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zoom RSS 『地図と領土』 ミシェル・ウエルベック

<<   作成日時 : 2014/04/27 00:00   >>

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希望か、絶望か。

ジェド・マルタンは芸術家で、工業製品やミシュランの地図を写真撮影したのち油彩画に転じ、様々な職業の人たちの肖像を描いている。彼の作品はどれも独創的かつ美しく、超高額で取引された。もっともジェド自身は金銭欲は強くなく、すでに一生かけても使いきれないほどの莫大な財産をもっていながらひっそりと暮らしている。彼には友人と呼べるような親しい人は一人もいなかったが、展覧会への寄稿を依頼した作家ミシェル・ウエルベックには惹かれるものがあり、ジェドと同じくやはり隠者のように暮らしている作家のほうでも、ジェドとの交友は決して不快ではない様子だった。ウエルベックの大部の寄稿は展覧会の成功に寄与し、返礼にジェドは作家の肖像画――彼の油彩画の最高傑作――を描いて贈る。しかしウエルベックはある事件に巻き込まれてジェドのまえから姿を消してしまう。唯一の身内である父親は相談もなく安楽死を遂げ、天涯孤独になったジェドはいまは亡き祖父母の家に戻り、今度はビデオ映像による芸術制作をはじめる。彼なりに「世界を説明」することを目的として。

本作は今日の産業社会への批判を主題としている。ミシュランの地図を撮影した写真はジェドを現代アートのスターダムに押し上げ、本人が望むと望まないとに関わらず彼の作品は日本円にして億単位で取引されるようになる。そこに制作者であるジェド自身が介入する余地はない。誰かによって高値がつけられればそれは高値で取引される価値のあるものとされる、それだけのこと。作り手の思いとは別の次元で値段が付けられ、金がやりとりされる社会。芸術制作もひとつの経済活動なのだ(ただしジェドはこうした社会システムには無頓着で、半ば傍観者のように事態の推移を眺めつつ、あくまで一人の制作者であり続ける)。訳者はあとがきで次のように述べている。
アートの世界はいまや投機的なゲームの場となっており、(略)「何もかもが市場での成功によって正当化され、認められて、それがあらゆる理論に取って代わるというところまで来ている」。

「いまや」とあるが、すでに100年以上も以前に、ゾラは投機の対象となっていく美術の世界を『制作』で描いている。芸術もまた人の営みであるから、資本主義社会において経済と無縁ではありえない。芸術作品も工業製品も等しく商品として扱われる。名声は富と手を繋いでやって来る。作中でジェドが、自身が「アーティスト」であることを自嘲的に自覚する場面がある(「「ぼくがアーティストだぞ」といった種類の、いささか仰々しいこっけいなせりふ」)。芸術家という肩書きが、今日では幾分かの滑稽さと胡散臭さ――意地悪くいえば「(笑)」マークをつけたくなるような――なしには口に出来ない理由は、資本主義社会においては芸術も経済に組み込まれてあることと無縁ではないだろう(それはまた、たとえば詩人や哲学者といった肩書き(職業?)にも共通しているように思える)。ご大層な肩書きだが、それで食えているのか、という侮る気持。現代は、数値化できる稼ぎの多寡がその人の「価値」の判断基準としてもっとも幅をきかせる世の中であるというほどのことなのだろう(次点がビジュアルだろうか)。

ジェドはずっと知らずにいたが、建設会社を経営する父親も、いまでこそ世界各地のリゾート開発に明け暮れているが、若いころはウィリアム・モリスに心酔し、アートとしての建築を夢見た人だった。ジェドが最後に制作するのは産業社会の滅びをイメージさせるようなビデオ作品だが、それが、人間の欲望を刺激する形態へと自然を開発(破壊)する父親と好対照をなしている。彼が引退後に老人施設に入居し、最終的には息子には黙ってスイスで安楽死を遂げるとはすでに述べた。彼が、自立する息子へ贈った餞の言葉。
「表現への欲求、この世に自分の足跡を残したいという欲求は強力なものであるはずだ。ところが一般的にいって、それだけでは十分ではない。いちばんの動機、自分の力を超えたところまで人間を引っぱっていく強烈な力、それはやっぱり、単に金銭的な欲求なんだよ」。

