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zoom RSS 『カミュ 『よそもの』 きみの友だち』 野崎歓

<<   作成日時 : 2014/03/03 00:00   >>

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幸福な生。

異邦人」のタイトルはやや大仰だとして、より身近な「よそもの」という新たなタイトルを与え、カミュのこの小説を読みとく。『異邦人』の魅力は、主人公ムルソーの、感情が欠如したような語りにあるだろう。「きょうママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」。あまりにも有名な窪田啓作訳の冒頭は野崎訳ではこうなる。「きょう、母さんが死んだ。きのうだったかもしれないが、わからない」。母親が死んだのに悲しむでもなく、葬式のための休暇を上司に申し出るときには「私のせいじゃないんです」といい、母親の遺体のある安置所へ行くも彼女の死顔を見ず、葬式の翌日には海水浴に行ってそこで再会した女と喜劇映画を見て夜をともにする。ことあるごとにぶっきらぼうに口にされる、どうでもいい、そうすることに意味はない、という科白。しかしムルソーは決して虚無的なアウトローではない。むしろ逆だ。アルジェリアの海風と陽光に包まれて生を謳歌している。「カフェオレが大好き」、「パンがうまかったし、自分の分の魚も夢中で食べた」、「マリーのことがたまらなく欲しくなった」、「水は冷たく、泳いでいて気持ちがよかった」。冒頭近くでは感情ゼロの人間のように思われるのに、読み進めていくと、ムルソーとは身体の喜びに忠実に生きている、享楽的な人間なのだと知れる。

野崎さんはムルソーを、社会のコード(常識的、世俗的価値観)より自身の価値観を重んじる「正直者」と規定する。母親の遺体と対面したとき、彼は彼女の顔を見たがらない。ここまで案内してきた門番になぜ見ないのかと訊ねられ「わかりません」と答える、すると「わかりますよ」と逆に門番が頷く。門番は、「彼は最愛の母親を亡くしたのが辛すぎて、彼女の顔を見るのが耐えられないのだろう」と好意的に解釈して「わかりますよ」といったのだったが、ムルソーにはそんな気はなかった。一切の無駄口をきかない無口な男であるムルソーが「わかりません」といったのならそのとおりの意味しかない。門番の解釈は誤解なのだ。こうした他者との意識のズレが、ムルソーを「よそもの」たらしめている。われわれは同じ人間として、これこれの場合はこう振舞う、という自然さのコードに支えられた演技をして生きている。しかしムルソーはそうしたコードの存在を無視して――ただし彼はコードが存在していることも、それに乗れない自分がいることも自覚しているのだが――自分がこうと思ったら、こうと感じたらそれに正直に振舞うことしかできない。それが彼の倫理なのだ。恋人マリーとの関係にしても、たびたび「彼女が欲しくなった」と生理に忠実に従いながら、「わたしのこと、愛してる?」と訊かれると、「それはなんの意味もないけれど、でも愛してはいないと思う」と答える。「わたしと結婚したい?」と訊かれれば、どっちでも同じことだ、愛してはいないと答え、愛してもいないのに結婚できるの、結婚って大事なことでしょうと重ねて問われれば、違う、大事じゃないと答える。いくらでもその場しのぎの嘘をいえる、そうすれば恋人と気まずい思いをせずに仲良くやっていける、それはわかっているのに、彼は嘘だけはいうまい、自分の気持を偽ることだけはすまいとしている。マリーが、自分はムルソーのことを愛しているかわからないと寂しげに呟いても、その問題についてはぼくにはわからないと述懐する。相手が自分を愛しているかを疑心暗鬼に探り合うのが恋愛の(ひとつの)パターンだとすれば、ムルソーはそれを完全に超越している。わからないことはどうやったってわからないし、無理にわかろうとする必要もない。人生を達観しているようなムルソーは、もしかしたら「賢者と呼ばれるに足る立派な男」なのかもしれない。

