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zoom RSS 『カルメン コロンバ』 メリメ

<<   作成日時 : 2014/01/15 00:00   >>

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呪縛。

中篇を2篇収録する。どちらもタイトルになっているヒロインが小説の核になっている。

ビゼーの歌劇原作として名高い「カルメン」。考古学者の語り手はスペインのアンダルシア地方へ調査旅行に出かけた際に山賊ドン・ホセと出会い、獄中の彼から、彼と一人の女の愛憎の物語を聞かされる。由緒ある家に生まれたドン・ホセはもと軍人で、セビリアの煙草工場の警備に就いていたとき、ここで働いている、「小柄で、若くて、すてきな身体つき」のジプシー女のカルメン(カルメンシータ)と出会う。
彼女は赤いひどく短い下袴を穿いていたので、一つならず穴のあいた白い絹の靴下と、火のような色のリボンを結んだ赤いモロッコ革のかわいらしい靴が覗いていました。わざと肩を見せるためにショールを拡げ、大きなアカシアの花房が肌着から出ていました。その上、口の端にもアカシアの花を一輪くわえ、コルドバの種馬飼育所の若い牝馬みたいに腰をゆすりながらやって来るのでした。


ドン・ホセはカルメンに夢中になり、彼女絡みで殺人を犯してしまうと、そのまま彼女ら密輸業者の仲間に加わる。やがて追手が迫れば戦闘になり、暮らしが行き詰れば強盗を働くようになる。転落はあっという間だった。
先生、悪党になるというのはその気なしになるものなんですね。きれいな娘がこちらの頭を狂わせて、彼女のために喧嘩し、運のわるいことが起る、山で暮らさなければならなくなる、そして密輸業者から追剥へと、よく考えもしないうちになって行くんです。


山賊のメンバーの一人、性悪な脱獄囚がカルメンの亭主だった。かつてカルメンをめぐる嫉妬から殺人を犯したドン・ホセは、またも嫉妬からこの亭主と争いになり殺めてしまう。亭主を殺せば女の心は彼のものになるのか。カルメンはそんなたやすくものにできる女ではなかった。アンダルシアの空のように気が変わりやすく、出会う先で男たちに嬌態を振りまき、いつも自分の腕から逃げ出す女。もう捨ててしまえばいい、そう思うのにどうしてもできない。もう俺に惚れていないのか、そう問い詰めれば彼女は決まって「あんたを愛してる」と答える。彼女の行動はその言葉が偽りであることを示しているのに、恋に狂った男は一縷の希望に縋る心でその言葉にしがみつく。一人の男を排除したところで、また別の男が現われる。終わりなき嫉妬に疲れ、もうこんな暮らしは嫌だ、新しい生活をアメリカで始めようとドン・ホセがもちかけると、彼女は妙なことを口にする。「いずれあんたがあたしを殺すだろうって、いつも考えてたわ」。「死ぬならついて行くわ、でももうあんたとは一緒に生きたくない」。二人は寂しい谷間で言葉を交わす。過ぎたことはすべて水に流そう、俺が泥棒になり、人殺しになったのはすべてお前のためだった、もう一度やり直そう、ドン・ホセは哀願する。彼女の足元に身を投げ出し、幸福だったかつての日々を思い出させようとする。さっきは新生活といったが、お前が望むならこれまでどおり山賊を続けたっていい、何もかもお前の言うとおりにする、だからどうか俺だけを愛してほしい――。ドン・ホセがどれほど哀訴しようとカルメンの心は冷ややかなまま動かない。「出来ない相談だわ、カルメンは永遠に自由よ」。つまり彼女は誰のものにもならない。誰にも所有できない。怒りに駆られてドン・ホセは短刀を抜く。しかし刃を突きつけても彼女の気持は変わらない。刃はそのまま彼女の胸を貫く。引き抜いてもう一度。それで折れる。女の黒い大きな眼は自分を刺した男を見つめたままうつろになっていく。

女は男を翻弄する。翻弄されて男は破滅へと突き進む。女の気持は一時の気まぐれでしかなく、男が永遠を求めたところで詮無い。いや、女には自分を独占しようとする男の心は鉄鎖にしか見えず、自らを縛りつけようとするその企みに嫌悪を催す。なりふり構わず愛を求める姿が惨めに見えて、心は冷める。本当に愛しているか、と執拗に問われ続ければ愛があっても嫌になる。そもそも愛とは何だろう。誰がそれを見たのか、手にとったのか。言葉だけ、口先だけならなんとでも言える(だからこそ求める側は執拗に問うことにもなるのだが)。愛を証明させようとする試みは、結局は愛を死へと追い詰めていく。人は愛を、信じることしかできない。「カルメン」とは魔性の女の物語か(サント・ブーヴいわく「洗練された『マノン・レスコー』」)。管理人には愛の不可能性――人間の孤独――の証明と見える。


