫であって肉ではない。一人称小説なのでメタ的に見れば彼は思考(叙述)をしているわけで、「オドラデク」や「雑種」よりも、『変身』の虫や「ある学会報告」の(元?)猿に近い。もぐらもどき、あるいはもぐら人間と仮に呼んだ所以である。このもぐらもどき、若いころから長い年月をかけて理想ともいうべき巣穴を遂に完成させた。食料を備蓄し、広場もある。外敵の侵入を防ぐ迷路の構造もある。あるとき、どこからか奇妙な物音が聞こえてくる。水の流れるような音、しかしこの近くに地下水は流れていない。一人暮らしの静寂を破られて頗る気分が悪い。隣人だろうか、それとも、まさか敵なのか。気のせいなのか。耳のなかを流れる血の流れが、静寂のなかで音を伝えるだけか。いや、やはり幻聴ではない、音がする。しかも微妙に大きくなりつつあるように思える。つまりは接近している。もし敵であれば攻撃されるかもしれない。これまでずっと理想の巣穴を作ることに心血を注いできた。生涯を賭けた大仕事であって、だからこそ自分の仕事の欠陥もよくわかっている。思えば巣穴は防御の面をおろそかにしてきた。今日までの年月はただ幸運に恵まれていただけのこと、それを当然と錯覚して状況に甘えてきた。敵の襲来が予感されるようになったいま、油断が悔やまれてならない。恐怖が突き上げてくる。ただちに取りかかるべきは巣穴の防御を整えること。見えない敵は見える敵以上にいっそう怖ろしい。気づけば恐怖のあまり混乱しかけている。
計画が急にわからなくなった。自分に少なからずそなわっている理性に照らしても、作業中止、聴き耳をたてるのも中止、これ以上のよからぬ発見は願い下げ。もう十分によけいなことに気を配ってきた。何もかもうっちゃって、気持をなだめることで満足しよう。
またもやフラフラと通路から離れ、ずっと奥の、もどってきてから一度も足を踏み入れていなくて、そのため、いまだまったく手つかずのところへ入りこんだ。静けさが目覚め、そして自分の上に沈みこむぐあいである。だが、やはり落ち着かない。いそいで腰を上げた。何を探しているのか、当の自分にもさっぱりわからない。おそらく、ただ時を引きのばしているだけだろう。


恐慌状態に陥ったとき、人は硬直する。石化する。身動きできずに立ち竦む。考えているつもりで実際には頭のなかは真っ白で、時間の感覚すら失っている。このあたりの心理の機微が、上の引用部分にはよく表現されてある。見えない存在というのがよくない。敵か、そうでないか判断できないから、徒に妄想だけが膨らんでいく。
土の中にもぐっていると、何だって夢見ていられる。話し合いも夢の一つである。しかし、自分でもよく承知しているのだが、決して話し合いにはならないだろう。顔を合わせた瞬間、いや、ま近に感じたときすでに、われ知らず、またわれが先ともかれが先ともつかず、たとえ腹が一杯のときでも燃えるような食欲をもって、たがいに爪を立てあい、烈しく噛みつき合っているはずである。


妄想が昂じてしまえば、真の敵は音を立てている未知の獣なのか、語り手の妄想それ自体ではないのか、判然としなくなる。おそらくは後者であって、だから人は恐怖に駆られたとき過ちを犯しやすい。地中は暗い。そこに聞こえるか聞こえないかの音が響いてくるというシチュエーションの気味悪さ、それをきっかけに、自分の心という、出口のない「穴」のなかに迷い込んで行くことの恐ろしさ。「巣穴」が未完なのも肯ける。この、徴候から無限に不安を募らせていくような物語にふさわしい終わりかたがあるとすれば、それは終わらせないことしかありえないと思えるから。