アラブ人とトラブルになって、ムルソーは拳銃をぶっぱなす。裁判で犯行の動機を問われれば「太陽のせい」と答えて法廷内の人々の失笑を買う。有名すぎるこの言葉にはどんな意味があるのだろうか。「見る人」としてのムルソーに注目して、野崎さんはアラブ人のナイフが照り返した陽光に意味を探る。管理人としては、馬鹿正直で簡素な言葉しか用いないムルソーが「太陽のせい」だといったのなら理由は太陽なのだろう、それが具体的に何を指すかにはあまり関心がない(というか正解などないだろう)。発砲については、何事からも自由である男が、無数にある選択肢のなかから自ら選び取った行為が拳銃の引き金を引くことだった、ということではないだろうか(「ピストルを撃つことも、撃たないこともできる」、「ぼくはこんな風に生きたけれど、別の風にだって生きられただろう」)。この自由の代償を、ムルソーは法廷で支払うことになる。
全身がこわばり、ピストルを握りしめた。引き金が動き、ぼくは銃床のなめらかな腹に触れた。そしてそのとき、乾いた、しかも耳がきこえなくなるほどの轟音のなかですべてが始まったのだ。ぼくは汗と太陽を振り払った。自分が昼間の均衡と、それまで幸せにすごしてきた浜辺の特別な沈黙を打ちこわしてしまったことを理解した。そこでさらに四発を、ぐったりとした体に向かって撃ち込むと、弾は痕跡も残さずに食い入った。それはぼくが不幸の扉を叩いた、四つの短い音のようだった。

自由が招く不幸。異端視され排除される「正直者」の問題と合わせて、世界への問いかけと読める。
カミュはムルソーにアラブ人を殺させることで、自分の主人公を決定的に「悪」の領域に突き落とした。いや、別にムルソーは悪を望んで行動しているわけでも、人種差別的な暴力衝動に突き動かされたわけでもない。「そんなのは馬鹿げている」と思いながら、馬鹿げた選択をしてしまったにすぎない。つまり理由づけを欠くその行動から、さらに徹底して正当化の余地を奪うために、カミュはムルソーをこの殺害事件の犯人としたのではないか。


上に、「正直者」が異端視され排除されると書いた。犯行後、法廷でムルソーはもっぱらその人間性を裁かれる。社会のコードを無視して自由に振舞う男とは危険分子にほかならない。母親の死にも平然としていた、葬式の翌日女と喜劇映画を見に行っていた、すでにわれわれが見てきた「正直者」ムルソーの行動を、検事は殺人事件以上にスキャンダラスに弾劾する。「私はこの男を、重罪人の心をもって母を埋葬したかどで訴えるのです」。すでにムルソーは弁護士に、「多分ぼくは母さんのことが好きだったと思いますけれど、でもそれは別に意味はありません」と話して相手を唖然とさせていたのだった。「意味はない」。決して多くない分量のなかで幾度も反復されるこの言葉は、終盤の司祭との対話で効果的に用いられる。来世を説く司祭に苛立って、ムルソーは初めて感情を「破裂」させる。「大事なことなんか何も、何もない」、「あんたの神、人の選ぶ人生、人の選ぶ運命、そんなものに何の重要性がある」。虚無主義と受け取りたくなる発言、だが彼の真意は少し違う。一人きりになったムルソーは寝台に横になり、いつしか眠りに落ち、目を覚ますと「夜と大地と塩の匂いがこめかみを爽やかに」しているのを感じる。すでに死刑判決が下り、あとは死を待つだけと自覚したいま、不思議な安らぎが彼の胸に去来する。
この眠れる夏の素晴らしい安らぎが、潮のようにぼくの内に満ちてきた。そのとき、夜の果てで船のサイレンが響いた。それはいまやぼくにとって永遠に無関係なものとなった世界への出発を告げていた。ずいぶん久しぶりで、母さんのことを考えた。人生の終わりになって母さんがなぜ「フィアンセ」をもったのか、なぜ再出発に賭けたのかが理解できる気がした。あそこでも、あの、人々の命が消えていく老人ホームのまわりでも、夕暮れは物憂さに満ちた休息のひとときなのだ。死を間近にして、母さんは解放されたのを感じ、人生をやり直せる気がしたのだろう。ぼくもまた、人生をやり直せる気がした。

