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zoom RSS 『道徳の系譜学』 ニーチェ

<<   作成日時 : 2013/11/19 00:00   >>

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道徳の価値。

善悪の彼岸』は『ツァラトゥストラ』の注釈書として書かれた。その『善悪の彼岸』の補遺として書かれたのが本書『道徳の系譜学』だ。「論文など書かない」といったニーチェにしては珍しく断章形式ではなく論文形式で書かれており論旨を追いやすい。収録されているのは「「善と悪」と「良いと悪い」」、「「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題」、「禁欲の理想の意味するもの」の三論文。それらは西洋近代社会を規定するキリスト教道徳の是非を問うている。

第一論文「「善と悪」と「良いと悪い」」。
「良い」という語の語源には、古代の人間が自らを貴族的な、高い位階の者であると考えていたと思われるニュアンスがある。つまり強いことは良いことだった。古代において貴族的な人間は、殆どの場合、力において優位に立っていることに基いて自身を名づけた(たとえば「アーリア」はサンスクリット語で「高貴な」という意味がある)。時代が移って次第に貴族が没落していくと、「高貴な」という語は社会的な高貴さではなく精神的なそれをさす意味へと変化し(ニーチェはさらに、「神のような人」を意味するドイツ語「グート(良い)」がゴート族の由来となったのではないかと推測している)、やがて登場するユダヤ教の司牧者に引き継がれ、(貴族の)戦士的な高貴さと(司牧者的)の精神的な高貴さとの衝突を生んだ。戦士の高貴さとは肉体の力強さや健やかさだった。これに対して司牧者は自らの精神的な高貴さを証するために、戦士が好む冒険や戦争などの暴力的なもの一切を否定した。ユダヤ人たちはそれまでの貴族的な価値観を転倒させ、「惨めな者、貧しき者、無力な者、病める者こそ善良であり、敬虔であり、浄福はこの者たちにのみ与えられる」と説き、その反対の高貴な者(力を振るう者)たちは、「残忍な者であり、欲望に駆られる者であり、神に背いている」と呪った。いわば宗教を隠れ蓑に、社会的に虐げられた者たちの「底なしの憎悪」がぶちまけられた。彼らの怨念はあまりに強かったから、イエスの磔刑すら、巧妙に仕組まれたユダヤ人の復讐ではなかったかとニーチェは疑う。遥か未来、ルサンチマン(怨恨感情)の宗教であるキリスト教に全世界を支配させるためにイエスをあえて十字架にかけたのではないかと(イエスが無惨に殺されたからキリスト教は生まれた)。道徳とは肯定的な価値評価でなくてはならない。「〜してはならない」という否定的な価値評価は生を貧しくする。虐げられた民族は自分たちを虐げる者たちに(精神的に)復讐するために彼らを「悪人」と呼び、その対立概念として自分たちを「善人」と呼ぶようになった。これが善悪の起源である。
抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者は、無力な者の復讐のための狡知から、次のように自分に言い聞かせて、みずからを慰めるものだ。「われわれは悪人とは違う者に、すなわち善人になろう! 善人とは暴力を加えない者であり、他人を攻撃しない者であり、報復しない者であり、復讐は神に委ねる者であり、われわれのように隠れている者であり、すべての悪を避け、人生にそれほど多くを求めない者である。われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである」。――しかしこの言葉を先入見なしに冷静に聞いてみれば、そもそも次のように言っているにすぎない。「われわれのように弱い者は、どうしても弱いのだ。われわれは、それを為すだけの強さをもたないことは何もしないほうがよいのだ」。

彼らは「報復することのない無力さを「善意」に仕立て、不安に満ちた下劣さを「謙遜」に、憎む相手に屈従することを「従順さ」に仕立てている」。西欧において千年におよぶ善悪の価値をめぐる戦いとは、畢竟ローマ対ユダヤという図式に置き換えられる。力を信じる者たちと虐げられた者たちと。ローマはユダヤ人のうちに「反自然そのもの」が潜んでおり、彼らを「人類敵視の罪と結びつけられた人々」と見ていた。ユダヤ人のほうではローマへの怨恨を「ヨハネ黙示録」において爆発させた。この戦いは現在のところユダヤの側が勝利を収めている。

