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zoom RSS 『言葉』 J-P・サルトル

<<   作成日時 : 2014/02/17 00:00   >>

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読む、書く、生きる。

サルトル12歳までの自伝。「読む」と「書く」の二部に分かれている。言葉に魅入られ、物語/文学に自らを賭けようとした少年がやがてそれに幻滅し訣別するまで。

サルトル少年(作中ではプールーという愛称で呼ばれる)は1905年に生まれて間もなく海軍士官の父親を亡くし、母親とともに彼女の実家で暮らすようになる。兄弟も遊び友達もなく、大人たちに囲まれて成長する過程で彼は「文学という幻想」に捕われてゆく。あらゆる自伝がそうであるように本作もまた事実と虚構が入り混じっており、記述を鵜呑みにすることがいかに暴挙であるかを訳者は指摘する。管理人はサルトルという人物にそれほど関心を持っていないので事実云々は気にしない。では関心を持っていない人物の伝記をなぜ読むのか。20世紀を代表する思想家、文学者が50歳を過ぎて自らの少年時代を「読む」と「書く」の二期に分けて語りながら、最後には文学との訣別を告げる物語(サルトル自身は本作を小説と位置づけていた)とはなんとも刺激的で、好奇心をそそられるからだ。文学を信じていたサルトル少年はやがて幻想から覚めて現実へと向かうことになるだろう。すでに『嘔吐』において、「語ること」と「生きること」の二項対立――思索と行動と換言するのは安直すぎるだろうか――は扱われていた。ただし結論を先に述べると、サルトルは文学という「迷い」から醒めたのちも書くことを止さない。文学の無力を悟りながら、彼は書くという営為が自らの救済であることを自覚するだろう。釈然としない結末と思える。同時に予測できた結末とも思える。自らの多感な時期を「読む」ことと「書く」ことに費やし、習慣化してしまった作家がそれを清算できるものだろうか。すでに両者は生きることと同義になっているのではないか。訳者の言葉を引用すると、
「作家とは、現実の代わりに想像的なものを選択した人間だ」とサルトルは述べる。つまり、言葉という非現実的なものに拘泥し、現実へと淘汰できない文学の無能ぶりをここで清算しようとした、というのがサルトル自身の説明だ。だが、言葉はまた子どもにとっての未知の世界そのものでもあり、この言葉の幻想からの脱出を可能にするのもまた言葉なのではあるまいか。

言葉が非現実的という意味はよくわからないが、ともかく文学と訣別する唯一の手段は沈黙しかないのだろう。われわれはそれをして砂漠に去った若い詩人を知っている。訣別を語ることは訣別にならない。書くことが自身の救済――無神論者の宗教――だというのなら、サルトルにそれは不可能だった。

第一部の「読む」では文学との出会いが語られる。選ばれた子供として周囲から愛され、敬われたと繰り返すサルトルの筆致は時に苛立たしい。しかし考えてみれば少年時代とはいずれ失われる王国であり、われわれ一人ひとりがその王国の支配者だった。傲慢であっても自然なので、失われた過去を現前させるような彼の語りの喚起力に感嘆すべきだろう。書物との初めての出会い。中を開いても何が書いてあるのか読めず、文字は黒い虫のように見える。この黒い塊こそが言葉なのだと少年はおぼろげに感じる。本を揺すったり、叩いたりしても自分のものになったとは思えない。これは玩具とは違う、扱いかたがわからない。悲しくなって、針仕事をしている母親の膝のうえにそれを置くと彼女は尋ねる、「ぼうや、何を読んでほしいの、妖精のお話」。この言葉に少年は驚く。「妖精がこのなかにいるの」。まるで魔法の小箱のようだ。母親は本を開く。瞼を伏せ、夢見るようにゆっくりと読みはじめる。内向的で、頼りない声でしか話せない普段とは別人のような「石膏の声」がその口から流れ出す。お母さんはこんな硬い声を、こんなしっかりした話しかたをどこから借りてきたのだろう、少年は疑問に思う。やがて了解する、そうか、お母さんじゃない、本が話しているんだ、と。文学的、あまりに文学的に述べられる読書の原風景が素晴らしい。少年は大人たちの真似をして本を読むふりをする。やがて彼にも文字が読めるようになるだろう。しかし文字を覚えたところで、どれだけ読んでも、何歳になっても、読むことには常に「判読不可能性」、「理解不能性」がつきまとう。「どうしても頭にすっと入ってこない文字の抵抗力、けっしてわかることのできない何かにぶつかること」は読み続ける限り終わりなく続く。それを悲観しなくていい。他者の言葉は完全にはわからないということ、他者との間に横たわる断絶の深淵を認識すること、それこそ、もしかすると最上の読書の魅惑であるかもしれないのだから(そしてその深淵になんとかして橋を架けようと努め続けること――すなわち愛すること――が生きることの醍醐味なのかもしれない)。「読む」対象は書物に限らない。われわれは空模様を、人の表情を、その場のムードを、仕事の先行きを「読み」ながら生きている。