司祭は問う、あなたは別の生――「あの世」――をどう思っているのかと。「そこでこの世を思い出せるような暮らしのことさ」、これがムルソーの答えだった。人はみな死ぬ。意味なく生き、意味なく滅びる。ならば生は厭わしく、虚しいものなのか。否、地上とはいつかは追放されざるを得ない王国であり、だからこそそこに生きてあることは貴いのだ(「とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです。神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」――『ペスト』)。
彼にとってこの世界は、活力に満ちた、魅惑的なものとして現れずにはいない。「天国」とは現世であるというのが彼の確信なのです。だからこそ、われわれはみな選ばれた者であり、「特権」を与えられた人間なのだと彼は断言するのでしょう。この世の王国から必ずや追放される定めにあることは、この世に対する愛をいっそうかきたてる。
人間の置かれた条件を「馬鹿げた」ものだと知りながら、しかもそれを激しく愛することこそは、「不条理」の激化、徹底の道ではないでしょうか。その道から一歩も逸れるまいと心に誓った者のいさぎよさ、凛々しさを、司祭に立ち向かうムルソーは全身から発しているのです。


いずれ去らねばならない地上だからこそ愛おしい。カミュは師ジャン・グルニエの『孤島』に寄せた序文でこう述べている。
この世界の外見は、なるほど美しい、だが、それらはやがて消え去るべきものだ、だから、いまのうちに、ひたむきにそれらを愛さなくてはならない、

管理人には、これはグルニエのというよりカミュ自身の思想の解説と思える。

繰り返しになるが、ムルソーの「よそもの」性は彼が独自の倫理を貫徹していることに由来している。感情ゼロのようにも見える彼の――あるいはカミュの――倫理の究極は、「いま、ここ」に在ることへの限りない愛だった。エッセイ『結婚』のなかにも似たような文章が見られるという。
この本のなかでカミュは、自分もその一人であるアルジェの「貧乏人たち」を「太陽の子」と呼び、現在の幸福を味わい切ることに徹するその生き方を礼賛しています。いわく、アルジェの人間には教訓も美徳も欠けている。およそどんなお説教も似合わないし、キリスト教的な「地獄」の観念など想像もつかない。反省したり、後悔したりすることがない。「この国の快楽にはつける薬はないし、この国の歓喜は、希望のないままだ。この国が要求するのは、明晰にものを観る魂、つまり慰めのない魂だ」。

希望がないとは未来を不要とする現在だけがあるということだろう。アルジェの夏は喜ばしき現在だけを与えてくれる。後悔も慰めもない、官能を充溢させてひたすらに「いま、ここ」を生きればいい、ムルソーはそういう生を生きた。それこそが幸福な生だった。

「一方には救いのない無意味の啓示があり、他方には目のくらむような豪奢な生の実感がある」。この点こそ「よそもの」という小説の最大の魅力だろう。最初はムルソーとは情に乏しい無頼漢のような男だと思っていたのが、読んでいくうちに己の倫理にどこまでも忠実であろうとするがゆえに孤高の生を生きざるを得ない――当初の印象とは正反対の意味で非人間的な――男であったのだと知れる。「よそもの」は、社会のコードより自身の倫理を優先する人間の孤独な生について読者に問う小説だった。本書はほかに作品の背景にある当時のアルジェリアの複雑な政治状況――フランスの支配下にあった――や、叙述の革新性――後続の「反小説」に影響を与えた――などについても言及しており、決して多くない分量のこの小説はこんなにも豊かなテクストだったのかと驚かされる。同時に、野崎さんの、テクストに沿った精緻かつ丹念な読みに、読むとはこういうことかと感嘆する。




冒頭には野崎さんによる「よそもの」抜粋訳が掲載されている。「ぼく」という書生じみた一人称は、孤高なムルソーのキャラクターに合っているのか疑問に思わないでもないけれど、可能であるならいつか「よそもの」全訳を読んでみたい。
4622083213カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)
野崎 歓
みすず書房 2006-08

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『異邦人』を読み返したくなったが、本書に影響された読みしかできない気がするから今は止しておく。
4102114017異邦人 (新潮文庫)
カミュ 窪田 啓作
新潮社 1963-07-02

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