第二論文「「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題」。
人類は時の経過ともに社会を形成していった。社会とは人と人が交わる場であり、交流(取引など)していくうちに、人は約束を守るということを学び、やがて責任をもつということに価値を置くようになる。責任の意識があることすなわち意志の強さであり、やがてこれは良心と呼ばれて社会契約の基礎となる。社会の成立は、債権者と債務者(主人と奴隷や強者と弱者といってもいい)を生んだ。債務者は時に契約を違反し、社会における危険分子になった。彼らから成員の安全を確保するために法律が発明され、刑罰が誕生する。生とは、ニーチェによれば「基本的な機能としては傷つけるもの、暴力を振るうもの、搾取するもの、破壊するもの」であり、すべての生命はより強く、より大きくなろうとする「力への意志」をもっている。刑罰は生命の本性であるこの意志を抑圧することにつながるので、執行したところで人間を「より善く」する効果は期待できない。のみならず、むしろより悪くさえしかねない。「罰することで達成できるのはほぼ、恐怖心を強めること、悪賢さを助長すること、欲望を制御させることにある」。本性である「力への意志」は社会や平和のうちに拘束され、封じられてしまった。戦争、漂泊、冒険を求める心はいまや秩序を乱す悪とされる。行き場をなくしたエネルギーは内面へと向かう。そこから「疚しい良心」が生じる。
内面的な存在になり、みずからのうちに追い込まれた動物である人間、飼いならす目的で「国家」のうちに監禁された動物である人間は、自己を拷問しようとする意志をもち、残酷さをみずからに向け直したのだった。<苦しめようとする意志>にはいかなる自然な抜け道もふさがっていたために、人間は自分を苦しめんががために疚しい良心というものを発明したのである。――この疚しい良心の人間は、みずからに向けた拷問を、忌まわしいまでに過酷で鋭いものとするために、宗教的な前提を活用したのだった。それは人間が神にたいして負債があるという考えである。この思想は人間を拷問にかけるための道具になったのだった。


古代ギリシア人たちは、わが身から「疚しい良心」を遠ざけるために神々を利用してきた(たとえば『イリアス』冒頭のアガメムノンのように、彼らは過ちを犯すと原因を神のせいにしてしまう)。彼らはキリスト教とは逆の方向に神々を利用したのだった。過ちを自分ではなく神のせいとすることで罪悪感と無縁になれる。結果、彼らはいつまでも健康で、明朗で、「子供」(『ツァラトゥストラ』における人間三様の変化――駱駝、獅子、幼児)でいられた。ギリシアの神々が、人間を深刻にするような「罪を引き受け」てくれたから。『喜ばしき知恵』のなかにこんな空想がある。キリスト教の道徳を、もし古代ギリシア人たちに説いたなら彼らはどんな反応をするだろうか――笑いだすか、怒りだすかするだろう、そしてこう言うだろう――「奴隷ならそう感じるかもしれない」。
人間はあまりにも「意地の悪いまなざし」で自分の自然の性向を眺め続けてきた。生を抑圧するこの意識からもう自由になっていいのではないか。大いなる健康を取り戻すべきときが来たのではないか。そのためには「戦争と勝利によって鍛えられている精神」、「征服と冒険と危険と苦痛を必要不可欠なものとしている精神」が必要になるだろう。