物語/文学との出会いののち、少年は読むことに飽き足らなくなり自らの創作を始める。読者誕生を語る第一部「読む」に対して第二部は「書く」と題され、われわれは作家誕生の瞬間に立ち会う。愛読する少年小説の模倣が彼の最初の創作になる。ペンを握り、机に向かう小さな背中を眺めながら大人たちは無責任にひそひそ話し合う、「あの子の天職は作家だよ」。サルトル少年は次のように思っていた、世界とは言語であり、存在するとはこの言語の一覧表のどこかに位置する名前を所有することだと、そして書くとはこの一覧表に新たな存在を刻むことだと。言葉を組み合わせることで事物は記号によって身動きがとれなくなり、少年の所有となった。書くことが彼を全能の神にする。これは幼い日の錯覚だったのだろうか。有限の存在である作者が、永遠に残るだろう書物――テクスト――を創造するというのは。物語の創造は同時に未来の自身の想像も誘う。すでに年老いたサルトル少年は、あるときは栄光に包まれ、あるときは理解されないまま孤独に死ぬ。二重の創造/想像。自身もまた小説の登場人物の一人になる。しかし不意に、彼はある啓示に打たれる。「書くという欲求は生きることの拒否に包まれている」。人は生きながら語れる(書ける)ものだろうか。『嘔吐』にも見られた、「書く」ことと「生きる」ことの乖離。少年の創造は一種の詐欺であり、老いた堅固な現実世界を動かす力は微塵もなかった。世界は、歴史は、彼が何を書こうと無視して在り続ける。文学など子どもじみた幻想に過ぎない。少年は作家としての宿命を自覚していながら、これまで書いてきたノートを海岸へ持って行き砂に埋める。今はまだそのときじゃない、いずれ文学の秘密が明らかになるときまで書くことはよそう。あとになって思えば、自分は小説を書きながら自らも小説の登場人物になっていたようだ、そうサルトルは述懐する。よしたはずなのに、時々どうしようもない誘惑に駆られて書くことをまた再開するようになる、それが無力であることはわかっているのに。そうして気づけば60歳になろうとしている。
私は相変わらず書き続けている。他に何ができようか。
描カザリシハ、一日タリトテナシ
それが私の習慣であり、また仕事なのだ。長いこと私はペンを剣だと思ってきた。いまでは文学の無力を知っている。だからどうしたというのだ。私はいまも本を書いているし、これからも書き続けるだろう。それに本だって何かの役に立つだろう。教養によっては何も、そして誰も救われないし、正当化されることもない。そうだとしても、それは人間の所業のひとつだ。人間はそこに自らを投影し、投企し、そこに自らの姿を認める。この批判的な鏡だけが彼に自分の姿を与える。

第一部「読む」で言及された他者の理解不能性がここでもう一度述べられる。他者という鏡によって自己を知る、自己を知ってこそ他者を知れる。無限の合わせ鏡としての書物という存在。そして「読む」と「書く」という表裏一体の営為。訳者は述べる。
ひとはなぜ伝記を読むのだろうか。(略)他者の生涯を辿るという行為を通じて、他者になろうとする、自分とは別のものになろうとするのではあるまいか。評伝を読むとは、他者の人生を再び生きるという快楽なのだ。『言葉』は、サルトルという人物について何かを教えてくれる以上に、読者である私たちのことを教えてくれるのだ。

読むことによって他者になろうとするも読者は決して彼以外の誰かにはなれない。そのことの自覚が、彼に彼として生き続ける勇気を与える。「文学は無力だ」、しかしそう述べるサルトルの言葉は文学に拠っている。この二枚舌をユーモアと見るか狡さと見るかは読者各人の趣味の問題だろう。


それにしても不思議なのは、少年期の物語なのになぜ主人公の恋が全く描かれないのか。少年にとっての「花咲く乙女」が登場しないのか。サルトルの、こういう官能に乏しいところが管理人にはどうしても物足りない。


4409030736言葉
J.‐P. サルトル Jean‐Paul Sartre
人文書院 2006-02

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