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zoom RSS 『ドルジェル伯の舞踏会』 ラディゲ

<<   作成日時 : 2014/03/23 00:00   >>

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糸。

ドルジェル伯爵の若き夫人マオは「時代おくれ」なほど貞淑な女で、夫以外の男との恋愛など考えたこともない。ある日、彼女は夫とともに出かけたサーカスで青年フランソワと知り合う。ドルジェル伯はこの青年を気に入り、夫が気に入ったのなら自分も好きにならなくてはいけないと思うほどに彼に従順で健気なマオは、やがて彼女自身の気持がフランソワへと傾きつつあるのを自覚する。清純、潔癖なことではマオに劣らないフランソワもまた彼女に惹かれている。女のほうは夫以外の男に恋心を抱いたことに苦しみ、男のほうは友人といっていいほどに親しい人の妻に恋心を抱いたことに苦しむ。同じように自分の不純さを責めながら、彼らはともに自分が相手から愛されていることも、そのために相手が苦しんでいることも知らない。そして遂に、自制の限界を悟ったマオはフランソワの母親に胸のうちを明かす手紙を送り、青年を牽制しようとするが、その手紙を母親から渡されたフランソワは自身が彼女から愛されていることを知って狂喜する結果になる。ちょうどその日はドルジェル伯爵邸で集いがあった。フランソワは心弾ませて邸へ向かう。一方のマオは、どうか来てくれるなと願っている。それなのにフランソワの姿を見ると彼女の気持は高揚する。青年の母親は彼を諭してはくれなかった。集いが終わり、客がひけたあと、恋心と倫理の狭間で揺れるのに耐えられなくなったマオは、とうとうフランソワを想っていることを夫に告白する。しかし彼女の苦悩は彼に届かない。

「清浄な心のやる無意識の操作(はたらき)」を分析すること、本作の主題はそれで、相手の挙動に絶え間なく動揺し続けるマオとフランソワ、二人の心をラディゲは解剖する。はじめ、マオは夫が好む相手だから自分もフランソワを好むのだと思った。フランソワのほうは、友人の妻だからマオを好むのだと思った。そうして薄々、本当は相手に恋しているのだと勘づいていながら、「清浄な心」のゆえに本心に蓋をして交際を続けてきた。むろんそんな無理をいつまでもできるわけもなく、先にマオのほうが持ちこたえられなくなり、フランソワの母親へ手紙を書いて、そのあとでは夫に自身の恋を告白するとは上に述べた。誰かに恋をすることは生きている人間の自然の感情で、結婚していようが変わりはない。われわれは魅力的な誰かに出会えば彼または彼女に惹かれずにはいられない。マオがフランソワに恋することによって、自分が、これまでは夫を愛していると思っていたけれど実際には違ったのだと漠然と感じるようになるのも自然による教えだったといっていい。恋人たちは自然の状態にいる、このことは本作を読むうえでひとつの鍵になるだろう。彼らが親しくなる直接のきっかけは田舎(自然)の美しさについての会話だった。
彼(筆者注、フランソワ)はしゃべった。率直にしゃべった。この率直さはさいしょは拒否のように感じられてドルジェル伯は少し気をわるくした。伯爵は誰かが(私は火が好きです)などということができるとは想像したことがなかった。これに反して、ドルジェル夫人の顔は生きいきとしてきた。彼女は暖炉の前の火除けより高くなっている革の腰掛にかけていた。フランソワの言葉は、野生の花を贈られたように、彼女をさわやかにした。彼女は鼻腔をひろげて深く呼吸した。彼女はかたく閉ざしていた唇をひらいた。二人は田舎の話をした。