第三論文「禁欲の理想の意味するもの」。
民族の混淆、移住、老化と疲労、そうした原因から、ある時期に地上の特定の場所で、生理学的な抑圧感が社会に蔓延することがある。人々は生理学的な知識の欠如から、原因や治療法を生理学的なものではなく心理学的なものに、道徳的なものに求めてしまい、治療が試みられるようになる――これが宗教の起源である(本当は魂が苦しんでいるのではなくて胃袋が消化不良を起こしているのかもしれない)。人々は自分たちを襲う圧倒的な不快感を克服するために生の感情を低い水準まで下げ、いかなる意欲も願望も抱かないような無気力状態に沈み込む。この、一種の睡眠状態を「無我」や「解脱」と呼ぶ。キリスト教が聖者と呼ぶ人々が、飢餓や打擲によって恍惚境へと至るのも生理学的には同様の状態であり、人々は救いを求める心から、これを聖性と錯覚して鬱状態からの解放を得たのだった。いわば催眠術による(苦痛)感覚の麻痺。しかし鬱状態に対抗するにはもっと手軽な方法もある。労働だ。「絶対的な規則正しさとか、考えることもなく几帳面に服従することとか、どこでも同じ生活方法を繰り返すこととか、時間を無駄なく利用することとか、「非人格性」、自己の忘却、<自己への無関心>」。信徒を率いる司牧者は巧みな言葉で労働は祝福だと人々を言いくるめる。もうひとつ、鬱状態に対抗する方法として慈善がある。他者に「隣人愛」を処方することは、処方する側に「ごくわずかな優越感(形を変えた「力への意志」)」を与える、この優越感がもたらす幸福感こそは、「生理的な調子の狂っている者たちが常用するもっとも贅沢な自己慰藉の方法なのである」。ローマ帝国の世界でキリスト教が誕生してきた当時には、相互扶助のためのさまざまな結社――貧者のための、病人のための、葬儀のための――が存在していたという。相互扶助によるささやかな喜びは結束することで意識的に培養される。弱い人々は集団の一員になって安心を得たいと望み、司牧者は彼らの望みを叶えてやる。強者ならば集団の一員となることに抵抗するが、弱者は進んで一員となりたがる、彼らは孤独が恐いから。生の感情の麻痺、機械的な労働、「隣人愛」の享受、群れの形成――司牧者はこれらに加えて、人々の「疚しい良心」が自己自身に向くよう誘導した。「なぜ」「何のために」と生に苦しむ人々がいたとして、司牧者はそれら苦悩の原因を「お前のうちに求めるべきだ」と人々に告げる。苦悩は刑罰を受けている状態だと考えるがよい、と。人間は自らを「罪人」として見、感じることを(強いられて)覚えた。「誰かが、自分には「負い目がある」とか「罪がある」と感じたとしても、そのことだけではその人がそう感じるのはもっともであることなど、まったく証明できない」にも関わらず。

罪の意識は人々を善良にしたかもしれない。しかし同時に彼らの苦しみを深くした。生理的な抑圧感に苦しんでいた病者が、もともとの病いに加えて神経系まで破壊されてしまった。結果どうなったか。
贖罪と救済の訓練として、すさまじい痙攣の流行が発生した。歴史において確認されているこうした流行の最大のものは、中世の聖ヴィトゥス舞踏病や聖ヨハネ舞踏病である。こうした訓練のその他の余波としては、おそるべき麻痺症と慢性の鬱病があげられる。これによってときには、一つの民族や都市の住民の気質の全体が正反対なものに変わってしまうこともある(ジュネーヴ、バーゼル)。――これには夢遊病にも似た魔女狩りの集団ヒステリーも含めることができるだろう(一五六四年から一六〇五年までの期間に、八回もこうした大流行が発生したのである)――。こうした訓練の結果としてはさらに、死を渇望する集団譫妄があるが、その「死よ万歳!」という恐ろしい叫びは、淫蕩な特異病質や破壊願望を孕んだ特異病質によってときおり中断されることはあっても、ヨーロッパの全土で聞かれたものである。


キリスト教が奉じる禁欲的な理想とその礼賛が招いた「災い」が西欧人の健康と活力に与えたダメージは、アルコールの害と並んで世界最大規模のものだろうとニーチェは述べる(次ぐ規模のものとして梅毒)。

