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zoom RSS 『居酒屋』 ゾラ

<<   作成日時 : 2014/04/10 00:00   >>

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どん底。

19世紀のパリ。屠殺場と病院に挟まれた陰鬱な通りの一角で、洗濯女のジェルヴェーズは(内縁の?)夫ランチエと二人の男の子の四人で暮らしている。鎧戸は腐り、ガラスにはひびが入っている貧しい借り部屋暮らし。ランチエは仕事をせず女と遊びほうけ、ジェルヴェーズ一人の稼ぎでは一家四人が暮らしていくのがやっとだった。ある日突然ランチエは妻子を捨てて出て行ってしまう。悲嘆に沈むジェルヴェーズに、彼女を以前から想っていたブリキ職人のクーポーが声をかける。長い年月をかけて幾度となく繰り返される彼の求愛にとうとうジェルヴェーズは応え、二人は結婚する。クーポーはランチエと違って酒を殆ど飲まず、真面目に働く堅実な男だった。その点が、遊び人の男に捨てられたジェルヴェーズの目には好ましく映った。二人は稼いだ金を地道に蓄え、暮らしには少しずつ余裕が生まれる。やがてあばら屋からもっと広くて清潔なアパートへ引っ越し、新しい家財道具を入れて、金銭が許す限り精一杯贅沢に部屋を飾る。新しいテーブルや椅子や箪笥や振子時計はジェルヴェーズにとってわが身にも等しい宝物だった。やがて夫婦のあいだに娘が生まれ、ナナと名付けられる。長男のクロードは彼の画才を見込んだ人の家に養子に出され、次男のエチエンヌは知人の紹介で工員として働いていた。堅実な生活のおかげである程度のまとまった金を手にしたジェルヴェーズは日ごと自分の店をもつという夢を強くしていく。クーポーもこの夢を応援し、善意あふれる隣人の助けもあって、遂に彼女はそれを実現する。ジェルヴェーズの仕事の腕は確かだったから彼女の店はおおいに繁盛した。夫は仕事に出かけ、自分は人を雇って商売をし、子供たちも無事育っていく。かつての貧窮生活は悪い夢だったような、そんな順風満帆で幸福な日を送る彼女のまえにしかし、ある日、去ったときと同じように唐突にランチエが再び現れる。紳士の仮面を付けたランチエにクーポーはやすやすと騙され、彼に影響されて仕事にも行かず酒浸りになる。やがてランチエは一家の住居で寝起きするようになり、紳士の仮面の下に隠していた下衆の本性を現していくだろう。住居、食事をともにするのみならずジェルヴェーズも男二人の「共有物」になり、堕落を嫌悪しながらも環境に抗えず、だらだらとその日その日を送るうちに一家の暮らしはどんどん荒んでいく。仕事は雑になり、客足は遠のき、いつしか以前よりももっとひどい貧乏に陥り、けれども怠け癖がつき、アルコールの毒で壊れてしまった夫婦は生活を改めることをせず(できず)、近所の鼻つまみ者になるしかない。クーポー一家が落ちぶれて利用価値がなくなると、ランチエはさっさと見切りをつけて再びジェルヴェーズを捨て、べつの一家をそそのかして店を奪い、今度はその一家に寄生する。自分の店を失ったジェルヴェーズは希望をなくし、自棄になり、酒に溺れて浮浪者のような暮らしを送るまでになる。何のために生きているのか、希望も夢もなく、惰性と、死ぬことの恐怖のためにただ生き続けようとするような最底辺の生。アルコールが祟ってクーポーは狂い死に、ジェルヴェーズは路上と殆ど変わらないような屋根裏部屋でひっそりと飢え死ぬ。

本作は「ルーゴン・マッカール叢書」の第七巻。新聞連載中から下層労働階級の悲惨すぎる描きかたに非難が殺到したものの、単行本が刊行されるやベストセラーとなる。ジャーナリストを自称したゾラは、社会の底辺で生きているような人々を過剰なほど露悪的に描いてこれが真実なのだと述べる。本作の主題はジェルヴェーズの転落だろう。彼女は決して怠惰な人間として設定されてはいない、少なくともはじめは違う。不道徳な怪物でもない。周囲の悪環境の犠牲者である、ゾラはそう見ている。「わたしの作中人物は不道徳ではないのである。彼らはその生きている苛烈な労働と貧困のせめぎあう環境のために、無知となり毒されているまでのことである」(「序」)。人間は弱い。水が高きから低きへ流れていくように、つい気が緩むと安易で楽できるほうへと流されてしまう。はじめはたいして問題だとも思わない。今日一日だけ大目にみよう、そう自分に言い聞かせて甘やかせば、明日も同じことをしているのに気がつく。こんなふうに怠けるのも今日だけだ、明日からは心を入れ替えて真面目にやる、しかしその明日はいつまで経っても来ない。明日とはいまの未来であるのだから、いまを変えることなしに明日が変わるはずもなく、頭ではわかっているのに軌道修正するとなれば道から逸れたときの何倍もの努力が要るから億劫になる。本作の登場人物たち、ことにジェルヴェーズとクーポーの二人は、そういう、誘惑に弱いわれわれの戯画として描かれている。そしてアルコール。心地よい酩酊はクーポーを怠惰に陥らせ、妻をも巻き込んで彼らを破滅させる。屋根裏部屋で、古い藁を寝床にして、寒さと空腹に歯をがたがた震わせながら、ジェルヴェーズは孤独な死を迎える。住人たちが彼女の死に気づいたのは、「廊下にひどい臭いがするから」だった。周囲の誰も、彼女の死に心を動かされない。酔っ払いがまた一人死んだ、それだけのこと。そんな、生ける屍のような彼女とて、かつてはその美貌と真面目な働きぶりと払いの良さから界隈の誰からも一目置かれる存在であったのだが。

怠惰、貧困、不潔は兄弟のように結ばれている。われわれ人間は弱い。弱いうえに狡猾だから、自らの弱さの言い訳をいくらでも思いつける。自分だけが汚れた人間なのではない、周囲のみなが同じように汚いことをしているではないか、と。周りを低めれば自分の低さが正当化できるとでもいうのか。その発想自体が、彼または彼女の精神の貧しさを現している(「或る人間の高さを見ようと欲せず、それだけいっそう鋭く、その人の下劣な点や表面的なものに目を向ける者は、――そうすることによって自分自身の正体を暴露するのである」――ニーチェ)。貧すれば鈍するの言葉通り、貧困は人の心を荒ませる。僅かな金のために人間の尊厳も矜持も手放して微塵の痛みも感じない。ジェルヴェーズは、かつて自分があんなにも夢見てようやく手に入れた店が人手に渡ったあと、その店に掃除人として入っていっても惨めさを覚えない。かつて彼女を熱烈に愛してくれた男と再会しても、愛だの恋だのよりも、飯を食わせてくれるかどうかしか気にならない。飯を食うためなら身体を提供することもためらわなかっただろう。
当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどう蹴飛ばされても、いっこうに感じなかった。

「尊敬にたいする欲求」は人間の尊厳だが、それとて極貧生活のなかで失われた。貧しさは彼女を打ちのめし、彼女の家族を壊してしまった。
むろん、季節ごとに一歩一歩と転落してゆくのは、家族みんなが悪いからだ。しかし、どん底に落ちたときには決っしてそんなことは考えないものである。彼らは不運を呪い、神様に恨まれているんだと言い張った。いまや、家のなかは滅茶苦茶だった。一日じゅう、彼らは毒づきあっていた。だが、まだ叩きあうところまではゆかず、せいぜい口論がすぎて平手打ちが飛ぶくらいのものだった。いちばん悲しいのは、彼らが愛情の鳥籠をあけっ放しにしたために、たがいの気持がカナリヤのように飛び去ってしまったことだ。家族の者が寄り添い重なりあって暮しているのに、父、母、子供のあいだの温かい情愛はクーポー一家から消えてしまい、みな自分だけに閉じこもって、がたがた寒さに震えていた。クーポーもジェルヴェーズもナナも、三人ともいつも喧嘩腰で、憎しみを目に漲らせ、ちょっとした言葉にも啀み合った。なにかが、しあわせな家庭でみんなの心を一緒に鼓動させるあの機械、家族の大きな歯車が、壊れてしまったようであった。

ナナは祝福されて生まれてきた子だった。クーポーもジェルヴェーズも堅実によく働いた。よりよい暮らし、よりよい人生、つまりは幸福を手に入れるために。それなのに歯車は少しずつ狂い回り、やがて取り返しがつかないほどの損害を彼らに与えたのだった。それを自業自得というのはたやすい、しかし誰が他人事だと笑えるだろう。

苦しい始まりだった。男に捨てられ、子供二人を抱えて懸命に働いて、堅実な(と思われた)男と結婚して、日ごと少しずつ暮らしが豊かになり、遂に自分の店を持ち、人を雇えるようになり、商売は順調、近所の人たちが嫉妬まじりに羨望するような人生を手に入れた。そんな毎日がずっと続くと思っていた。なのに、別れたはずの男が再び現れ、呪いのように彼女を破滅へと導いていく。真面目ではあるが意志の弱い夫も、彼女を地獄へと招く案内人の役を果たす。幸福へいたる道は長く険しく、反対に転落するのはたやすく、一瞬の油断があればいい。当然過ぎて見落としてしまいがちな人生の危うさを見せられるようで、改めて慄く。
彼女は暗闇のなかを七階まで上りながら、笑いださずにはいられなかった。われながら気持の悪くなるいやな笑いだった。彼女は昔の理想を思い出していたのだ。心やすらかに働き、毎日パンを食べ、寝るためのこぎれいな部屋をもち、子供をちゃんと育て、打たれることもなく、自分のベッドで死ぬということ。いや、まったく、おかしな話ね。なにもかもあべこべじゃないの! あたしはもう働きもせず、食べもしないで、ごみの上に寝ている。娘は淫売みたいなことをやり、亭主ときたらびしびし殴りつける。残るところは往来でくたばるだけ。それも、部屋へ帰って窓から身を投げる勇気さえあれば、すぐにも成就するというわけだ。あたしは、三万フランも年金がほしいとか、人から尊敬されるようになりたいなどと神さまにお願いしたことがあったろうか? ああ! まったく、この世の中じゃいくら慎ましくたって無駄なんだ。どうしたって駄目なのさ! 食い物もなければ、塒もない。これが人間だれしもの運命なのだ。いちだんとにが笑いがこみあげてきた。二十年間アイロンかけをして働いてから、田舎にひっこんでのんびり暮らすというあの素晴らしい昔の夢を思い出したのだ。なるほど、それじゃ、行こう、田舎へ行こう。ペール・ラシェーズの墓地で芝生の片すみを手に入れよう。


ひどい空腹でものも考えられない、自分がどんななりをして、どんなふうに他人の目に映っているのかなんて想像する気力もない。しかしどんなに惨めな、他人からはなぜ生きているのかと訝られるほどの状況にあったとしても、人間は生きていたいのだ。食い物にありつくためなら、町に立って男の袖を引くことくらい何でもない。そのうちにクーポーはアルコールに脳をやられて病院送りになり、幻覚や幻聴を訴えだす。見舞えば、遠からず自分もこうなって死ぬのだとジェルヴェーズには予想される。住居へ帰ってくれば、近所の幼い女の子が、やはりアルコール依存症の父親に滅茶苦茶に殴りつけられて死んでいる。酒が入るとどうしても女を殴りたくなるといって、彼は妻に続いて娘も殴り殺してしまった。タイトルが示すとおりの、容易に手に入る麻薬としてのアルコールの害をこれでもかと述べる本作を読んでいると、たびたび、西欧の歴史において人々の健康と活力をもっとも損なったのは、キリスト教道徳とアルコールだと喝破したニーチェが連想される。

本作についてゾラは、「民衆についての真実の書、民衆についてのはじめての小説である」と述べている。第二帝政期のパリの下層民の日常はこんなにも悲惨であったのか。僅かな例外を除いては、登場人物の大半が、周囲への悪意と嫉妬を抱き、日々を不機嫌に生きており、彼らの設定や描写が露悪的に過ぎると思わないでもない。貧困はたしかに心を冒す。けれども人間はここまで醜悪な存在になりきれるものでもないだろう、そう思うのは管理人が能天気だからだろうか。毒が強いので戯画とでも思わないと読めないという気持もある。天使のような幼女ラリー(前述の、父親の暴行で死ぬ女の子)と、ジェルヴェーズにひそかな想いを抱き続ける工員のグージェの二人だけが例外的な善良さを発揮しているが、この二人には本作に明るさを与えるだけの力はない。愛や善意は無力で、死だけが(苦しい)人生の唯一の救いであるかのように描かれている(「貧しい人々の死」――ボードレール『悪の華』)。観念とは無縁の作風であり、日本語の文章として読みやすい平明な翻訳のおかげもあって分量のわりにすらすら読めるが、あまりに暗鬱なので管理人は好まない。同居している祖母の死に、性行為を覗き見るときのような興奮を覚えたり、子供ながらにしなを作って男の気を引いたりと、ゾラは少女ナナを悪趣味に造形し過ぎではないかと感じる。そして下衆の極みのランチエという人物に、小説を読んでいて久しぶりに激しい嫌悪を覚えた。ジェルヴェーズの物語は本作で完結し、彼女の子供たちは、長男のクロードが画家になり、次男のエチエンヌが工員から炭鉱夫になり、ナナは高級娼婦になる。成長した彼らの姿は、『制作』、『ジェルミナール』、『ナナ』で読むことができる。



4102116036居酒屋 (新潮文庫 (ソ-1-3))
ゾラ 古賀 照一
新潮社 1971-01-01

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