コルシカ島を舞台にした復讐譚「コロンバ」は、「カルメン」と並びメリメの作品中最良のものだろう。予備役に異動になり、故郷コルシカ島に帰ることにしたフランス軍中尉オルソは、彼の島の由緒ある旧家の出身だった。2年前、反目し合う旧家同士の抗争があり、オルソの父親は銃弾に倒れた。山賊による犯行、裁判所はそう判決を下す。しかしオルソの妹のコロンバは、父親を殺したのは対立するバリチーニ家だと固く信じて疑わなかった。古くからコルシカ島には血を血で贖う復讐の掟があった。兄の帰還は復讐を果たす絶好の機会、そうコロンバには思えた。しかしフランスで「開化」されたオルソには、復讐は未開の土地の野蛮な風習としか思えない。復讐を拒む兄にコロンバは焦れ、あの手この手で焚きつける。やがて運命の歯車はゆっくりと回りだし、彼女の念願は叶えられるだろう。

土地の呪縛の魔力、「コロンバ」の主題を管理人はそう読む。オルソはかつてコルシカにいたが、フランスの士官学校に入って軍人になり、多様な知識、経験を得たのちに、故郷を未開の土地だと冷ややかに眺めるようになっていた。彼は父親の死を外国で知ったのだが、手紙を送った妹のように、犯人はバリチーニ家だとは思わなかった。判決も山賊の仕業としたではないか。そしてあえてその問題に深入りしないようにした。用心したのだ、身内に流れるコルシカの血が騒ぐことを。しかし島に帰ってくれば、妹をはじめ周囲の人々は、彼が土地の掟に従って復讐を果たすために帰ってきたのだと信じて疑わない。コロンバは父親の遺品と、その命を奪った弾丸を彼に見せる。亡き母親の部屋に入れば、幼少時代のなつかしい思い出が彼をしみじみさせる。マキ(山林)には、かつて彼の部下だった脱走兵がお尋ね者の山賊として暮らしている。コルシカの自然が、空気が、人々が、オルソの「文明化」を嘲り、彼の血を目覚めさせようとする(地と血の呪縛)。文明と野生の衝突(オルソとコロンバの対比)。結局オルソはコルシカに屈することはないものの、それでも結果的には二人の敵を殺害して復讐を果たすことになる。その経緯は殆ど偶然だった。コルシカ流の狡猾な「待ち伏せ」、「背後からの攻撃」を仕掛けようとした側が逆に高い代価を支払うことになる。ここに、土地に仕組まれた死を見ようとするのは恣意的に過ぎるだろうか。史的建造物監督官メリメがコルシカに視察旅行した際聞いた、実際の仇討事件がモデルになっているという。

テンポよく進むストーリーと魅力的な登場人物たち。「コロンバ」を名作たらしめているのはこの二つの要素だろう。復讐と同時進行でオルソと英国人女性との恋愛が語られ、自由を謳歌する二人の山賊と、土地の巫女のようなコロンバが脇を固める。堅い文学作品というよりは娯楽性に富み、純粋に読んでいて楽しい。とくに山賊二人のロマンチックな造形がいい。本気かどうか怪しい相続人たちの涙に囲まれながらベッドで死んでいくより野外で靴を履いたまま死んでいくほうがいい。あるいは、ドン・キホーテよりもきちんと武装して、もっと分別があれば、悪を正す放浪の騎士の生活ほど素敵な生活はない。そして、娑婆では金でなんでもできるが、マキ(山林)では勇敢な心と弾丸の逸れない鉄砲しか価値はない――。こうした自由賛歌は「カルメン」にもあった(自由を愛するジプシーは、牢獄で一夜を明かすくらいなら町中に火を放つ)。公務員メリメのささやかな憧憬のようなものかと忖度するのは卑俗すぎる解釈だろうか。とはいえ彼は当時全盛だったロマン主義には懐疑的で、ときには嘲るような姿勢をとっている。この点に関して訳者は次のように解説する。
遠く隔たった時代や土地を背景に特異なもの、残酷なもの、情熱的なもの、珍奇なものを好んで描くのは、ほかの同時代作家にも共通した傾向であって、その意味ではメリメもロマン主義者であった。だが、他のロマン主義者がそのような傾向に耽溺することによって、感情の優位を謳い、自我の解放を唱え、イメージの斬新さを誇示し、そこに文学の使命を認めたのにたいして、スタンダール以上に自己に《瞞されないこと》に固執したメリメは、そのような使命感を楯にとって自己顕示に陥ることが堪えられなかったのである。彼はいちはやくロマン主義者たちに懐疑的になる。目指すものはもっともロマン主義的なものでありながら、ロマン主義的であることそのことに堪えられないという、文学そのものが本来的に持っている不可能性を体現するかのごとき存在、後のフローベールを予告するような存在となったのである。