マオとフランソワの二人が属している社会は貴族の社会で、そこは――プルーストがその小説中で執拗に描いたように――人々が本心を偽って交際する人工の世界だった(「伯爵は誰かが(私は火が好きです)などということができるとは想像したことがなかった」)。恋人たちは自然な感情の世界にいる、けれども彼らを取り巻く社会は人工(虚偽)の世界であり、この抑圧、あるいは分裂が、マオとフランソワを(ひそかに)疎外し、疎外された者同士の孤独の悲しみがいよいよ二人を強固に結びつけるという円環構造の恋愛模様(「恋心を増大させるあの悲しい気持」)を描いている。作者が小説の舞台を社交界としたのは、自然と人工の対比という図式を描く意図からだった。人工の世界を代表するドルジェル伯や、フランソワの友人でスノッブのロバンの捻れた心理。人から喜びを与えられても、素直に感情を表に見せては間抜けに見えるのではないかと恐れて偽りの表情を浮かべたり、愛してもいない女と情を通わせたりするのは虚栄心を満たす以外の目的をもたない。自然の欲求からそうしているのではないから儚い自己満足しか得られず、マオとフランソワが感じているような溌剌たる生の喜びなど望むべくもない。
あらゆる器官はその活動に比例して進化したり退化したりする。自分の心情を警戒しすぎた結果、彼(筆者注、ロバン)はもうあまり心情をもっていなかった。彼はこれで自分の抵抗力を増し、青銅化するつもりだったが、じつは自分を破壊していたのだ。到達すべき目標を完全にあやまっていたから、この緩慢な自殺をば、彼は自分の中でもっともいいものだと思っていた。これがよりよく生きることだと信じていた。しかし、心臓のはたらきをぴったり止める方法というのは、今までのところただひとつしか発見されていない。それは死だ。

しかし生命は虚栄の追求では不満だから、彼らに生きてあることの喜び、身体の内奥からこみ上げてくるような幸福感を与えてはくれず、ために彼らはいつも漠然とした飢え渇きを感じ、けれども解消する方法を知らないから絶えざる欲求不満から倦怠感を抱えて生きるしかなくなる(生の倦怠は当時の世紀病だった)。マオやフランソワが愛する戸外の空気、田舎の風景、「緑色したもの」の価値が、ドルジェル伯やロバンにはわからない。彼らは「人工的な雰囲気、人がいっぱい集まっていて強烈に照らされた室内にいないと気持が落着かぬ」。この相違が彼らの属する世界の相違である。恋愛によって「自己以外の人間になりたくない」と自覚する恋人たちと、常に仮装し「自己以外の人間になろう」とすることが習い性となっている上流人士たち。作中ではその準備までで舞踏会は開催されないのにタイトルが「舞踏会」なのは、つまりは上流人士たちの世界が仮装舞踏会にほかならぬことを示している(ただし虚栄心は人間が完全に排除できる感情ではないから、上流人士たちに限らず、たとえばフランソワが列車内で乗り合わせる「低い階級の女たち」にも備わっている)。フランソワはあるとき、自分の故郷にドルジェル伯夫婦を招くことを思いつく。というのも、彼は自分が子供のころを過ごした風景のなかにいるマオを見たくてたまらなくなったからだ。こういう無邪気さこそが自然であり、自然な感情だけがわれわれに喜びを与えてくれる。いや、喜びだけではない。本当の苦しみもまた自然な感情だけが与えてくれる。フランソワの母親に手紙を書き、どうかもう自分のもとへ来ないよう息子さんを諭してくれと訴えたマオなのに、いざその晩フランソワが邸に姿を見せないと安堵しつつも切なくなる。「なにかせつない気持がするのは、つまり、最後の瞬間まで彼が来るものと信じていた証拠なのだ。来るなという指図に彼がしたがうのは道理だと思いながら、その指図にそむかなかったことがやはり苦しいのである」。喜びも苦しみも、小賢しく自己を偽っている人間の胸に宿ることはない(彼らは他人を騙すつもりで自分自身をも騙して得意になっている)。上流人士たちはいわば生きながら自らを屍にしているのだ。屍だからもう何も感じない。自らが死んでいることにも気づかない。

ラディゲはヒロインに歴史的な名門の出とか植民地生まれといった特徴を与えて、「現代風俗のしみこんだパリ社交界に育った上流人的性格と対照させ」(「ドルジェル伯爵夫人のそれのような心の動きは時代おくれなのだろうか」)、フランス文学の伝統である恋愛心理小説の祖である『クレーヴの奥方』に学んだ貞潔な恋愛が孕むエロスを追求する(「もっとも純潔でない小説とおなじくらいにみだらな貞潔な恋愛小説」――作者による覚書)。マオは、「クレーヴの奥方より現代化した社交的洗練の中に生きつつ、恋愛によって彼女の内部によみがえった孤独な、自然な感情が、十七世紀の宮廷よりさらに複雑化した《仮装舞踏会》の虚偽と人工の中にあって苦しんでいる」。悲しみの糸で恋人たちが結ばれているとはすでに述べた。種類は異なれど、祖国から追放されるという、やはり悲しみに沈んでいたナルモフ男爵は直感的に彼女の苦しみを見抜く。あの人のなかには自分とよく似た悲しみがある、きっと。他人である男爵の目には見えたのに、夫であるドルジェル伯には妻の心が見えない。彼にとって彼女は妻という所有「物」でしかなかったのか。妻が切れ切れに吐露する苦しい胸のうちを夫は本気にしない。すでにそれほどまでに彼の仮装は肉に食い込んでいた。ただ、彼女がフランソワの母親に手紙を書いたというと、第三者の目を意識して途端に慌て出す(「人前で起る事柄だけしか現実とみとめられない、ドルジェル伯の性格」)。社交界の頽廃に毒されてもはや生きる屍となってしまった夫を、このときようやくマオは発見するだろう。
最後のところでからだが落下するああいう夢の中にいるかのように、彼女はしずかに枕の上に寝た。こういう落下ははっと目ざめさせる。彼女は目がさめた。起き直った。彼女は夫をじっと見た。が、ドルジェル伯は自分の前にいるのがいままでと変った一人の女性であることをさとらなかった。
マオは、別の世界に坐して、夫を眺めていた。伯爵は、自分の遊星にいて、起った変化にはまるで気づかなかった。そして、狂熱的な女のかわりに今では一つの彫像に話しかけているのだった。

いまこそマオは悟った、夫と自分は永遠に他人なのだと。か弱い、主体性のない人形(イプセン)のようだった女が新しい生に目覚め「起き」る瞬間、小説は終わりを迎える。ヒロインがこれまでの錯誤を自覚するこの箇所こそ本作の勘所だと堀口大學は述べている。

ドルジェル伯爵は妻が理解できず、「眠りなさい」と軽薄に諭して彼女の前から姿を消す。明かりが消された寝室にマオ一人が取り残される。(真実に)目覚めてすぐなのに眠りへの誘導とは、自然の感情などは眠らせておけという伯爵の意図とも読める。この夜のあとでマオとフランソワの関係はどうなったのか、小説は想像の余地を残して終わる。それでいいので、マオとフランソワが恋愛(不倫)関係になったとしても、あるいはマオが強い意志を発揮して二人がもう会わないことになったとしても、どちらの結末であっても彼らのプラトニックな恋愛は終わってしまう。それは作者の本意ではなかったはずだ。揺れる想いを抱えながら眠れぬ夜を幾夜も重ねるような恋愛初期のあの甘美な憂鬱を描くことがラディゲの意図ではなかったか。その状態を彼は、清らかなエロスと見ていたのではなかったか。だから物語はヒロインの恋愛感情が頂点に達して、遂に持ちこたえられなくなった彼女が夫に一切を告白する寝室の場面で終わらなければならなかった。それ以上進んでは趣旨から外れてしまうから。

『肉体の悪魔』には感心しなかった記憶があるが、自然と虚偽を対比させながら貞潔な恋愛の美を控えめに訴える本作には感動を覚えた。生命感の希求は執筆時の作者の健康状態を反映しているだろうか(本作は夭折したラディゲの遺作になる)。ただ、殆どひとつひとつの言動ごとに加えられる心理分析は読者によってはうるさく感じるかもしれない。



4102094016ドルジェル伯の舞踏会 (新潮文庫)
ラディゲ 生島 遼一
新潮社 1953-08-27

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三島由紀夫が「少年時代の聖書」にしたという堀口大學訳だが、「だった」が多用される文体は単調で、管理人には新潮文庫の生島訳のほうがのびやかで好ましい。また、マオ(マアオ)の手紙が候文なので現代の読者には読みづらいかもしれない。安藤元雄氏はラディゲの文体について、原文は「ひとことでも読み落したらたちまち理解不能となりそうな、ぎりぎりの限界のところに成立している。その簡潔さと冷静さは、さながら白熱電球のフィラメントが、細い一筋の短い糸でありながら強烈な光を放つさまを思わせる」と解説している。

406196383Xドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)
レイモン ラディゲ Raymond Radiguet
講談社 1996-08

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