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zoom RSS 『ペスト』 カミュ

<<   作成日時 : 2014/03/10 00:00   >>

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春を恨んだりはしない。

アルジェリアの港湾都市オラン。1940年代のある春、さしたる特徴もないこの都市のあちこちで鼠の死骸が目撃されるようになる。その数は日を追って増していく。やがて、体調不良を訴え、病いの床につく市民たちが続々と現れる。原因不明の高熱、嘔吐、リンパ腺の腫脹、黒っぽい斑点――彼らが冒されていたのはペストだった。とうに地上から消滅したはずのこの伝染病がいまになって再び現れるとは、医師リウーにはにわかには信じられなかったが、彼が診察する患者たちはたしかに文献が教えるとおりの症状を示していた。季節が夏へと向かうにつれ患者数は増加の一途をたどる。彼らは隔離され、有効な治療を受けられないまま死んでいく。市当局は何ら打開策を見い出せず、報道は人々の不安を徒に煽るばかり。そして真夏のある日、遂にオランはペスト菌に汚染された都市として封鎖される。

外部から遮断され孤立した状況下における市民たちの反応。はじめ彼らは納得できないまま状況をしぶしぶ受け入れる。やがて手持ち無沙汰に用もなく町をうろつきはじめ、無為と孤独の苦しみを自覚する。閉鎖が長引くと次第に苛立ちを募らせ、ときに暴動を起こしながらも、最終的には絶望と諦念が混じったような静けさに落ち着く。否認→反抗→受容(諦め)という心理的プロセスから連想されるのは、キューブラー=ロスが提唱した死の受容の段階説だ。強大な不条理(死、伝染病)に直面したときの人の反応は、個人的なものであれ集団的なものであれ同様に示されるというほどのことだろうか(余談になるが、キューブラー=ロスは死の床で、死の段階説の発見も自らの死の慰めにはならないと述懐したという)。集団といったところが受け止めるのは各個人なのだが、同志がいることが心理的に何がしかの影響を――よくも悪くも――与えるだろう。市民の大半が病いの恐怖に脅え、動揺するなか、幾人かの人々は毅然としてこの不条理と戦う。医師リウーと彼の同僚たち、救済のボランティア活動を組織するタルー、グラン。また、迷いながらも、直面した災厄に目を開かれ独自の「善」を追求することになる神父パヌルーや、災厄を成長の契機とする若き新聞記者ランベールのような人たちもいる。忌まわしき伝染病は夏から秋に移る頃にもその勢いを弱めず、犠牲者の数は減らない。しかし何事にも永遠はない。冬になるころ、統計は疫病の衰えを示す。それまでは獲物を決して逃さなかった死の爪がたびたび緩められ、一命をとりとめる病者たちが出てくる。加えて新開発の血清が病いの駆逐に貢献する。そしてある冬の日、とうとうオランは封鎖を解かれ、再び自由を回復する。市内に乗り入れてくる列車が離別していた人たちを再会させるとともに、積まれた花々が新しい春の訪れを告げる。多くの犠牲を出しはした、しかし人々は遂にペスト(不条理)に――一時的にとはいえ――勝ちを収めた。

本作は、ナチスによる占領を伝染病に託して、占領下にあった当時のフランスの閉塞状況を描いたものだといわれる(カミュが参加した大戦中のレジスタンス活動の経験も活きている)。伝染病は不条理な、つまりは人智の及ばない、ただ受け入れるしかない圧倒的暴力の象徴であるのだろう。『異邦人』において個人のモラルを説いたカミュは、その五年後に今度は本作で共同体のモラルを説いた。不条理を前にしたとき個人の反抗は無力だ。しかし一人ひとりの力は弱くても集まれば強くなる、対抗できる。「連帯」のモラル。何も英雄になれというのではない。人間は卑小な存在だ。美しい理想を掲げたところでそのために身を賭すことのできる者が幾人いるか。あのナチスとて人々の理想を実現せんとする希望から出発したのではなかったか。人間離れしたような崇高な理想など胡散臭いだけだ、そんなものは目指さなくていい。困難に直面したときこそ、しっかりと地に足をつけて、自らがなすべきことを普段通りになせ、ペスト駆逐に超人的な活躍を果たす医師リウーは連帯を支える個人のモラルをそう説くだろう(「日々の仕事のなかにこそ確かなものがある」)。
「人類の救済なんて、大袈裟すぎる言葉ですよ、僕には。僕はそんな大それたことは考えていません。人間の健康ということが、僕の関心の対象なんです。まず第一に健康です」

「異教的」なアルジェリアの肌を刺すような鋭い陽射しを倦むほどに浴びて育ったカミュは、この地上こそが人間にとって唯一の楽園なのだと信じていた。生に意味があるとすれば、それはただひたすらに「いま、ここ」を生ききることのうちにしか存在しない。彼方の超越的なものを望まずに、あくまで大地に根を下ろした彼の、徹底的に現世的な思想が好ましい。各人がよく職務を、責務を果たすこと(このことは作中で幾度も繰り返されるだろう)。連帯は何よりも相互の、助け合う意志に支えられる。タルーは共感こそが人を安らぎに導くというだろう。愛する女に会うために一度はオランから脱走しようとした新聞記者ランベールは、誰に止められたわけでもないのに自らその意図を放棄して市内に留まる。なぜ行かなかったと人に問われると、「(みなが苦しんでいるさなかに)自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれない」からと答える。むろんそんなことはない。共同体のために自らの幸福を犠牲にするべきではない、それでも、ランベールには苦しむ同胞たちを見捨てることはできなかった(当事者意識と「共感」の芽生え)。

