epi の十年千冊。

アクセスカウンタ

zoom RSS 『ガリレオの生涯』 ブレヒト

<<   作成日時 : 2013/12/19 00:00   >>

トラックバック 0 / コメント 0

科学者の倫理。

17世紀初頭のヴェネツィア。数学者ガリレオはひとつの真理を発見する。これまでは地球が宇宙の中心であり、他の天体は地球の周囲を回っていると思われてきた(天動説)。しかし実際には、地球が太陽の周りを回っている(地動説)。コペルニクスが主張したとおりであり、彼は正しかった。かつては「信仰」が鎮座していたところに、いまでは「疑い」が占拠している。これまで正しいとされてきたことでも自分の目で確かめるべき「発見の時代」が到来した。しかしこの真理は、キリスト教会が唱える真理に抵触する。ある人がガリレオに問う。地球が宇宙のなかに無数にある星のひとつに過ぎないとするならば、神はどこにいる。ガリレオは答える、どこにもいない、われわれの心のなかにいないのだとすれば。ガリレオの学説は民衆のあいだに爆発的に広まっていく。この事態を重く見て異端審問所はガリレオをローマに召喚。1633年、彼は生き延びるために自説を撤回する。

真実を知ろうとする探究心は人間の本源的欲求である。その心が歴史を前進させてきた。どれほどの障害があったとしても、学ぶことを人は遂に止さないだろうし、それを力ずくで止めることもできない。「考えることは、人間という種族のもつ最大の楽しみのひとつ」、作中でガリレオはそう言う。これはブレヒト自身の考えでもあった。過去の記事から引用すると、
ブレヒトは劇場を日常から切り離された空間とするのに異議を唱えた劇作家だった。彼は、観劇は日常で不満を抱えた人が現実では得られないカタルシスを得るための機会ではないと主張した。現実から逃避させてくれるカタルシスを求めて観劇するのではなく、満たされない現実ならばそれを変革するための教育的な装置としての演劇を目指し、現実にはたらきかける芸術に価値を置いた(彼はリルケやゲオルゲを嫌い、トーマス・マンをブルジョワの文学と批判した)。ゆえに予定調和をあえて乱すような結末を用意するなどして観客に参加(=考えること)を求めた(異化効果)。

『母アンナの子連れ従軍記』 ブレヒト


「真理とは時代の子供であって、権威の子供ではありません」。ガリレオはそう主張して、聖職者たちに望遠鏡を覗くよう促す。覗けば何が本当か一目瞭然、討論などするまでもない。しかし聖職者たちはあれこれと理由をつけて結局ガリレオに従わない。望遠鏡に細工がしてあるのではないか、アリストテレスは天動説を唱えていた等。アリストテレスの時代に望遠鏡はなかったとガリレオが反論すると、教会の最高権威である哲学者を冒涜するのならこれ以上の討論は無意味だとして部屋を出て行ってしまう。頑なに真実を見ようとせず(望遠鏡を覗けば自分が敗北するのは分かっていたから)、古い権威の世界に閉じこもる裸の王様。第4景の聖職者、学者たちの姿は滑稽を通りこして憐れみすら覚える。グロテスクでもある。新しく発見された真理に目をつぶって、安心できる堅固な古い世界に閉じこもる。挙句、「人間はすべてを理解しなければならんのでしょうか?」と言い放つ。それは裏を返せば、自ら進んで間違いのなかに留まり続けようとする意志でもある。真実はときに恐ろしい。1000年を優に超えて世界を支えてきた真理(とされてきたもの)に敵対するのは恐ろしい。足元が崩れ落ちてしまいそうで、立っていられるかどうか分からない。すべての人間が、それに耐えられる強さを備えているわけではない。もっとも、彼らの恐怖には、支配階級が都合よく民衆を支配できなくなるかもしれないことへの懸念が多分に含まれてあるのだろうが。それが証拠に、民衆たちはこぞってガリレオの発見を喜び、彼の学説を支持する。けれども民衆のこの強さ、柔軟さは、新奇なものに飛びつきがちな彼らの浅薄さ、愚かしさを伝えるものであるようにも見える。単純な善悪二項対立の図式はブレヒト演劇にはありえない。
ガリレオ 科学が貧困である最大の理由は、たいていは思い込みが充満しているからだ。科学の目的は無限の英知の扉を開くことではなく、無限の誤謬にひとつずつ終止符を打っていくことだ。メモしておきたまえ。


本作の重要なモチーフとして科学者の倫理がある。前述のとおりガリレオは異端審問所に召喚される。弟子たちは、師は誠実な科学者として決して権力には屈しないだろうと期待する。けれどもガリレオは自らの学説を撤回する。かつて、「真理を知らぬ者は馬鹿だが、真理を知りながらそれを嘘だと言う者は犯罪者だ」とまで言い放ったガリレオが。弟子たちは失望する。少年の頃からガリレオに従ってきたアンドレアは落胆のあまり師から離れる。けれども時を経て再会したとき、ガリレオは教会の監視のもと、『新科学対話』を書いていた。それも写し(コピー)を取りながら。自分は習慣の奴隷だから、ととぼけるかつての師を見たとき、アンドレアの胸に、地動説が撤回された昔日の記憶が去来する。
アンドレア 巷の人たちと一緒になって、僕らは期待した、あの方は命を落としても、自説撤回は決してなさらないだろう、と。でも、先生は戻ってきて言われた、撤回したよ、生きるためにね、と。先生の手は汚れているじゃないですか、と僕らは非難した。汚れた手でも空っぽの手よりはまし、と、先生は言われているのです。
ガリレオ 「汚れた手でも空っぽの手よりはまし」か。現実的な響きがするな。私好みだよ。新しい科学に、新しい倫理学か。

ガリレオが学説を撤回した日、アンドレアは嘆いた、「英雄のいない国は不幸だ」と。それに対してガリレオは答えた、「違うぞ。英雄を必要とする国が不幸なのだ」。あなたにしか書けない書物を書くために生き延びたのか、そう解釈するアンドレアにガリレオは違うと答える。自分が自説を撤回したのは苦痛が恐かったからだと嘯き、科学者としての自己を断罪する。科学は人間の生存の辛さを少しでも軽くするためにある。知識のための知識はいつか人間自身に災いとなるだろう――。知りたいという欲求は人間の本能に根ざしている。それを突き詰めていった結果どうなったか。原爆だ。ナチスに追われて亡命したアメリカで、広島、長崎への原爆投下の報を聞いたブレヒトは、知の責任を問い直すために、初稿『ガリレオの生涯』(デンマーク版)に手を入れる。科学者の社会的責任が強調され、ガリレオの自己断罪はより厳しいものとなる(このあたりの経緯は、解説「ガリレオ/ブレヒト/アインシュタイン」に詳しい)。本作で問われる科学者の倫理という問題は、原爆のみならず、東日本大震災による原発事故を経験した現代日本に生きるわれわれにとっていよいよ切実であるだろう。前半では理性の勝利を高らかに歌っていたガリレオが終盤になるにつれ懐疑的になっていくことにより、本作は多義的な、陰影に富んだ作品となった。


4334752640ガリレオの生涯 (光文社古典新訳文庫)
ベルトルト ブレヒト Bertolt Brecht
光文社 2013-01-10

by G-Tools



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
『ガリレオの生涯』 ブレヒト epi の十年千冊。/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる