epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『ツァラトゥストラ』 ニーチェ

<<   作成日時 : 2013/12/01 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 1

生の舞踏。

異なる翻訳で再読。1881年、スイスのシルス・マリアに滞在していたニーチェは、シルヴァプラーナ湖畔の森を散策中に「永遠回帰」の啓示を受ける。本作はその告知を主題に据えて執筆された(全4部のうち3部まではどれも10日前後で書き上げたとニーチェは述べているが、これは彼らしい虚言であり実際は推敲が重ねられている)。先に結論を言ってしまうとニーチェは本作の最後まで遂に永遠回帰のなんたるかを明確化しえない。それはツァラトゥストラの言葉の端々から読者が読み取り解釈すべき思想として示されるにとどまる。永遠回帰のほかにも「神の死」、「超人」、「主人道徳と畜群道徳」といった人口に膾炙した思想への言及があるが、すべて飛躍やあいだを挟んでの反復など非連続な構成によって非体系的にしか説かれない。古典文献学から徹底的な読みの技法を学んだニーチェに倣って、丹念に目と指でもって読むことが読者に求められる。本作の内容を乱暴に一言で要約すれば「喜ばしき知恵」――一切を肯定して、喜びの心で生きるための知恵――の伝達といえるだろうか(この言葉で彼の思想を総括できる気がする)。過剰なまでの熱気とユーモア精神が充溢し、高揚したような文体が読者を酩酊へと誘う、「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書物」。大仰な構えは人によってはキッチュと思えるだろう。そういういかがわしさが本作にはある。

本作の主題であり、遂に明確に語られない永遠回帰思想。それについてツァラトゥストラはこう言っている。
そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか? おお、わたしの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは一切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。一切の諸事物は、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているのだ、――
――かつてそなたたちが、一度あった何事かの再来を欲したとすれば、かつてそなたたちが、「おまえはわたしの気に入る。幸福よ! 刹那よ! 瞬間よ!」と語ったとすれば、そなたたちは一切が帰って来ることを欲したことになるのだ!
――一切が改めて再来し、一切が永遠であり、一切が、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているような、おお、そういう世界をそなたたちは愛したことになるのだ、――
――そなたら、永遠的な者たちよ、そういう世界を永遠に、常に愛するがよい。そして、苦痛に対しても、そなたたちは語るがよい、過ぎ去れ、しかし帰って来い! と。というのは一切の快楽は――永遠を欲するからだ!

第四部「酔歌」

われわれの生は永遠の反復に支配されているのではないか。今日あったことの一切はかつてもあったことであり、未来においても繰り返されることではないのか――。永遠回帰は、ヘラクレイトスの万物流転やマイヤーのエネルギー保存則の影響があるとされる。この思想について、管理人が知るかぎりでも幾つかの解釈があることは『ニーチェ・セレクション』の記事ですでにふれた。管理人としては、その解釈が「ニーチェの嫌いな教養主義・道学者風の人生談義になってしまう」という批判があるのは承知のうえで、永遠回帰思想とは、「私たちが、もう一度生きようと欲し、しかも永遠にかく生きようと欲するような仕方で生きること」(遺稿)、神なき世で、各人が生の意味を創りながら、最良の瞬間も最悪の瞬間もともに肯定して力強く生きることだと捉えている(それは「運命愛」につながる生き方だろう)。「時間よ、止まれ。お前はあまりに美しいから」――そう言える至高の瞬間の創出を志して。読者は、自らにとってもっとも切実である部分を汲む読み方しかできない。有限な身体に束縛された人間が、完全な公正さで偏りなく物事を判断できるなどと考えるのは思い上がりでしかない。テクストを可能な限り虚心に読み、趣味(生理)に適う解釈を下し、必要とあれば修正を加えながら、解釈を実践して生きていく――少なくとも一般読者(アマチュア)がニーチェに向かう姿勢はこれでいいのではないだろうか。