『異邦人』にも『ペスト』にも、読者に、生について考えさせる思想的な要素がある。本作の終盤で起きる幼児の病死はこの世の不条理をわれわれに伝える。神父パヌルーは、以前にはペストは神の審判だと人々に説教した。しかし子供の哀れな死を目撃したあとで彼の心は微妙に変化する。「この地上における何ものも、苦しみながら死んだ子供の命は、永遠に贖えない」(カミュが愛読したあるロシアの作家にもこれと同じことを問う小説がある)。『異邦人』の終盤では、彼方の幸福について問う司祭に対抗して、ムルソーはこの世の王国を主張したのだった。「この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」。医師リウーならばそういえる。しかしキリスト者であってそこまで大胆にはなれないパヌルーは能動的運命論という概念を持ち出す。
ただひざまずいて、すべてを放棄すべきだなどといっている、あの道学者たちに耳を貸してはならぬ。闇のなかを、やや盲滅法に、前進を始め、そして善をなそうと努めることだけをなすべきである。しかし、その他の点に関しては、これまでどおりの態度を守り、また自ら納得して、すべてを、子供の死さえも、神のみ心に任せ、そして個人の力に頼ろうなどとしないようにすべきである。

リウーやタルーのようなリアリストとは距離を置いた信仰者としての、これがぎりぎりの地点ではなかったか。現代日本の読者には、西洋社会におけるキリスト教をはじめとする宗教の存在の大きさは実感できず、どうしても推測に頼るしかないところがある。それでも、死ねば一切は消滅する、とする「科学的」な態度よりも、永遠に花咲く野原でかつて別れた人たちと再会できると「宗教的」(どんな宗教だろう)に考えるほうが、もしかするとわれわれは死――自分のも、他人のも――について必要以上の悲しみや恐怖を抱かずにすむのかもしれない。どれほど文明が発達したとしても、人間が有限な存在である以上、宗教がもたらす慰めに希望を抱く人がいなくなることはないだろう。それもまたひとつの人間的な立場である。

終盤においてペストはいよいよ、不条理としての色を濃くする。「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっている」。タルーのこの発言は大量虐殺が可能になった世界大戦の時代性を反映しているのだろう。別の人物はこういう、「いったい何かね、ペストなんて? つまりそれが人生ってもんで、それだけのことでさ」。外から来るのだけではない、われわれの身内に巣食っている、もうひとつのペスト、業。20世紀は、憎んでもいない人間同士が政治的な理由から科学を利用して――合理性の限りを尽くして――おおいに殺し合った時代だった(この時代は未だ終わっていない)。死の恐怖のなかに監禁されたオラン市民たちには強制収容所の犠牲者が重ねられてあるようにも思える。現代日本において本作はどう読めるか。あの、もう三年かまだ三年か、どちらということもできずにいる――つまりは現在であり続けている――春の災厄を重ねることも決して不可能ではないだろう。むろん事態は小説のように単純ではないけれど。

追い詰められた人間の醜悪さをあえて殆ど描こうとはしていないものの、本作におけるカミュの、まるで見てきたことを報告するかのような徹底したリアリズム的筆致に感心する。先に述べた死の段階説をなぞるような封鎖受容の集団的な心理プロセスもさることながら、薄荷味のドロップがペスト予防に効くと聞いてそれに殺到する集団ヒステリーや、絶望のなかで暮らすうちに絶望に適応してそれを「日常化」してしまう市民たちの観察などは喚起力に富む。中井久夫氏が記録している、災害時における救助者たちの「戦闘消耗」とそっくりの状態も記述されている。気分転換にタルーがリウーを夜の海へと誘う台詞――「せんじつめれてみれば、あんまり気のきかない話だからね、ペストのなかでばかり暮してるなんて。もちろん、人間は犠牲者たちのために戦わなきゃならんさ。しかし、それ以外の面でなんにも愛さなくなったら、戦っていることが一体なんの役に立つんだい?」
この人間くさい、ひたすら地上的なカミュの思想のなんとしなやかでなんと力強いことか。連帯といって何も仰々しく捉える必要はない(非人間的な忠誠を求める機構はいつか地獄を招くだろう)。単純に考えればいい。一人は誰かを助けられる存在であること、一人は誰かの戦う理由になりうる存在であること、その程度の当たり前の認識でいい。人は観念のためには戦えない(観念だけで戦えるというのは、食糧や水が尽きても気合いがあれば戦えると説くのと同程度にナンセンスだ)。もっと具体的で直接的な理由からしか人は戦えない。
愛のないこの世界はさながら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や勇猛心にもうんざりして、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求めるときが来る


試練は人を鍛え、強くする。その意味で決して忌避すべき事象ではない。けれども、だからといって、たとえばいたいけな幼児の命を奪っていくような災厄は、決して是認できない。断固として反抗せねばならない。不条理の問題を同じように扱いながら、『異邦人』と異なる点について訳者は次のように述べている。
『異邦人』のムルソーの「自己への誠実」というモラルは、ほとんどまだ個人的な好尚の域を脱せず、行動者の規範としてよりも、むしろ否定的な面が強かった。『ペスト』において初めて連帯感の倫理が確立され、「不条理」との不断の戦いという、彼の思想の肯定的な面が力強く打ち出されたのである。

通しで読むのはこれで三度めになる。読み終えて、どこまでも地上的なその思想といい、リアリズムに徹した筆致といい、半世紀以上前に書かれた本作は時代や国境を越えて通用するすぐれた文学であるとの思いを強くした。福永武彦が本作のような社会的な視野も入れて『死の島』を書いていてくれたらよかった、という惜しむような気持にもなった。




4102114033ペスト (新潮文庫)
カミュ 宮崎 嶺雄
新潮社 1969-11-03

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