以前、久しぶりにカフカの長篇三作を読みたくなって、『失踪者』と『審判』までは読めたものの、『城』は「アマーリアの告白」あたりで挫折した。『変身』は別格として、カフカの長篇がいいものかどうか、管理人にはよくわからない。好悪でいえば、いまはあまり好まない。退屈なのだ。カフカは短篇にこそ、余韻を残すすぐれたものがたくさんある、と思っている(「長々と続く叙事的連関はわたしをいわば苛立たせるようになった」――ローベルト・ヴァルザー)。池内紀さんの暗示に富むような翻訳の文体のよさが短篇でより際立つという理由もあるかもしれない。池内訳カフカを問題ありとする声があるのは知っている。けれども、ほかの方が訳したカフカを読んでも読みにくく感じてしまうのは、初めて白水社の「カフカ小説全集」を読んだとき――たぶん10年以上まえ――から現在まで変わらない(『城』のリーダビリティは衝撃的だった)。短く切られてテンポのよいセンテンス、朗読されることを意識しているような調子、ときに古風な言い回し、ユーモアへの目配せ、男言葉を話す女性の登場人物たちの可笑しさ(「〜だわ」なんて不自然な話し方をする女は池内訳カフカに登場しない)。いま手許にちくま文庫の「カフカ・セレクション」の3巻があるので参考までに池内訳と比較してみると、

歌姫の名前はヨゼフィーネ。彼女が歌うのを聞いたことがなければ歌の力がわかるまい。歌に心を奪われない者はひとりもいない。われわれの一族が概して音楽にうといことを考えると、これはなおのこと大したことだ。もの静かな安らぎこそわれわれの楽音というものである。生活は厳しい。たとえ日々の悩みすべてを振りすてようとも、もともと縁遠い音楽などに慕い寄るなど思いもよらぬ。だからといって嘆いたりはしない。とりたてて嘆くまでにいたらない。ある種実用的なずる賢さといったものをぜひとも必要としており、それこそわれらが最大の強みと考えている。そしてこのずる賢さが浮かべる微笑でもって、たとえ音楽から生まれてくるかもしれない幸せを求めるなんてことになるとしても――そんなことは決してありえないことなのだが――すべてにわたって超然としていられるというわけだ。ひとりヨゼフィーネだけが例外である。

「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」 池内紀訳


われわれの歌姫は名をヨゼフィーネという。彼女が歌うのを聞いたことのない者には、その歌の力はわからない。彼女の歌に心を奪われない者はひとりもいないのだ。われわれの種族が総じて音楽を好まないだけに、このことはいっそう高く評価されねばならない。もの静かな平安こそが、われわれには最も好ましい音楽なのである。われわれの生活は困難なものだ。かりにいつか、日々の心配事をすべて振り払ってしまおうとしたところで、われわれの心は、そうした、音楽のようにわれわれの普段の生活から遠く離れたものへと高まってゆくことは、もはやできないのだ。だがわれわれは、そのことをひどく嘆きはしない。嘆くというところにまで至ることすらない。ある種の、実際の役に立つずる賢さ、それをわれわれはもちろんさし迫って必要としてもいるのだが、このずる賢さこそ自分たちの最大の長所なのだとわれわれは思っており、われわれはこのずる賢さの微笑みを浮かべてわが身を慰め、すべてのことを忘れるのだ。たとえいつの日かわれわれが、――といっても、こんなことなど起こるわけがないのだが――音楽から生じきたるのかもしれない幸福を願望することになるとしても。ただヨゼフィーネだけが例外なのである。

「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」 浅井健二郎訳


分量を比較すると池内訳のほうが随分少ない。主語の省略が目立つ。読点が少なく、一気読みするのに適している。「のだ」「のである」というしつこくなりがちな結びは浅井訳にあって池内訳には見当たらない。「生活は厳しい」と「われわれの生活は困難なものだ」という一文のテンポの違い。とはいえ、以上はすべて管理人の嗜好の問題であり、他人にとやかく言う気は毛頭ない。その代わり言われる気もないのは、ことが愛情の問題だからだ。愛に理屈は要らない。というよりも愛は理屈を越えてしまう。読者各人が好きなカフカ(の翻訳)に向かえばいい。そうして互いの好みを尊重し合えばいい。



4003243846カフカ寓話集 (岩波文庫)
カフカ 池内 紀
岩波書店 1998-01-16

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4480424539カフカ・セレクション〈3〉異形/寓意 (ちくま文庫)
フランツ カフカ 平野 嘉彦
筑摩書房 2008-11-10

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