1833年、30歳のときに短篇集を発表したのちは、文学の創作よりも、史的建造物監督官の仕事に精を出し、かたわら歴史研究に深入りしていったというのも、ロマン主義文学に飽き足らず、ロマン主義的なるものを文学ではなく歴史のうちに求めようとした彼の胸中を示すもののように思えなくもない。

メリメの最良の作品は、「カルメン」、「コロンバ」、「ヴィーナスの殺人(イールのヴィーナス)」であるといわれる。そのどれもが当事者ではなく傍観者、いわば第三者の視点から書かれている。距離を置いて観察され、書かれる物語。彼が主題としてよく描く原始的な情熱や精力は彼自身にもっとも欠けているものだった、杉捷夫はそう述べている(岩波文庫『エトルリヤの壺 他五篇』訳者序)。この傍観者的な醒めた眼差しと並べて注目したいのがメリメの女性観だ。「カルメン」も「コロンバ」も、どちらもタイトルになっている女性の物語だが、彼女たちは決して「フェミニスト的な優しい目」で見られていない。これは作者メリメの女性観の反映だとされる。再度、訳者の解説から引用すると、
大陸で暮らしたためになまじっかな分別を身につけた兄の優柔不断を押しきり、献身的に彼に仕えながら野生そのままの呪縛力で彼を《仇討》のほうへ曳き込むコロンバの情熱と意志の力は、山猫のような鋭い直観力と機敏さと大胆さも含めて、驚異の目では見られても女性賛美といったロマン派的筆致で書かれてはいない。(略)気高いとか純粋だとかいう形容詞をこの女性に当て嵌めるにはためらわれるところがある。(略)カルメンにしても同じで、彼女たちがいかに魅力的であろうと、その魅力にはどこか兇悪な部分があるのである。(略)こうしたいわばゴヤ的な女性観がメリメの女性体験に由来するものであろうことは想像に難くない。彼は一生結婚しなかったが、常に何人かの女性と交渉があり、史的建造物監督官として地方を視察する際にもしばしば放蕩の機会を逃さなかったらしい。社交界でも宮廷でも女性に取り巻かれていることを好み、艶福にも恵まれていたが、結婚を申し込んだ女性の家からは冷たくあしらわれたし、(略)愛人には、裏切られても何年も気がつかないといったところがあった。女性に惹かれながら愛のなかにまじった苦汁を忘れることができず、スタンダールが『恋愛論』のなかでひそかに告白しているような情熱恋愛を経験したことがないらしいということも、文学にたいするアンビヴァレントな彼の感情と似ていて、われわれが彼の『コロンバ』や『カルメン』に今なお動かされるとすれば、それは案外、メリメのうちにすでに見られる、現代人のある種の不毛な迷いがそのまま感じられるからなのかも知れない。

「結婚式という奴はいつも私を憂鬱にする」、「婚礼の行われる家の中で独身者という奴は実にばかな役割を演じる」、独身者の苦渋は「ヴィーナスの殺人」に語り手の述懐として書かれている(発表時、メリメ34歳)。もっとも、ここに、感情の流露を極度に恐れ、いつも仮面をつけていたと伝えられるメリメ自身の本音が、どの程度反映しているのかは知れない。



4061982214カルメン/コロンバ (講談社文芸文庫)
プロスペル メリメ Prosper M´erim´ee
講談社 2000-07

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作者が自作中もっともよい出来と自負した「ヴィーナスの殺人」を収録。遺作の「熊男」も面白い。
4003253442メリメ怪奇小説選 (岩波文庫 赤 534-4)
メリメ 杉 捷夫
岩波書店 1986-03-17

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初期の短篇集。「コロンバ」と同じくコルシカ島を舞台に彼の地の仁義を描いた「マテオ・ファルコネ」を収録。青年が嫉妬のために身を滅ぼす表題作が管理人の好み。
4003253418エトルリヤの壷―他五編 (岩波文庫 赤 534-1)
プロスペル・メリメ 杉 捷夫
岩波書店 1971-01

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