各人は各人の趣味に従ってしか読めない。管理人にとってニーチェ思想の魅力は、陽気な軽やかさ、「舞踏の精神」にある。「わたしがかりに神を信じるとしても、それは、踊るすべを心得ている或る神に限られることであろう」。ニーチェはたびたび舞踏(者)という比喩を用いる。舞踏(者)とは「善悪の彼岸」に立つこと(立つ者)の象徴だろう。訳者は注で述べる。ニーチェが身体の動きを好んで表現するのは、彼が「西洋の近代哲学におけるいわゆる意識などよりも、身体のほうが、人間のより根源的な自己存在であると考えているからである。ただし、この身体は、意識あるいは精神と対立し、それから区別された意味での身体ではなく、ニーチェのいわゆる大いなる理性としての身体である」。精神と身体は密接に影響し合っている(精神の不調の原因は、睡眠・栄養・運動・リラックスの不足した生活に原因があるのかもしれない)。病気に悩まされ続けたニーチェならではの観点だろう。彼は、人間が生きるにあたって必要なものは高邁な思想主義的理念などでなく、自分に見合った「栄養」「土地と風土」「休養」等であり、これらを選択して、自分なりの必然性を、はっきりした「趣味」において生きることだと説いている(『この人を見よ』)。25歳でバーゼル大学の教授になるも、10年後に体調不調を理由に退職している。後になって、頭痛や吐き気などの病いは二次的なものであり、病根は、自分の本然に適っていない職に就いたことにあったと反省された。「自分のあるところのものになれ」――ピンダロスの詩句はニーチェのモットーだった。病いから(一時的に)癒えたことの賜物である『喜ばしき知恵』と同時期に書かれた本作には、身体の重要性を訴える箇所が多い。
わたしの兄弟たちよ、むしろ健康な身体の声に耳を傾けよ。これこそ、或るより正直な大地の意味について話すのだ。

第一部「身体を軽蔑する者たちについて」


――力強い魂から〔湧き出る我欲〕、こういう魂には高尚な身体が付きものなのだ、それをめぐって一切の事物が鏡となるような、美しい、勝ち誇った、さわやかな身体が、
――しなやかで説得力ある身体、つまり舞踏者が。自己享楽的な魂は、こういう舞踏者的身体の比喩にして精髄なのだ。こういう身体と魂との自己享楽は、それみずからを「徳」と呼ぶ。

第三部「三つの悪について」


まことに、わたしの兄弟たちよ、精神は一種の胃であるからだ!
生は快楽の泉である。しかし、その語るや、憂愁の父なる、だいなしになった胃が語るにほかならぬような者にとっては、一切の源泉は毒されているのだ!

第三部「新旧の諸板について」


かくて、われわれは、一度の舞踏も為されなかった日は、無為の日としよう! また、われわれは、一の哄笑も伴わなかった真理は、どれもこれも、にせの真理と呼ぼう!

第三部「新旧の諸板について」

何のために人は生きる。ニーチェ=ツァラトゥストラはこの問いを幾度もめぐることになる。神の国に至るため? 西欧はプラトンに遡って、ありもしない仮構の世界(背後世界)を理想世界として構築し続けてきた。それは結果的に現世の軽視につながった。なんという欺瞞だろう。人間が生きるのはひとつこの現世しかない、この大地しかわれわれの生きる場所はないというのに。もはやキリスト教の諸価値は無効になった。「神の死」後のニヒリズムが蔓延する世界で生きていくためには、各人が自らの生理と必然に従って各々の価値を創造していく以外にない。生きる意味はお前が創れ。そしてその意味は喜ばしきものであることが、笑いと舞踏を誘う軽やかなものであることが望ましい。
まことに、わたしは悩んでいる者たちにあれこれのことをしてやったことはしてやったが、わたしにはいつも、よりよく喜ぶことを学んだときに、よりよいことをしているように思われたのだ。
人間があってよりこのかた、人間は喜ぶことがあまりに少なすぎた。それだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ!