あらゆる生命に備わっている「力への意志」。これを封じ込めるような禁欲的な生とは自己矛盾なのだ。食欲も性欲も権力欲も人間の本性としてあり、これを否定すれば生そのものを否定することになりかねない。なぜ人類はこのような誤った理想の真意を見破れないのか。禁欲的な理想が意味しているのは、
人間的なものへの憎悪であり、それにもまして動物的なものへの憎悪であり、物質的なものへの憎悪であり、官能と理性そのものへの嫌悪であり、幸福と美しいものへの恐怖であり、仮象、変化、生成、死、願望、欲求そのものから逃れようとする欲求である――これらのすべてについてあえて解釈してみれば、それは虚無への意志と解釈することができるだろう。これは生を否定する意志であり、生のもっとも根本的な前提となるものに反逆することである。しかしそれが一つの意志であることに変わりはないのだ!(中略)人間は何も意欲しないよりは、むしろ虚無を意欲することを望むものである……。

「虚無への意志」――それこそが西欧に蔓延するニヒリズムだった。

道徳の発生とその歴史的展開を要約すると次のようになるか。元来は、古代ギリシアの貴族(強者)たちが自分の力を発揮して行動することを善と考えていた。一方で、そうすることができない臆病な奴隷たちがいた。貴族たちが十全に自分の可能性を(ときに命を賭して)発揮する能動的・積極的な生を生きているのを見た奴隷たちは貴族たちを羨み、妬み、彼らのようにはなれない自分たちの運命にルサンチマンを抱いた。彼らはそういう自分たちを正当化するために、しかし自分たちのような抑圧された人々こそ善であり、貴族たちは自分たちを搾取する悪人であると考えて、ルサンチマンを晴らそうとした。宗教はその目的のための道具だった。結果、奴隷たちは本来の「良い」と「悪い」の概念を転倒させ、この逆転現象は現在まで続いている――。
ああ、「徳」という言葉は、彼らの口から発せられると、なんと不快な響きを帯びていることか! じじつ、彼らが、「わたしは正しい」と言うとき、それはいつも、「わたしの復讐心は満たされた」と言っているように響く。

『ツァラトゥストラ』 第二部「有徳者たちについて」


本書で展開されるキリスト教とキリスト教道徳への批判は苛烈を極める。これまでに読んだニーチェの著作中もっともわかりやすく書かれているので警戒する気持にもなる(わかりやすさとは単純化であり事態の誤解を生みやすい)。ただしニーチェが目指したのは人間の自己超克(その理想が「超人」と呼ばれる)であり、決して絶望や恨みを闇雲に撒き散らしたのではなかった。彼の願いは人間が喜びの心で生きるために「復讐から救済されること(脱ルサンチマン)」であって、そのための道徳批判だった。このことを見誤ってはいけないだろう。
人間があってよりこのかた、人間は喜ぶことがあまりに少なすぎた。それだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ!

『ツァラトゥストラ』 第二部「同情深い者たちについて」


人間が復讐から救済されること、これこそ、わたしにとって、最高の希望への橋であり、かずかずの長い暴風雨のあとのひとつの虹であるからだ。

『ツァラトゥストラ』 第二部「タラントゥラどもについて」



生の抑圧(の意識)が精神の病いを招くという図式は医学的に見てどの程度妥当なのか。素人考えとしては十分ありうることと思える。ニーチェ自身は、本書には憶測によっている部分もあると述べているが、彼自身の体験や予兆も織り込まれてあるのかもしれない。本書は『善悪の彼岸』よりも論旨が追いやすく、管理人が関心をもつ病いについての記述もあり、面白く読めた。『喜ばしき知恵』とともにニーチェ入門として適していると思う。


4334751857道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)
フリードリヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
光文社 2009-06-11

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本記事の『ツァラトゥストラ』の引用はこちらから。『ツァラトゥストラ』は哲学+文学な作品なので、生硬な訳文は通読するのに少しきつい。参考にするかしないかはともかく膨大な量の注が付されているのが特徴。
4480080791ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)
フリードリッヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
筑摩書房 1993-06

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