家族の生活のために若い日の夢を手放さざるを得なかった彼の境遇を勘案すると感慨深い発言であると思う。

全三部のうちジェドとウエルベックの物語が二部を占め、最後の三部はウエルベックが巻き込まれた事件と、それを追う刑事たちの物語が展開する。ここで作者が、作中人物としての自分に演じさせた役割はショッキングなもので、謎を解明すべく刑事たちとともに読者も推理をはたらかせることになるのだが、結局は経済の問題であると明らかになれば、肩すかし半分、しかし本作の趣旨上そうに決まっているという納得半分の複雑な気分になるのではないか。

あらゆるものが経済によって測られる社会への呪詛と悲嘆。『素粒子』や『プラットフォーム』も社会批判を主題としていた。が、それらと本作とを隔てるのは作者の主張のトーンだ。やぶれかぶれな激烈さはなくなり、代わって悟ったような諦念がある。それがもっとも顕著に出ているのが、ウエルベックが自分にとって理想的だった三つの工業製品についてジェドに語る場面だろう。あるブーツと、あるノートパソコンと、あるマウンテンパーカ。どれも寿命がきても買い替えて一生使い続けたいと彼に思わせた製品だった。しかし、それらひいきにしていた製品は、数年もすれば生産停止となり、店頭から姿を消してしまう。ずっと使いたいという消費者としての思いが製造者に顧みられることはない。
「容赦ないですよ。ね、容赦ないんです。どんなつまらない種類の動物だって、絶滅するまでには何千、何百年もの時間がかかる。ところが製品は数日で地球の表面から抹消されてしまう。敗者復活のチャンスは決して与えられない。製品ラインの責任者たちの無責任な、ファシズム的な決定をただ無力に受け入れるばかりなんだ。責任者のみなさんはもちろん、消費者が何を望んでいるかをだれよりもよくわかっていて、<新製品への期待>を感じ取ることができるというわけさ。そうやって実際には消費者の人生を、辛い、絶望的な探求に変えてしまう。たえず変更される商品ラインのあいだでの、果てしない彷徨に変えてしまうんだ」

現代の産業社会が突きつけてくる無慈悲さに対するウエルベックの怨嗟に攻撃的なところは殆どない。もはや闘争の意志はなく、遁走の構えになっている。訳者は、「この作品によってウエルベックは何かふっきれたのではないか」と述べているが、円熟したということなのだろう。本作の基調はペシミスティックなものだが、悲観一色というわけではない。それは、人類は滅亡しても生命が絶滅するわけではないといいたげなラストシーンにもっとも顕著だし、ほかにも、活字メディアをもはや「終わったもの」と見なしながらも、作中ではジェドの父親や若い刑事が文学(ウエルベックやネルヴァル)を読んでいたり、世界は「芸術的感動の主題ではありえない」としながら、そこに美しさを求めるのを止すことができない人間の性を述べているあたりにもほの見える。希望、と呼ぶには弱すぎるかもしれない。しかし本作はこれまでのウエルベック作品とは少し趣が異なって不思議なすがすがしさがある。これまでは毎回過激な性描写(「エロスではなくセックス」――池澤夏樹『短篇コレクションU』)が見られたが、本作ではかなり控えめで、そのあたりの機微にも円熟味を感じる。ただし、例のごとく主人公に惚れる、才能豊かな絶世の美女は登場しているが(ウエルベックのヒロインたちの美貌や才能は、にも関わらず彼女たちが決して幸福にはなれないという悲劇性をより効果的にするための装置として機能する)。死――というよりは老い――の強迫観念も未だ彼の小説から去っていない。これは日本も同じく抱えている現代の病いだろうか。年をとり、外見は衰え、身体機能が弱体化していくことへの恐怖。

固有名詞の頻出という本作のカタログ的要素は、産業社会を皮肉った戦略であるのだろう(広告媒体としての小説)。表現形式に凝りながら筋の面白さという小説の骨格部分を決してなおざりにしないから、ウエルベックの小説は新しいのが翻訳紹介されるたびに読みたくなる。



4480832068地図と領土 (単行本)
ミシェル ウエルベック Michel Houellebecq
筑摩書房 2013-11-25

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訳者による、翻訳をめぐるエッセイ。「翻訳という行いの根底には、人間のうちに元来備わっている、真似することへの奥深い衝動があり、反復することへの理屈抜きの促しがある」。ゲーテ『ファウスト』をめぐる鴎外やネルヴァルの翻訳エピソードが楽しい。トゥーサン、ヴィアン、ウエルベックへの言及がある(執筆当時翻訳中だった『地図と領土』にもふれている)。現在はネルヴァル『火の娘たち』の翻訳中であるという。
4309022510翻訳教育
野崎 歓
河出書房新社 2014-01-21

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