第三部「新旧の諸板について」


ツァラトゥストラは言う、人間の精神は三様あると。ひとつは、重い荷を背負ってそれに耐える駱駝。ひとつは、重荷から自由になって価値に戦いを挑む獅子。そしてひとつは、遊戯し肯定する子供。この三様の変化を、人間から「超人」へと至る道と見ることもできるだろう。駱駝は諸価値に束縛されている、獅子はその束縛を脱して自由を得る、そして子供は戯れながら新しい価値を創造する。ニーチェの「遊戯」の観念はヘラクレイトスを源泉として、「自由と必然との最深最高の統合を表示する」。三様の変化は、屈従―解放―超克という生の発展段階を示す比喩ととれる。

管理人は、ニーチェ思想の核心は「運命愛」にあると見る。起きたことはすべて必然として、自身がそれを望んだのだと意志せよ。ニーチェには、弱者や出来損ないはみな亡びよ、死にゆく者や老いていく者たちを突き放せ、切り捨てよ、といった異常なまでに生に固執する一面がある。優生思想やパワーエリート礼賛につながるような、自我の拡大、他者支配こそ生の本質と見る見方。しかし――これはほかの記事に書いたことの繰り返しになってしまうけれども――キリスト教批判も含め、そういう激烈さはすべて、「自殺を思うことは強力な慰めの手段である」と書くほどに苦しみ多かった彼の生涯と切り離しては考えられない。「血でもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう」――血でもって。この血とはまた涙の謂いでもあった。こうしたニーチェ理解はあるいは感傷的そして健康的に過ぎるかもしれない。それが管理人の趣味なのだろう。

人間における過ぎ去ったことを救済し、一切の「そうあった」を根本から造りかえて、ついに意志をして、「しかし、そうあることをわたしは欲したのだ! そうあることをわたしは欲するであろう――」と語るにいたらせること、
――これをわたしは彼らに向かって救済の名で呼んだ。これのみを救済の名で呼ぶよう、わたしは彼らに教えた。――

第三部「新旧の諸板について」


人間が復讐から救済されること、これこそ、わたしにとって、最高の希望への橋であり、かずかずの長い暴風雨のあとのひとつの虹であるからだ。

第二部「タラントゥラどもについて」


全四部のうち最後の四部が構成や叙述の面でそれ以前の三部と比較して明らかに違っているのは、当初『ツァラトゥストラ』は全三部で完結する予定であり、第四部はツァラトゥストラ物語の続篇として構想された作品――『正午と永遠』というタイトルが付けられた時期があった――の一部にするつもりがあったからだとされる。結局『ツァラトゥストラ』はいまあるように全四部になったが、このあたりの経緯をめぐる興味深い諸事情が巻末の解説で述べられている。吉沢伝三郎の訳文はやや生硬で、「歌う」という感じから遠く、スムーズに読むのに難がある(なぜ動物名がすべてカタカナ表記なのか、ヘビやラクダはともかく、シシやスイギュウという表記は妙だ)。しかし分厚い本の半分を占める膨大な量の注はときに理解の助けになった。ツァラトゥストラすなわちゾロアスターと彼の教説についてや、エマーソンがニーチェに与えた影響などは本書の訳注を読むまで知らずにいた。



4480080791ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)
フリードリッヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
筑摩書房 1993-06

by G-Tools


4480080805ニーチェ全集〈10〉ツァラトゥストラ 下 (ちくま学芸文庫)
フリードリッヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche
筑摩書房 1993-06

by G-Tools



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
今日は。久し振りにニーチェのツァラトゥストラを開いたら、昔借金をして日本からアメリカへと逃げた時のことを思い出しました。その出来事を短歌にしました。日本語の起源・言霊百神というサイトからの一首と合わせ、短歌二首をご紹介させて頂きます。

大きな無「もしかしたら」の小舟乗り大和の国を遠く離れる

なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
コトタマノマナビ
2014/09/08 16:55

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『ツァラトゥストラ』 ニーチェ epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる